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9 獄門 

寒い。黴臭くて寒い。


雪崩るようにして逃げ込んだ廃墟の中は呆れるほど何も残されていなかった。

当然だけど、人を怖がらせて楽しませることを目的に作られた遊園地のお化け屋敷とは全くの別物。


汚らしいだけの空っぽの空間。

今の私と全く同じだ。


すり傷だらけになった膝を抱えながら私はノロノロと考える。


どうしてこんな事になったんだろう……。

予定では今頃、ありとあらゆる苦悩から解放されていたはずだったのに。


だけど……私の苦悩って、具体的になんだったっけ?


ついさっきまでゴチャゴチャ頭の中でとっ散らかっていたけれど、あの化け物――魚のような頭と人間の女の胴体をくっつけたような、グロテスクとしか言い表しがないような怪物の姿を一目見た瞬間、全てが吹き飛んでしまった。


認めたくはないけれど、認めざるを得ない。

私がこの一か月の間メッセージでやり取りしていた相手。

それがあの化け物、ライセサマだ。


私は騙され、誘い出されたのだと思う。

あんな化け物が神様なわけがないし、楽園なんて最初から嘘っぱちだったのだ。


気がつけば私は固くにぎりしめた拳に齧りつくようにして咽び泣いていた。


怖かった。だけど、それ以上に悔しかった。

多分、あの化け物は高みの見物を決め込んで私が飛び降り自殺するさまを眺めているつもりだったのだろう。


「……アキ子ちゃん。うちの話、聞いてくれる?」


遠慮がちな声が聞こえた。

背中にそっと触れた手の感触に私はビクッとなって振り返る。


すっかり自分の世界に入り込んでいたから存在を忘れかけていたけれど――、塚森キミカとか言う女の子だ。


「取り敢えずやけど――目的地、決めとこ」


「……も、目的地?」


「そう、目的地」


顔に付いた泥を拭いながらキミカ――、いや、キミカちゃんが言った。

キミカちゃんの顔は私に負けないぐらい真っ青だったけれど、その口調は随分と冷静だった。


「ここで少し休憩したら、ちょっと遠いけれどまずは夢ノ宮駅に行こ。……そこまで行けばスマホも通じるようになるから助けも呼べるやろし、それが無理ならタクシーに乗って逃げてもええ」


「……に、逃げるって? ど、どこに?」


「アキ子ちゃん。童ノ宮って神社、知ってる?」


「わ、童ノ宮……?」


思い出すのに数秒かかった。

確か――、ナントカ天狗とかいう神様をお祀りしている神社だ。

本当かどうかは知らないが、火伏や厄除け、安産、子どもの守護にご利益があると言う。


「お参りしたことはないけど、名前ぐらいなら……」


「そっか。話が早くて助かるわ」


小さく息をつき、キミカちゃんが言葉を続ける。


「うちは童ノ宮とはちょっとしたご縁があって……。あそこの神様にはこういうことがある度にお世話になってんねん。アキ子ちゃんのことを知ったんも神様からお願いされたからなんよ。その、命を落としそうやから助けたってくれって」


思わず私はキミカちゃんを見返してしまう。

こんな状況でもなければ頭のおかしい痛い子、と一笑に付していただろう。

もっとも私に他人のことをとやかく言えた義理はないのだが。


「……いや、ちゃうな。うちに頼みごとをしてきたんは神様やなくて――、神様が連れてきたぬいぐるみや。半分焼けたうさぎのぬいぐるみ」


この子、知っているんだ……。

淡々とつむがれるキミカちゃんの言葉に私は戦慄を覚えていた。


私がラビ太にやったことを。

最低最悪と言っても差し支えない、裏切り行為を。

気がつけば私は滝のように冷や汗をかいていた。


「あ、誤解せんといてな? アキ子ちゃんのこと別に責めるつもりないから。あのライセサマとか言うモウジャに血迷ったことさせられとっただけやろうし……」


それに、とキミカちゃんが続ける。


「――そもそも、うちに誰かのこと責める資格なんてないから」


その口元がいびつな形に歪んでいるのを私は見た。

それは私にとってもなじみ深い感情――、自嘲する時の表情だった。


「それはともかく――、童ノ宮の敷地に飛び込めばうちはお役御免や。後は神様がアキ子ちゃんを守ってくれるわ」


「……神社に逃げ込むってこと? それだけ?」


思わず私はキミカちゃんに聞き返していた。


「駅に着いたら警察を呼んだほうが良くない?」


「普通のおまわりさんに怪異の対処なんか無理やって。青龍機関みたいに特殊な装備で武装してたら話は別やけど。……あの人ら、街一つ潰すぐらいの怪異でも現れへん限りは動いてくれへんからなぁ」


ため息をつき、よく分からないことを口にするキミカ。

その情報量の多さにしばらくの間、私は思考停止を余儀なくされる。そもそも地頭が悪いのだから仕方がない。


「ホンマはこんな風に赤の他人に教えたらあかんねんけど――、アキ子ちゃんもうちほどじゃないにせよあちら側のやつらに因縁つけられやすい体質みたいやし……。万が一、逃げ切れずにあいつに捕まったら……」


私の耳元に口を寄せ、ひそひそとキミカちゃんが囁く。

それは短く、聴き慣れないコトバだった。脳が揺さぶられる感覚に一瞬、気が遠くなりかける。


「……ほな、そろそろ行こか」


そっと立ち上がり、キミカちゃんが言った。


「いつまでも一か所におったら嗅ぎつけられる。せっかくリョウが時間稼ぎしてくれたのに……」


リョウ。その言葉に私はギクリとする。

そうだ、あの大きな男の人……。あんな化け物相手に自ら盾になって私達を逃がしてくれた。

もし、あの人に何かあれば、殺されるようなことがあったら。


全部、私のせいだ。

私が化け物の口車に載せられて、あんな馬鹿なゲームを始めたから……!


「……リョウのことなら大丈夫」


そんな私の心情を悟ったのか、キミカちゃんがまた声をかけてくる。


「あいつ強いし、殺されても死なへんから」


「そ、そんな……」


「ともかく、まずは童ノ宮まで逃げ延びんと。あれこれ考えるんはそれからや」


無理な笑顔を浮かべ、キミカが手を差し出して来る。

少し逡巡し、私がその手を取り立ち上がった時だった。


天井近くの窓が激しい音を立てて砕け散った。


それと同時、丸くて毛の生えた物体が投げ込まれ、ゴロンと床に転がる。


自然と、自分の口が大きく開くのを感じた。

できれば力の限り叫びたかったができなかった。


私の足元に落ちたそれは苦悶の表情に歯を食いしばった男の首だった。


「……リョウ、さん」


やっとその名を口にした時――。


ベチャリと湿った音を立てて、正面の入り口からあの化け物――ライセサマが廃屋の中に入ってきた。ぬめぬめとした鱗に覆われた腕を伸ばし、ドアの縁に鉤爪を立てて。


私のすぐ隣ではキミカちゃんが全身を強張らせ立ちすくんでいた。


「私は今、あなたに問いかけています」


分厚く腫れあがった唇を蠢かせ、ライセサマが人間の言葉を発する。

それは柔らかな女性の声だった。それでいて、音声ソフトで合成したかのように機械的な声。


「――ライセサマ・チャレンジに参加しますか?」


頭の中で軋むような雑音が響く。


その痛みに耐え兼ね、私は絶叫していた。

今度こそ、喉から血を吐き出すような勢いで。


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