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第二話

 その日の夕刻。


 招待状に書かれていた時刻に、パーティーへの迎えが来るという。

 指定された時間の十分前。


 仁愛は落ち着いたすみれ色のドレスに身を包み、ハンドバッグを持ち、軽く化粧をして外出の準備をしていた。


 小さな丸い鏡の前で「よし!」と気合いを入れると同時に、インターホンが鳴る。

 モニターを見ると、タキシードを着た、白髪の紳士が立っていた。


「はい」


 返事をする仁愛。どうやら迎えが来たらしい。


「失礼致します。わたくしアルオン・グループの社長、橘家たちばなけの執事を務めております、五十鈴と申します。一条仁愛様のお宅でよろしいでしょうか?」


「はい……え、執事さん?」


 橘家の執事?

 そんな人がどうして自分のところに来るのだろうかと、怪しむ。

 お迎えならば、運転手だけでいいはずだ。


「お疑いになるのもわかります。ですが、一条様は今回のパーティーではVIP扱いでございまして、わたくしが送迎を仰せつかっております。よろしければ是非、お送りさせて頂けないでしょうか?」


 仁愛は、うああ、とつぶやき、ほっぺたに手を当てる。


 父や祖父が住んでいる家屋は日本で一、二を争う会社を経営しているだけあって、それに見合った豪邸やタワーマンションなのだが、その社長令嬢である仁愛が住んでいるアパートは、お世辞にも豪邸や高級マンションなどとは表現できない。およそ一条家の一族が住むような物件ではないが、これも祖父の考えだった。


 仁愛の暮らしは、自分の給料だけでまかなっている。

 そうなると、いくら本社勤務で住宅手当が出るとはいえ、高級マンションのような場所には住めない。だが仁愛は、この1Kというこぢんまりした部屋を、案外気に入っている。


 だが、場所の割には家賃が安く、築年数も長くてぼろかったので、こんな立派な紳士が玄関の前に立っていることが、不自然を通り越して異様だった。


「い、いま開けますっ!」


 仁愛は慌ててパーティー用のパンプスを履き、カードキーとバッグを手にして玄関を開けた。


「ありがとうございます、一条様」


 五十鈴はぴっ、と、美しく腰を折る。

 黒い執事服を身にまとい、白い手袋をはめている。一条家で働いている執事と同じ格好だったので、その姿は見慣れていたので、仁愛は特に驚きもしなかった。


「いえ、こちらこそ、わざわざこんなところまで来て頂いて、ありがとうございます」


「旦那様からのご命令ですので、お気になさらないでください。移動中、一条様になにかありましたら、橘家の沽券こけんに関わる、とのお言葉です」


「それはそれは……恐縮です」


 仁愛がうやうやしく、それでいて上品な礼をする。それを目にした五十鈴は、その所作の美しさに、思わずほう、とため息を漏らした。


「それでは、こちらへ」

「お願いします」


 五十鈴が先導し、仁愛がついて行く。身長が150センチしかない仁愛にとって、五十鈴の頭を目に入れるには、見上げなくてはならない。おそらく180センチ以上はありそうだ。


 仁愛の実家である一条家でも、執事は過去に格闘技をやっていた人が勤めている。執事の仕事は多岐にわたるけれど、中でも来客への対応はある意味、ガードマン的な要素を持っていた方が心強いからだ。

 アパートの外に出ると、狭い道に、古い防犯灯からの光を弾かせる、場違いなリムジンがまっていた。


「は、はわわ……」


 このままだと目立ちすぎて、周りの住人に迷惑をかけてしまう。

 仁愛は目を丸くして「は、はやく車を出してください!」と叫ぶと、そそくさと車に乗り込んだ。


 こうして仁愛は小さな不安と、莫大ばくだいな不満を抱きつつ、敵地へと乗り込んでいくのだった。

 橘家主催のパーティーは、都内でも最高級のホテルで行われる。

 その間に、仁愛は明るいリムジンの中で、封筒の中身を確認していた。


 ターゲットの名前は橘栄貴。

 年齢は二十六歳。アルオン・グループの副社長。

 社長は父の橘市政で、母親は約十年前に他界。弟が一人いる。

 東京大学経済学部卒後、すぐ現在のポストに就いたという。


(優秀なんだなあ)


 率直そつちよくに、仁愛はそう思う。

 しかし仁愛も、学歴では負けていない。何せ日本では珍しい〝飛び入学〟で千葉大学に入り、経営学部を卒業しており、飛び抜けた記憶力と観察眼を持っている。


 そんな自分の能力をフルに使って、この場を切り抜ける。

 仁愛はそう心に決めて、車に揺られていた。


 それから十分弱。

 車はすぐに停車した。


「一条様、到着いたしました」

「ありがとうございます」


 ホテルマンが、外からドアを開けてくれる。

 車から降りると、目の前にはきらびやかで大きなホテルがそびっていた。


 東京ミッドタウン・タワー。

 ここには高級ホテルの〝リッツ・カルートン東京が〟ある。

 今夜のパーティが開かれる会場は、ここだ。


(さすがはアルオン……橘家のパーティ)


