アキ子ちゃんのこの世の終わりを告げるような絶叫がうちの耳朶を震わせる。
できれば駆け寄って寄り添ってあげたかったけれど、無理だった。
うちはただ、その場に立ち尽くす以外、なす術もなかった。
予想できていたとは言え、この場で起きていることはあまりにも情報量が多く、凄惨が過ぎた。
まず、目の前に転がるリョウの生首。
もちろん可哀想だし、胸も痛むがそれ以上に胴から切り離された首というものにはそれを見る人間の精神を狂わせる作用があるのかも知れない。
その証拠にうちは今、全く笑えない状況であるにも関わらず、腹の底から爆笑したいという衝動にかられている。人間は極度にストレスを感じると自然と笑いで自衛するというが、それとはまた別物だ。
今、少しでも笑い声をあげれば、きっとうちはうちでなくなる。
いわゆる、頭がパーンというやつだ。
それを肯定するかのようにベチャベチャと湿ったイヤらしい音を立てて、あの半魚人のような怪異――ライセサマがうちらの前で両腕を広げてくる。出入り口への経路を遮ろうという魂胆なのだろう。
そして、
「――ライセサマ・チャレンジに参加しますか?」
その一言にうちは戦慄していた。
粘つくような悪意に満ちたライセサマの言霊がアキ子ちゃんではなく、ウチを標的にしていたことを肌感覚で感じ取ったからだ。
「――ライセサマ・チャレンジに参加しますか?」
またライセサマが言った。
え、ちょっと待って。
ライセサマ・チャレンジって何?
どんな内容か見当もつかないが、怪異の名を冠している以上、ろくでもないものに決まっていた。
「――ライセサマ・チャレンジに参加しますか?」
怪異が同じことを繰り返す。
やらない。絶対、やらない。
そう答えようとするが、舌が回らない。毒物でも舐めたかのようにうちの舌は根元まで痺れていた。多分、うちの抗う意思を挫こうとする怪異の発した言霊の威力だろう。
やばい、喋られへん……!
喋られない、――唱え事ができない。
つまり、それは童ノ宮の神様を助けに呼べないということで……。
と、その時だった。
うちのかたわらで絶叫をあげ続けていたアキ子ちゃんがゲボッと苦しげな声とともに赤黒いものを口から吹きこぼす。
全身を痙攣させながら、その場に倒れ伏すアキ子ちゃん。
思わずアキ子ちゃんの名前を叫ぼうとしたが、やはり声は出ない。
そんなうちに向かって、ライセサマがゾッとするような鉤爪を生やした人差し指を突きつけてまた質問を繰り返す。
「――ライセサマ・チャレンジに参加しますか?」
少し間を置いて、
「……はい」
腹立たしいほど明瞭な活舌でうちはうなずいていた。
予感はしていたけれど、あいつの意に沿う答えなら問題なく返せると言うわけだ。
まるでRPGのNPCみたいやな、とうちは思った。
プレイヤー側が了解することを選ばない限り、同じ質問や依頼を延々と繰り返す仕様……。
ただし、ゲームのキャラ達は人間を飛び降り自殺に誘導しないし、脅迫もしない。
大きく息を吸い込み――、チラリとうちは足元を一瞥する。
リョウの首が床に転がったままだった。相変らず、歯を噛みしめた苦悶の表情のまま固まってしまっている。
……胸が痛むが今はどうしようもない。
何とか活路を見出さなくては。
と、その時、カツンと乾いた音が響いた。
思わず視線を床に転じたうちの目に飛び込んできたのはカッターナイフ。
ずいぶんと古びていてグリップは色が剥げ、刃の部分は汚らしい赤錆がいくつも浮かび上がっていた。
気持ち悪い……。
こんなん絶対触りたなくない……。
その考えとは裏腹に、うちはそれを手に取り拾いあげてしまう。
「では、最初の試練です」
魚のように何の感情も読み取れない丸い眼球をギョロギョロと蠢かし、ライセサマが言う。
「そのカッターナイフを使い、あなたの手のひらを切り裂いてください」
「……は?」
思わず変な声が出た。
こんな汚い刃で手のひらを切れって?
