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第三話

 会場は、華やかなに飾り立てられていた。


 まるでヴェルサイユ宮殿を凝縮したかのような空間だった。中央はダンスホールのように開かれ、多くの若い女性と男性が歓談している。それを囲むように、壁際では年配のものたちが食事や交流を楽しんでいた。


 仁愛はその雰囲気に一瞬だけまれ、吐き気がした。

 どんなにきらびやかで豪奢ごうしやな空間であろうと、そこにいる人間によって、こうも嫌悪感けんおかんを覚えるものなのかと、仁愛は早々に音をあげそうになった。


 ここには欲望が渦巻いている。若い男性陣はおそらくアルオン・グループ幹部たちの息子だと予想できたし、若い女性陣にしても同様だった。


 帰りたい。

 そんな思いに流されそうになった次の瞬間、五十鈴が声を張りあげた。


「ファーストアイ・ホールディングス社長ご令嬢・一条仁愛いちじようにあ様、ご到着でございます!」


 会場の時が止まる。

 その場の全員が、仁愛に目を向けた。


 アルオンの橘家たちばなけと同様に、ファーストアイの一条家いちじようけもかなり有名だ。

 街のアンケートでかれて「一条です」と名乗るのとはわけが違う。

 ここはまさに虎口であり、仁愛はそこへ立たされているという現実を突きつけられた。


 やがて、止まった時が動き出す。


 仁愛のことなど気にもせず、各々おのおの、最良のパートナーを探すべく再び動き出していている。

 そんな仁愛だったが、まず最初に必ずしなければらない、最低限の礼があった。


「い、五十鈴さん、たちばな社長にご挨拶をしたいのですが」

 仁愛がそう言うと、五十鈴は小さくうなずき、その長身をかして周囲に目を向ける。


「ああ、奥にいらっしゃいますね。ご案内致しましょう」

「お願いします」


 再び仁愛は、五十鈴の後をついて行く。

 仁愛が真っ先にやらなくてはならないこと。それはライバルであり、裏切り者でもあるアルオン・グループ代表取締役社長、橘市政への挨拶だ。


 礼義的にもそうなのだが、一代でファーストアイ・ホールディングス一強時代を打ち壊した人物と言葉を交わす機会など、そうそうない。少ないチャンスを逃さず、大きなチャンスにつなげていく。それは今後の仁愛にとっても重要なことだった。


 橘家の執事であり、長身で、執事服にすら威厳を漂わせる五十鈴が歩く先にいたものは、無言で道を譲る。やがて五十鈴が仁愛に道を譲り、その目の前にはソファに座り、両脇に女性をはべらせている五十代の男性がいた。


「旦那様。ご指示通り、一条仁愛様をお連れしました」


 五十鈴がそう言い、頭を下げる。


「おお、ご苦労さん」


 その声が耳に入った時、仁愛は不思議な感覚にとらわれた。

 どこかで聴いたことがある声だったのだ。


「おお、仁愛ちゃん、久しぶりだなあ。しかし、これは驚いた。あの仁愛ちゃんが、こんな美人さんになるとはなあ」

「え、え?」


 流石さすが狼狽ろうばいを隠せない、仁愛。

 なにせ仁愛は、橘市政と、面識が全くないはずだからだ。


「はっはっは、覚えていないのも無理はないかなあ。なにせ私が君に会った時は、手に負えないくらいのお転婆娘だった頃だからなあ」


 どうしてそれを、と言いかけて、まるで映写機に移された動画のように記憶が流れていった。

 間違いない。仁愛は、この人物を知っていた。


「ま、まさか……いちおじさま?」

「そうそう、あの頃の君はそう呼んでくれていたねぇ」


 思わず両肩から力が抜ける。

 ずり下がったバッグが、絨毯じゆうたんの上に音もなく落ちた。


 いちおじさま。


 それはまだ仁愛が幼稚園児くらいの頃、一条家によく呼ばれ、仁愛を可愛がってくれた人だ。

 それが……一条家のライバル会社の社長に?

 仁愛はなにがなんだかわからず、状況をつかめなかった。


「今回のパーティーは会社役員の息子や娘を引き合わせるという趣旨で開催しているが、本来の目的がそうではないことは察しているかな?」


 口許くちもとを緩め、ワイングラスを手にする市政。


「ど、どうして、いちおじさまが、アルオンの社長なんですか!!」


 叫んだ。叫ばざるを得なかった。

 なにせこの橘市政は、かつてファーストアイの幹部役員だったからだ。


「うーん、それを語るのにこの場は、無粋ってものだねえ。詳しい話は栄貴にでも聞きたまえ。君もそのつもりで、ここに来たんだろう?」

「…………ッ!」


 頭に血が上り、逆上しそうになる仁愛だったが、なんとか理性で堪えた。


「今や、我が橘家と一条家は同格だ。それに加えて、うちの栄貴と仁愛ちゃんが結婚すれば、アルオンとファーストアイが手を取り合うことになる。そうなれば日本だけでなく、世界に通用する巨大なマーケットを取れるだろう」

「そうですか。今までも、そして今この時も、すべて見据えて……一条家に近づいたんですか?」


 仁愛は、きつく拳を握る。

 しかしそんな仁愛を、市政は一瞥いちべつしただけで、なにも答えなかった。


 この橘市政という男は、当時日本一だったファーストアイのノウハウや流通などのルートを確保した後、突然退社し、株式会社アルオンを起業した。

 そしてわずかな期間でファーストアイに匹敵する一大グループに成長できたのは、ひとえにファーストアイ勤務時代に根回ししておいた、販路の確保のおかげでもあった。


 橘市政にとって仁愛は、企業をより大きくするために必要な駒の一つに過ぎない。おそらく息子の栄貴すらも、そう見ているのだろう。そこまで非情になれる決断力と実行力を持つ橘市政に対して、仁愛は恐怖すら感じている。

