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8 悪業に惑うて業苦に堕ち、業苦に堕ちて悪業をなす


「えっと、これは……シノノメさん――、でええんかな?」


達筆な筆致で『東雲家』と三文字書かれた木製の表札を掲げたそれは、お屋敷と呼ぶにふさわしい立派な門構えと古民家然としながらも旧家を思わせるたたずまいを備えた大きな家だった。


だけど、この家が目に入った瞬間、何とも言えない違和感をうちは覚えていた。


手入れが行き届いていないのか、広い敷地を囲む生垣はあちこち蜘蛛の巣が張られていたし、文の向こうに見える庭は雑草が長く伸びて生い茂り、まるで小規模なジャングルのようだった。


「なぁ、アンディー。……ここ、ホンマにあんたのおうち?」


「はい! アンディーのおうちです!」


思わず振り返り、そう尋ねたうちにアンディーが弾けるような笑顔を向ける。


「キミカちゃんのおかげでアンディー、おうちに帰って来れました! アンディーはとても嬉しいです!」


弾んだ声を出しながら、スキップを踏むような歩調で門扉をすり抜け、玄関の前でアンディーはその姿を煙のようにかき消していた。


「ちょっ、待っ……」


怪異ならではの不規則な動きにうちは慌てるが、アンディーのように勝手にあがり込むわけにもいかない。

少しためらったがうちはインターフォンのボタンを押していた。


十数秒ほどの間があって――


「……はい。どちら様?」


インターフォン越しに聞こえて来たのはしわがれた男の人の声。


「あ、あのっ、うち、塚森って言います」


うわずった声で、だけど、ここに来るまでに頭の中で組み立てていた口実をうちは口にする。


「実は、あの……道端でワンちゃんの首輪、拾いまして。それでちょっと調べてみたら、ここの住所が書かれていましたから。お届けにあがった方がいいのかな、と思いまして……」


そう言いながら、自然とうちは肩から下げたポーチに手をかけていた


「えっ、犬の首輪?」


驚いたように男の人が息を飲むのが聞こえた。

水を打ったような沈黙が流れ――


「……それ、本当ですか?」


「えっ」


「本当にそれ、ウチの犬の首輪ですか?」


「え、ええ。ここの……お宅の住所が書いてありますし、間違いないと思うんですけど……」


驚くほど平たんな男の人の声にうちは狼狽していた。


何やろう、この違和感……。

何だか胸がザワザワする。


と、インターフォンの向こう側で男の人のため息が聞こえ、


「……わかりました。……とにかく、一度おあがりください」


「は、はい……」


小さく頭を下げ、うちはアンディーが消えた玄関へと向かった。


ドアを開け、玄関の内側で靴を脱ぐ。


家の中――、左右を襖で閉ざされた部屋で挟まれた板張りの廊下は、うちの想像以上に長く、そして暗かった。もう夕方ということもあって雨戸を締め切っているせいかもしれないが、何となく寒々しいものが肌身に突き刺さって来る。


それにこんな言い方は失礼かもしれないけれど……、何だかあちこちから変な臭いがする。


刺激の強いアンモニアのような臭い。錆びた鉄のような臭い。そして、スッと鼻に抜けるような臭い。……これは線香のにおいだろうか。


そんなことを考えながらうちがその場で立ち尽くしていると――


「どうぞ。こちらにいらしてください」


うちの足音を聞きつけたのか、廊下の奥から男の人の声が聞こえた。

少し躊躇いを覚えたがいつまでもそこで立ちっぱなしでいるわけにもいかず、うちは暗い廊下を歩き始めた。


「どうぞ、そちらに。……わざわざ持って来てくれるなんて申し訳なかったね」


「は、はぁ。ど、どうもお邪魔します……」


促されるままうちは畳のへりを歩き、と大きめのちゃぶ台の前に腰を降ろす。


そんなうちをジッと見つめているのは、痩せぎすで白髪頭のおじいさん……。

この人がアンディーの飼い主である、東雲さんらしい。


言葉はともかく……。

東雲さんの表情はこの家と同じく暗くて、歓迎されているとは到底思えなかった。


一応、口もとは微笑んでいたけれど目が全く笑っていない。

東雲さんの眼光は鋭くとても張り詰めていて、目の前にいるうちのことを値踏みするかのような冷たさがたたえられていた。


早よ、用事済ませてまおう……。

居心地の悪さに耐えながらうちは思った。


この後、アンディーを童ノ宮まで案内したらなあかんし。


そう言えばさっきからアンディーの姿が見えないけど、気配は消えていないからこの家のどこかにいるのは間違いないだろう。ひょっとしたら、同居犬だったトムとジュリちゃんに会いに行ったのかもしれない……。


「あの、これ……。さっきお話した――、アンディーちゃんの首輪です」


そう言いながらうちはポーチのなかから大型犬用の首輪を取り出し、おずおずと差し出す。


東雲さんはそれを手に取り、


「……確かにこれはあのケダモノが付けていたものですな」


ポイッと事も無げに。

かたわらに置いてあったゴミ箱のなかにそれを投げ入れていた。


それからパンパンと両手をはたいてみせる。

まるで汚いものに触った時のように。


相手の想定外な行動にうちは顔が引きつるのを覚えた。


「……な、何でそんなことするんですか?」


やっとそれだけ言えた。


それ以上は言葉が続けられない。

たった今、目の前で見せつけられた東雲さんの行為がショック過ぎて。


落とし物を届けた人間の目の前でポイ捨てにするとか、感じが悪いどころの話じゃない。

完全に喧嘩腰というか、臨戦状態だ。


いや、それよりも――、この人は自分の愛犬を今、何て言った?