そんなことをして傷口にばい菌でも入ったら……。
うちが表情を強張らせていると、
「試練を棄権しますか? 棄権するのなら、あなたのせいでかわいそうにアキ子さんは死にます」
かわいそうに、という言葉とは裏腹にライセサマの口調に憐みの念は一切ない。
そもそも、うちが自分で自分の手のひらを切らなければアキ子ちゃんが死ぬって理屈がムチャクチャだ。
だけど、後少しでもうちがためらう素振りを見せたら――、間違いなくライセサマはアキ子ちゃんを殺す。
人間であろうと怪異であろうと、狂っているやつとはそういうものだとうちは身をもって知っていた。
深く息をつき――、一息にうちはカッターの刃を手のひら、その真ん中にあてがう。
焼きごてを押し付けたかのような感覚に思わず顔を歪める。ぶつっ、という皮膚が破れる嫌な音が聞こえた気がして、間も置かずにヌルヌルとした赤黒いものがあふれてくる。
文字通り、うちは血の気が引いてゆくのを感じた。
心臓がバクバクと高鳴り、熱が、うちの命そのものが流れ落ちてゆく感覚。
「では第二の試練です」
頭をくらくらさせ始めたうちに向かって、またライセサマが言う。
「あなたが流したその血で、ご自身の顔を赤く染めてください」
ほとんど無感動に、機械的にうちはその命令に従っていた。
ベチャベチャと湿った音を立てながら、自分の血を自分の顔に塗り込んでゆく。
たちまち目と鼻が塞がれ、呼吸をすることすら苦しくなってゆく。
酷い話や、とうちは思った。
神様の頼み事を聞き入れ、休日を返上してまでこんな山の中まで来たというのに、リョウは頭を食いちぎられ、うちは自分の血で窒息死しそうになっている。
だけど、こんなものなのかもしれない。
思えばうちの人生は物心つく前からモウジャだの、怪異だのに食い物にされ続けていた。
最近は曲がりなりにも普通の生活を送れるようになっていたけれど――、自分でも何かできることを、お父さんや塚森家の親戚のみんなが喜んでくれるようなことをしようとした途端、これだ。
こんなことならうちはもう、この世からいなくなった方がいいのかもしれへん……。
大きく息を吐き、意識の薄れゆくままにうちが身を任そうとした時だった。
バタバタと両手両足を忙しなく動かして、四つん這いになったライセサマがうちに向かって近づいて来た。
まるで飢えた犬が飼い主の「待て」を聞くことができず、餌に飛びつくような勢いでそのまま、うちの身体を床に押し倒す。
そして、鉤爪の生えた両手でうちの胸元を強い力で押さえつけたまま――、魚そのものの口をグパッと大きく開く。
そこから飛び出してきたのは、腐肉のように紫色に腫れ上がった舌だった。
主であるライセサマの胸元までダランと垂れ下がったそれは、まるでそれ自体が一つの醜悪な生き物であるかのようにビクビクと蠢動していた。
その舌が伸び、ベロンとうちの顔を舐めた。
おろし金をグイッと押し付けられ、そのまますり下ろされたかのような感覚が顔全体に走る。
思わず両手を当てるが――、触れた先からうちの顔の皮はグズグズと溶けて崩れ、そのままベロンと剥がれ落ちていた。
剥き出しになった神経が空気に触れ、無数の針を突き立てられたかのような激痛。
痛い!
痛い!
痛い!
うちは絶叫する。
絶叫しなければ苦痛に意識が塗りつぶされて頭がおかしくなる。
そう思った。
そして、絶叫しながらうちは思い出す。
取り出したばかりの、まだ熱い湯気の立つうちの内臓を片手ににぎりしめ吐き気を覚えるほど軽率な笑いを浮かべたあの男を。
他人でも自分でもいい。その人間の本性、本質を知りたければ苦痛を与えてごらん。
ここで大事なのは、苦痛とは肉体だけではなく精神に深く刻み込まれるような根源的な刺激だということだ。
刺激とは苦痛であり、快楽でもある。
それを受け入れた時こそ、その者は己だけの真実に出会えるのだ。
だからキミカよ、愛しい娘よ。――苦痛を恐れるな。
ライセサマの舌が蠢き、また一枚、うちの顔の皮を剥いだ。
……ふざけんな。
思考の中にざらついたノイズが生じた。
うちやお母さんにあんなことしといて、何が娘や。
こっちはお前のことなんかとっくに忘れて楽しく暮らしてんねん。
今さら出て来るな。
思い出の中にだって、影すら見せるな。
もし、万が一にもうちの前に姿を見せたりしたら――今度こそ、殺したる。