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第四話

『はぁああああ????』


 これにはさすがの仁愛も、壁に背をつけて驚嘆した。


「ああ、あああ、そうじゃなくて、えっと、あの、僕とどこか、喫茶店でもどこでもいいから、とにかく時間をもらえないかな?」

「え、っとぉ……」


 困惑する仁愛。

 なにせ橘栄貴に会う計画だったのに、目の前にいるのはその弟の和樹である。当然、仁愛は和樹と全く面識がない。それなのに、どういうわけかエレベーターの中で、突然求婚された。


 この急展開に、仁愛は目を回しそうなくらい混乱していた。


 とはいえ、どんな理由があるのかわからないけれど、和樹からものすごい必死さを感じる。その瞳の奥は、仁愛に助けを求めている。そんな和樹を、仁愛は無視できなかった。


「いいですよ。変なところでなければ」

「あ、ありがとう!」

「でも、どこに?」

「それは大丈夫。誰にも聞かれない場所を用意するから」


 誰にも? と首をかしげる仁愛。

 それって、怪しさしかない。慎重派の仁愛は、和樹の言葉に狼狽ろうばいした。


 特に不安を覚えたのは、和樹に関してはパーティーの資料にも、和樹の兄、栄貴のプロフィールなどは、よくもまあこんなに集めたものだと感心するほどあったのに対し、弟の和樹に関しては年齢と最終学歴程度しかなかったことだ。


 仁愛は腕時計に目を向ける。二十一時過ぎだった。


 あー……男性が女性を怪しいところに連れ込むには、最適な時間なんじゃないかな、などと思っていると、エレベーターのドアがやっと開いた。

 なんだか仁愛には、やたらと長く感じたエレベーターだった。


「じゃあ悪いけど、ついてきてくれる?」


 落ち着いた和樹が、人なつっこい笑顔で言う。

 しかし、今や不信感の塊である仁愛にとって、それすら怪しく感じてしまう。

 とりあえず、様子を見る。少しでも怪しいそぶりを見せたら、腕を折って即座に逃げ出そう。

 そんな思いを胸に秘め、和樹について行く途中、ある致命的なことに気づいた。


 それは履き物だ。


 スカートは広がるものだから、足を上げることはできる。しかしこんなパーティー用のパンプスで、男性から逃げられる速度を出すのは難しい。


(ああ、なんでこんなことになっちゃったんだろう……)


 仁愛が半ば放心に近い状態になっていると、フロントで和樹が「天王寺さんを」と言っていた。ずいぶん格好いい名前の人がフロントにいるんだなあ、と思っていると、フロントの奥から、引き裂かれそうになっている背広を着た、筋骨隆々の男性が出てきて、和樹の前にやって来た。


「おや。こんばんは、和樹様」

「やあ、レオン」

「!!……今回はどのような?」

「M19に二発、頼みたい」

「承知いたしました」


 巨漢のフロントの人が受話器を取ると、和樹が仁愛の肩をつつく。


「一条さん、こっちへ」

「え、あ、はい」


 和樹がまた心に焼き付きそうな笑顔を仁愛に向けると、カウンターの中に入って、天王寺、あるいはレオンと呼ばれていた男が出てきた、フロントの奥に向かった。万華鏡のようにコロコロ変わる状況について行けないまま、仁愛は和樹について行く。フロントの奥には各種モニター類と操作パネルが壁際に並び、テーブルと椅子などがあったが、和樹が向かったのは更に奥の部屋だった。

 そこには扉が一つだけあり、和樹が金色のカードをかざしてロックを解除すると、ドアが開いて、窓がなく、なにもない部屋が現れた。


「これは……エレベーター、ですか?」


 悠然と歩いて部屋に入る和樹が、動揺する仁愛に答える。


「ええ。これはこのホテルのアナザーエレベーターだよ。緊急脱出口以外は、ここからしか出入りができないようになってる。主にVIPが会談に使うためのものなんだ」

「私、変なところ以外ならって言いましたよね?」

「あ、確かに変だよね。でも時間や状況とかを考えたら、ここ以上に安全な場所がなくてね」

「あなたは私にとって危険な存在じゃないんですか?」

「はは、痛い言葉だなあ。でも、今は信じてくれ、としか言えないかな」

「素直ですね」

「これから少し、重い話をするから」

「結婚のことですか?」

「うん。その詳細とか、その他のこととか、色々とね」


 その他ってなんだろう、と気になる仁愛。


 ドアが閉まると共に、和樹の表情が真剣なものに変わった。

 やがて、がたん、と音がして、部屋がかなりの速度で上昇していく。普通のエレベーターとは違い、まるで頭からぎゅっ、と押しつけられるような圧を感じたので、普通のものではない。


 仁愛の不安が益々、強まっていく。

 しかし、こういう状況での切り替えが早いのが、仁愛だ。


 すぐに鞄の中でスマートフォンを操作し、ボイスレコーダーアプリを起動した。これでひとまず、仁愛の身になにかあれば証拠になる。

 かつては業界一だった大会社、ファーストアイ・ホールディングスの創業者一族として、これくらいの対応は身につけていたし、いよいよとなればSOSを出せるアプリもある。


 現在、業界首位はこの橘和樹がいるアルオン・グループと拮抗きつこうしているものの、仁愛のファーストアイは未だに日本屈指の超大企業だ。しかも仁愛は現時点で唯一、一条家の跡取り候補なので、常に安全は確保された環境で育ってきた。それに加えて仁愛自身も護身術を会得えとくしているので、力で押さえつけられた程度なら返り討ちにできる。


(万が一の時は骨の一本二本くらい、もらうしかないかぁ)


 普段はそんな気を全く起こさない仁愛だったが、そもそも同世代の男性と密室で二人きりになったことなど、これまで一度もない。


 多対一なら全力で逃げる方法を考えるけれど、一対一なら。

 仁愛は拳を握りしめ、背を向ける和樹をにらみつけた。


 そして、エレベーターが静かに停まると扉が開いた。

 目的階についた音もない。怪しさしかない。


「こっちに」

「はい」


 和樹が仁愛をエスコートする。

 そこは、不思議な空間だった。

 赤い絨毯じゆうたんに、やや暗い照明。三人が並んで歩ける程度の広さの廊下に、四つの扉がある。天井には小さなシャンデリアがあって、例えるなら豪奢ごうしや牢獄ろうごくのような、そんな印象を受けた。


 和樹は迷わず右奥の扉に向かうと、再び懐からカードキーを取り出す。そのドアはよく見ると変わっていて、中央に両開きの小さな扉が着いていた。和樹は慣れた手つきでドアノブの上にあるプレートに掲げると、かしゃん、という音と共に解錠した。


「あの、和樹さん、さすがに、二人っきりでそこに入るのは……」


 仁愛が躊躇ちゆうちよしていると、和樹は素で不思議そうな顔をしていたが、はっ、と気がつくと慌てて手を振った。


「あ、ああ、その、本当に他意はないんだ。ここは橘家がプライベートで借りている部屋で、誰にも聞かれてはいけない話をする時だけに使うってだけで、そんなに警戒しなくても……って、無理、だよ、ねぇ……」


 失敗したー、と、額に手をつけて天を仰ぐ和樹に、思わず仁愛はふき出してしまった。

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