「ケダモノって、そんな言い方……」


暴風に晒されたかのように、激しく感情をかき乱されていた。

どうしようもないぐらい哀しみと憤りが込み上げ、うちは二の句が告げられなくなる。


目頭がジワッと熱くなり、すすり泣きしそうになるのを何とかこらえる。


「ケダモノはケダモノですよ? それにこんなものはもう必要ない。とっくに処分されていたとばかり思っていました」


そう言って東雲さんはにっこりと笑う。

あのちっとも笑っていない、恐ろしい笑顔のままで。


得体の知れない緊張感がかけめぐり、うちは体内の水分が蒸発していくような感覚に捉われる。


東雲さんがうちに向けている感情が何か、ここまで来ればさすがに気がつく。

それはうちにとって馴染み深い感情――、敵意だった。


「さて、と。それじゃあ、そろそろ聞かせてもらおうかな。君は――、塚森さんって言ったよね? 塚森さんのほうこそ、何のつもりでこんなことをしているのかな?」


「……」


「ひょっとして、悪い大人にそそのかされたのかい? お小遣いをあげるからこの家の様子を探って来いとか何とか? あいつの首輪をどうやって手に入れたのかは知らんが、趣味が悪いにもほどがあるんじゃないか」


東雲さんの口調はあくまで冷静で淡々としていた。

だけど、その口角は吊り上がり、眼光鋭い目は爛々と輝き始めている。


昔、まだ幼稚園に通うぐらいの年頃、うちの周りはこんな目をした人間しかいなかった。


うちの実の父親を名乗る生者とモウジャのその両方を弄ぶ異常者。

うちを産んでやったのは私だと事あるごとに主張してくる空っぽの女。

そんな二人に自分の意思や思考も何もなく、ただ媚びへつらうだけの有象無象の輩たち。


あいつらはみんな、目に鬼火を宿していた。

ただ一人の例外もなく。


それは普段は隠れていて、宿主も平穏を装っているけれど何かの拍子で表に出てくる。

そして、暴走し、身近なものを傷つけ壊し殺し――、自ら破滅の道を辿ってゆく。


「そ、そんなんとちゃいます……!」


いたたまれなくなってうちは言った。


「この首輪を拾ったのはホンマに偶然で……! うち、誰かのスパイとかやないです!」


うちを見すえていた東雲さんの瞳に揺らぎが生まれた。

爛々と輝いていたおぞましい光がスッと消えてゆき――


「……何だ、じゃあ何も知らずに来たのか君は」


脱力したように大きく肩を落とす東雲さん。

ガクッと顔をうつ向かせ、重く大きなため息をつく。


「まったく、私はただ何もかも忘れて静かにこの家を守りたいだけなのに……。どうして、こんなに騒がしくされなければいけないんだ……」


そのまま、東雲さんは彫刻になったかのように黙り込む。


すぐには発するべき言葉ができず、うちと東雲さんの間に重々しい沈黙が流れる。


と、その時だった。


うちの右肩に視線が突き刺さるような感覚。

思わず息を飲みそちらを振り向いてみると――、壁際に仏壇が設えられているのが見えた。


今の今まで気がつかなかった。ここは仏間だったんや。

仏壇はたった今、この部屋に出現したかのように見えたが。


だけど、うちの意識が吸い寄せられたのは、そこに置かれた二枚の写真だった。


一枚は、二十代中頃の女の人。

もう一枚はほとんど赤ちゃんと言っていいぐらい小さな子ども。髪の毛を頭の右上でくくっているから、多分女の子だと思う。


二枚とも立派な額縁の中に収められていた。

あれはひょっとして遺影……?


「娘のサヤカと孫のアコです」


東雲さんがうつむいたまま、感情のこもらない声で呟くように言う。


「あの日――、孫はあいつにあのケダモノに噛み殺されたんです。子犬の頃から大切にかわいがって飼ってやったと言うのに。やはりケダモノはケダモノですね。恩義も何もあったもんじゃない」


「えっ、えっ? あの……」


全身を突き抜ける感覚にうちは自然と震え声になっていた。


それは、これまでの十三年間の人生において数えきれないほど味わってきた感覚。

なのに、一向に慣れることができない……。


「ご、ごめんなさい。う、うちにはよくわからへんから――」


「娘は孫の三回忌の日、車で崖から飛び降りました。妻は頭がおかしくなり、時々暴れて手がつけられなくなるので他所様の迷惑になる前に私が娘たちの元へ送り届けました。残った犬二頭も同様に処分しました。あのケダモノとは違って最後まで人に牙を向けることはありませんでしたが、やはりケダモノはケダモノですからね」


あかん。無理や。

東雲さんの言葉自体は理解できるのに、その内容が頭に全く入ってこない。

うちの頭が東雲さんの言うことを理解することを拒んでいるのだ。


ケダモノ……アンディーが……。

東雲さんの孫を、噛み殺した……って、何?


と、不意に東雲さんが顔をあげた。

引き裂かれるようにしてその顔の皮膚が真ん中から溶け――、白い骨が露出する。


たった今まで東雲さんだった者が怨嗟に満ちた声をうちの頭に響かせていた。


「――早く、ここから出て行け」


悲鳴をあげる余裕すらなかった。

突き刺すような刺々しい言霊に思わずうちはその場で跳ねるようにして立ち上がっていた。


次の瞬間。

うちらのいる仏間が、あの陰鬱な廊下が、そしてこの家全体が。

漆黒の闇一色に塗りつぶされていた。


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