 ここには仁愛も何度か来たことがある。

 会場が書かれていたのは、三十人程度が入る中ホールだった。


(あうう、やっぱりここか~。ちょっと狭くて苦手なんだよね~)


 ただ苦手なだけではなく、戦略的にも不利だ。

 会場が狭ければ狭いほど部屋の隅々まで目が行き届いてしまうので、そっと抜け出すのが難しくなる。

 ふう、と小さくため息をつく仁愛。


「一条様、こちらでございます」


 五十鈴が仁愛を案内し、建物の中に入っていく。

 自動ドアが音もなく開き、ポーターが横に三人並んでいた。


 五十鈴も仁愛も宿泊するわけではないので、五十鈴が右手をあげて荷物の預かりを制し、そのままエレベーターに向かって歩き、躊躇ためらいなくボタンを押すと、わずかな動作音と共に両開きのドアが開いた。

 五十鈴は素早く中を確認すると、仁愛に向かって再び背筋を伸ばした。


「一条様、どうぞ」

「どうも」


 仁愛がその小さな胸を張ってエレベーターに乗り込むと、五十鈴は鋭い視線で辺りを見回し、素早くエレベーターに乗り込んで扉を閉じた。

 五十鈴はやはり、ただの執事ではないと仁愛は感じ取った。


 要人が襲撃される時。それは〝まさかの、ここで、ありえない〟場所である。


 エレベーターやエスカレーターに乗り降りする瞬間も、その一つだったりする。

 人は乗り物に足を乗せる時、必ずそこに意識がいく。

 その無防備な隙を突かれると、どうにもならないものだ。


 仁愛の実家である一条家も同様だったので、よくわかる。

 一条家の執事も、自衛隊第一空挺団くうていだん上がりの人ばかりだった。


 経験が少ないボディーガードより、執事のお仕事を覚えた実戦経験のある人の方が信頼できるし、何より一見してボディガードに見えないという心理的迷彩効果も重要になる。

 仁愛はやや団俯うつむき、胸に手を置いた。


(まずい、緊張してきました……)


 これから仁愛は、仁愛の戦いをする。

 橘家と一条家は、日本を二分する巨大企業を運営している。


 故に一条の名を出しただけで空気が変わるだろう。

 今回、仁愛の本当の目的は「決して橘栄貴に気に入られないこと」だ。


 祖父や父の思い通りになってたまるか、という反骨精神もあったが、仁愛はまだ二十一歳であり、家庭入って夫の帰りを待つ生活なんか、まっぴらごめん、という思いが強く心を動かした。


 やがてエレベーターがまり、身体が元の重力に戻される。

 そしてドアが開くと、先に五十鈴が出る。


 息をのんで、眉間みけんに力を込め、五十鈴に続いてエレベーターから通路に出た。

 その先を歩いていくと、重そうな両開きの扉が左奥に見えてきた。


「あそこが会場ですか?」


 声を整えつつ、五十鈴に聞く。


「左様でございます。時間的にはもう開会しておりますが、一条様は特別ですので」

「もう始まっているんですか!? それに、私が特別?」

「はい。一条様はファーストアイ・ホールディングスの社長令嬢なのですから、普通の待遇では礼を失する、と旦那様の仰せです」

「!……そう、ですか。それは、どうも」


 仁愛は執事にも今回の話が伝わっていることに驚いた。

 こうなってくると、仁愛も心の準備をしておかなくてはならなくなった。

 あとから来る、ということは、必然的に衆目を浴びてしまう。そうなると、こっそり会場を抜けるという仁愛の作戦が困難……いや、ほぼ不可能となった。


(これ、兵法三十六計の第二十八計〝上屋抽梯じようおくちゆうてい〟じゃないですか!)


 上屋抽梯。

 それは孫子の兵法にもあるが〝屋根に上げておいてから、はしごを取り除く〟というものだ。

 本来ならば〝背水の陣〟のような意味あいで使われるが、今の仁愛の状況はまさにパーティーに誘い出されて、出口を取り除かれたかのような状況であり、上屋抽梯で正しいと認識できる。


 これで仁愛は、嫌でもパーティーの途中で逃げ出せない。誰が狙ったのかは定かではないが、こんな方法で仁愛を心理的に会場から逃げられないように縛り付けるとは。

 仁愛は心の中で警戒レベルを一気に引き上げた。


 これからは、かなり高度な立ち回りを要求される。祖父や父へ〝橘栄貴と接触はできたが、残念ながら話はうまくいかなかった〟という報告できるような結果を残す。

 仁愛が遂行すいこうする行動目標は、そこだ。


(これは思ったより大変かも……でもまあ、なんとかしますか!)


 ふうっ、と強く息を吐き、仁愛は五十鈴が開いた扉の奥へと歩き出す。

 その胸の中では、様々な策を練っていた。

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