 悔しいけれど、今の仁愛では、この男にかなわないことを悟った。


「さて、改めてアルオン・グループ親睦会へようこそ。後ほどそちらのお望み通り、栄貴を紹介しよう。それまでは自由に食事を楽しんでくれ給え。時が来たら、五十鈴を向かわせるからね」

「……はい」


 歯がみしながら一礼した仁愛は、床のバッグを取ると、きびすを返してその場を去った。

 仁愛はおおよその雰囲気で相手がどのような人物かを把握できる。まだ二十一歳だが、仁愛は些細ささいなことからも学びを得ようと努力しているし、兵法や貞観政要じようがんせいようなどを熟読し、それを人間関係や仕事に活かしている。


 それを踏まえた上で……あの橘市政との短い会話で思い知らされたのは、圧倒的な敗北感だ。

 あの、いちおじさまが、アルオンの社長。

 昔、かわいがってくれた優しいおじさんで、大好きだったのに。

 それすら計略の内だったのかと思うと、あの人は一体どれだけの人を裏切って、今、美味おいしいワインを飲んでいるのかと思うと、腹立たしくて仕方がなかった。


 やがて、ホテルのスタッフが場を仕切り始めると、会場の各地に散っていた橘家のものが前に集まっていく。この辺りの情報は、祖父から渡された封筒の中に入っていた。


 中央にはアルオン・グループの最高責任者である代表取締役社長、橘市政。笑顔ではあるが、にじみ出る貫禄かんろくや威厳は隠せない。市政の目は、相手を金縛りにしてしまうような感覚に陥らせていた。


 その右隣には市政の長男である、橘栄貴。二十六歳。

 ややひ弱な印象を受けるものの、ストレートの髪を丁寧に整え、爽やかな好青年な上に、タレントになれるのではないかというほどの美青年でもあった。東大経済学部を卒業後、アルオン・グループの副社長に就任している。部下からの信頼も厚く、将来を嘱望されているという。


 市政の左隣には栄貴の弟である、橘和樹。二十四歳。

 兄の栄貴とは違い、軽くウェーブがかかったくせっ毛が特徴的で、兄と同様、顔は整っている。

 その他、市政の妻や弟など、親族の情報は一通り頭に入れていたが、その中で仁愛が興味を抱いたのは、和樹だった。市政や栄貴に関しては比較的、簡単に情報が集まったのだが、この次男の和樹だけは、うまく情報が集まらなかった。渋谷幕張高校卒、その後の経歴は不明。アルオン・グループ内では専務という役職に就き、父や兄を補佐しているという。


 とはいえ仁愛は、栄貴はもちろん、和樹にも近づくつもりはない。


 ここに来たのはあくまで祖父と父の顔を立てるだけで、こんなあからさまな政略結婚に乗る気はない。元々、そう思っていた仁愛だったが、橘兄弟に嫁ぐと義父になってしまう橘市政は、つい先ほど仁愛を傷つけた相手でもある。故にこの計画に対しても、嫌悪感が高まっていた。


 仁愛はボーイからカクテルを一つ受け取り、壁に寄りかかってそれを飲む。

 部屋のあちこちでは既に男女が楽しそうに話していたが、仁愛はそれを達観していた。


 この空間そのものが、政略結婚のために用意された場だ。

 最初にここに入ってきた時の気色悪い感覚がよみがえり、カクテルの味が全くしない。


 この場に来て橘市政に会い、話を聞いただけで充分、祖父らの顔は立てたのではないか。

 これ以上は、時間の無駄。仁愛がそう判断し、近くのテーブルにグラスを置くと、その場を後にすべく出入り口に向かった――


 その時だった。


「ま、待って!」


 まるで心を包み込むかのように優しげな男性の声が、仁愛の足を止めた。

 ゆっくり振り返ると、先ほど壇上に上がっていた橘家の一人、橘和樹が、肩で息をして立っていた。


「えっと、なにか……わ!?」


 次の瞬間、和樹は仁愛の手を取り、駆けだした!


「え、え、ええ~~~~!?」


 なにがなんだかわからず、和樹に引っ張られるままに部屋を出て、そのままエレベーターに連れて行かれた。

「はあ、はあ……」


 和樹が両膝に手を当てて、息をあららげる。


「はぁ、はぁ、あの、なんなんです?」


 二人きりのエレベーターの中で、仁愛は和樹に訊いた。


「はあ、はあ、ご、ごめん。僕、どうしても、君と話をしたかったんだ」

「私に?」


 仁愛は首をかしげる。

 何故なら、仁愛側から橘家に関係するように言われてやって来たパーティーだったので、まさか橘家の一族である和樹から接触してくるとは思わなかった。


「なにか、私に用事が?」


「一条仁愛さん、あなたは今日のパーティーで、兄さんに近づくために誘われたんだよね? 狙いはおそらく兵法三十六計の第三十一計〝美人計〟だ。こんな手を用いなきゃならないってことは、自分から〝今、ファーストアイはアルオンを恐れてます〟と言ってるようなものだよ」

「う!?」


 仁愛の祖父と父の狙いを見抜かれていたことに、驚きを隠せなかった。

 兵法三十六計〝美人計〟とは、敵に女性を送り込み、内側から浸食させていくというものだ。古代中華ではよく用いられていたが、それは基本的に弱者が強者に対して行う策であることを、仁愛も知っていた。


「そ、それで?」

「一条仁愛さん、こんなところで申し訳ないんだけど、僕のお願いをきいてもらえないかな?」

「お願いですか?」


 和樹は仁愛を見つめて、真剣な表情で告げた。



「僕と結婚しない?」

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