仁愛は瞬時に和樹を分析する。
ざっと見た感じ、和樹はそれほど筋肉質ではなさそうだし、なにか武道をやっているような感じもしない。和樹が相手なら、仮に襲われても反撃できそうだ。
それになにより、この素直で表情豊かな橘和樹という人物に、少しだけ興味が湧いている自分がいた。
「……いいですよ。ここは和樹さんを信じます。この部屋で話をしましょう」
「え、あ、ああ、ありがとう!」
和樹は困り顔から一転、ほっとしたような笑顔を浮かべると、左手でドアを開き、右手を部屋の中へ差し出し、仁愛を誘う。
それに応じて、仁愛が部屋に入った。
「!!」
和樹の隣を通った時、仁愛は敏感にあることを感じた。
仁愛のファーストアイ、和樹のアルオン。
この二大企業の役職に就いているような男性は、ほとんどが香水をつけている。ところがアルオンの専務でありながら、和樹からは、そのきつい匂いがなかったのだ。幼い頃から「大人は臭い」と思っていた仁愛にとって、そんな細やかなことがとても衝撃的であり、少なからず好感度を高めた。
「わあ……!」
部屋の中は、まるでデザイン性の高いオフィスのようだった。
中央に大きなテーブルがあり、ノートパソコンが四台、対面に向かい合わせで置かれ、有線ケーブルで繋がったプリンターまである。テーブルを挟むように、少し高価な革張りのチェアが二脚ずつ並び、奥は広い窓があって遮光カーテンが閉じられている。そして入り口の右手には、トイレと洗面台まで備え付けられていた。
……仁愛が住んでいるアパートよりも、ずっと住みやすそうな部屋だ。
そう思いつつ、仁愛は右奥の椅子に向かい、その後ろにある棚に鞄を置く。
続いて和樹が入ってきて、ドアを閉めると、がしゃん、という、重い音が響いた。
和樹は仁愛の対面に座り、ノートパソコンの電源を入れる。
なんとなく仁愛も和樹の真似をして、ノートパソコンに手をつけた。
「あらためて。はじめまして、一条仁愛さん。僕のこんな強引な誘いを受けてくれてありがとう。なにか飲む?」
和樹が、また人たらしの笑顔を仁愛に向ける。
「こちらこそはじめまして、橘和樹さん。まさかリッツ・カルートンにこんな仕掛けをされた部屋にあるとは思いませんでした。それでは業務時間ではないので、なにか適当なカクテルをお願いできますか?」
「オッケー、なんでもありますから。じゃあ僕はお茶をもらいますね」
和樹がテーブルの真ん中に置かれていた受話器を手にすると、手早くオーダーを告げる。
そして仁愛は、先手を打った。
「じゃあ早速、
それも、打ち筋としてはかなり、ど真ん中だ。
「これは切実なお願いであり、一条さんにしか頼めないことでもある」
「私にだけ、ですか?」
「うん」
その時、ドアの下部に付けられた小窓が内側に開くと、上からプレートが落ち、そこから飲み物が入ったグラスをのせたトレイが入ってきた。ああ、あの小窓はそういう風に使うんだ、と目を見開く仁愛。
「さすがに早いね」
和樹はドアに向かって歩くと、ドリンクを手に取り、トレイを押し込んだ後、上から降りてきたプレートを元に戻した。
このドアのプレートは、外に音が漏れないようにするためのものだ。
つまり、この部屋の中ではなにが起きようと、外には気づかれない。
この部屋は、都会の中にある孤島同然だった。
「はい、一条さん」
仁愛は大好きなカクテル、ソルティドッグのグラスを手にした。
「ありがとうございます」
素直に礼を言うと、和樹は微笑みながら、焦げ茶色の液体が入ったグラスを手にする。
仁愛は、和樹の飲み物はおそらく、麦茶かウーロン茶だと推察する。こんな密室で、出会ったばかりの男女二人で、男性側が選ぶドリンクとしては最適だな、と仁愛は思った。
「ここからは肩の力を抜いて、飲みながら話そっか。ちなみに僕は下戸だからお酒は飲まないし、飲まれて君に失礼なことをすることはないから、そこは安心して」
「そうなんですか」
「最も、護身術を習得している君に、なにかしようなんて思わないけどね」
「あは、ばれてましたか」
微笑し、ドリンクに口を付ける和樹。仁愛は一条家が橘家についてある程度、情報を集めていたのと同様に、橘家も一条家について調べを入れていたのだな、と確信した。
「じゃあ、本題なんだけど――」
和樹は胸ポケットからUSBメモリを取り出すと、ノートパソコンに刺してマウスを操作する。プリンタが動き出し、何かが書かれた紙が吐き出されていった。
ふと、仁愛は気になってスマートフォンを取り出す。電波が圏外になっていた。
「
「直接?」
「アルオン・グループの情報管理部にサーバーがあって、独自のネットワークを構築してるんだ。全てのデータはそのサーバーを介してインターネットや、独自のアルオンネットに繋がってる」
「ええ、わかります。インターネットをそのまま使うのは危ないです。クラッキングされる可能性がありますから」
「さすが。話が早くて助かるよ。最も、アルオンのシステムはほとんどがファーストアイの模倣だからね。そこは本当に、心苦しく思ってる」
和樹はそう言うと、驚くことに、なんと仁愛に頭を下げた。
これも、仁愛にとって衝撃的な光景だった。
仮にも大企業の創業者一族で、今日はその一族が主催したパーティーだ。なのに、ある意味最大の敵である一条家の人間に頭を下げる人がいるなんて、と、仁愛は次々と目の前で起きている出来事に、動揺を隠せなかった。
「そ、それで本題とは?」
仁愛はソルティドッグを唇につける。塩みと甘みが調和し、飲みやすかった。
「ああ、僕はいきなり結論から君に伝えてしまったけれど、正確には僕と、結婚という名の契約を結んでほしいんだ」
「は?」
契約?
その言葉に、仁愛は首を傾げた。
「もう少し詳しく話すね。君がどう考えているのかわからないけれど、あのパーティーで僕は、君をずっと観察してたんだ。ファーストアイの創業家である一条家のご令嬢がパーティーに参加しているということは、アニキの栄貴に近づいて、ゆくゆくは結婚し、グループの統一を目論んでるんじゃないかってね。ところが君はアニキにまったく近づかず、むしろ距離を置いていた。だから君本人は、嫌々、あの場に参加させられていたんじゃないかと思った。どう?」
仁愛は思わず、カクテルをごくりと飲み込んだ。