仁愛の祖父や父の目的は、まさにそこにあったと思う。
しかしそれを、あんな
「その表情だと、
「わかる……激しくわかります!」
和樹の言葉に、仁愛は強く叫んだ。
その気持ちはまさに、仁愛が抱いていたものと同じだったのだから。
「そこで、同じ悩みを持つ僕らを、一手で救える妙案を思いついたんだ」
和樹はノートパソコンにブラインドタッチでなにかを打ち込みながらも、仁愛から目を外すことなく、語り続ける。
仁愛はこの今の時間だけで、和樹が、かなり優秀な人間だと確信した。手ではなにかを作成しつつ、だからといって集中力を切らさず、仁愛の瞳を見つめながら、しっかりと会話をしている。
これほど高度なマルチタスクができる人間に、無能な人はいない。
とはいえ、仕事ができるのと、いい人かどうかは別の話だ。
「それが契約結婚、ですか?」
「そう」
ふむ、と
仁愛としては結婚など全くしたくなくて、もっともっと大きな仕事をしたい。しかし、もし祖父や父の描いたとおり、仁愛がアルオン・グループに入って仕事をするとなると、それはもう針のむしろだ。周囲からは常に産業スパイではないかと疑われ、大した仕事も任されないだろう。となると、ここで仁愛の望みは絶たれることになる。
一方、和樹の場合は、次男であることを利用されて、どこかに結婚させられる可能性が高いという。しかし、その企業はアルオン・グループに飲み込まれるだろう。和樹はそのための道具でしかなくて、下手をすれば経営権を掌握した後、離婚させられて違う企業へ、と、同じことをさせられるかもしれない。
そんなの現代日本人の生き方ではない。
まるで戦国時代だ。
そう考えると、確かに和樹からすれば、一刻も早く策を練らなくてはならない状況だった。
「和樹さんが考えていることはおおよそ理解できました。でもわからないのは、私と和樹さんが契約結婚をすることで、なにが解決になるんですか?」
「うん、さすが一条さんだね」
「もう仁愛でいいですよ」
「え、あ、そう?」
和樹は
その仕草が可愛くて、仁愛は思わず微笑んだ。
「で、ではその、仁愛さん。君の問題はアルオンの次男である僕と結婚した、ということで解決する。そして僕は既婚者になるから、道具としては使えない。つまり僕らにとって、
「それはそうかもしれませんが……こう言ってはなんですけれど、私に課せられたのは、いわゆる政略結婚です。和樹さんくらい頭が良ければ、私という存在がもしかしたらアルオンにとって猛毒になるかも、とは考えませんでしたか?」
「当然考えた。でも、信じてもらえないかもしれないけれど、そもそも僕はアルオンが大嫌いだ」
「え!?」
和樹の口からそんな言葉が出るとは。
仁愛にとって完全に予想外だったし、このような場所でしか話せないのも無理はなかった。
万が一、今の言葉を盗聴されていたら、アルオンを落としたい企業にとって、和樹という存在が大きな隙であり、穴であることが露見してしまう。
危なすぎる一言だ。
「僕は父の
「う!?」
これは仁愛にというより、一条家にとって願ってもない条件だった。
表だけ見れば、仁愛が和樹と結婚して橘姓になってしまうと、産まれてくる子も橘を名乗らねばならない。しかしここで仁愛が一条姓を守っていれば、仮に子供が生まれたとして、橘、一条のどちらでも名乗らせることが可能となり、仁愛の会社であるファーストアイは創業家一族の跡取りとして迎える可能性を残す。
(そ、そんな手が。これは、お
仁愛は、初めて一日に二度、人に対して畏怖を覚えた。
一人目は橘市政。
そして、二人目は橘和樹。
やはり橘の人間は、ただものではない。
その時、突然プリンターが動き出し、文章を刻まれた紙が、何枚も吐き出される。
「今、この契約書を作ったから、もし、その気があるなら読んでほしい。気に入らない条項があれば、すぐ直すよ。だから、お願いします」
仁愛はグラスをデスクに置き、和樹からたったいま出力されたばかりで、まだ温かい契約書を手にした。
これを、今の会話の間に作った?
仁愛は驚きつつ、書類に目を落とす。
そこには〝三略結婚契約書〟と〝行動計画書〟の二種類があった。
まずは行動計画書を読んでみる。
「え、ええ、ええええええ!?」
仁愛は計画書のフローチャートを見て、思わず叫んだ。
まず第一段階。和樹と仁愛が今回のパーティーで意気投合し、恋人同士になったと双方の親族に知らせる。第二段階、仁愛は和樹のマンションに引っ越し、
仁愛が気になったのは、第三段階だ。
「け、け、結婚式までするんですか!?」
「もちろん。一条家のご令嬢と橘家の次男が結婚するんだから、式を挙げない流れにはならないよ」
「えっと、結婚式は洋式ですか!?」
「招待客のことを考えると、洋式になるだろうね」
「とと、ということは、誓いのキスもしないと、いけなくなります、が!?」
「あっ!」
和樹と仁愛は、
「えっと、無粋なことを訊くけれど、その、キスをしたことは、あるよね?」
和樹が気を遣いながら言うと、仁愛は真っ赤になって、静かに口を開く。
「……飲み物をお願いします。テキーラ・サンライズとサンセット、それとレッドアイを」
「え。ああ、いいよ」
和樹は先ほどと同じようにフロントへ連絡し、仁愛が望んだものに加えて、自分用のジャスミンティーを注文した。ほどなくして、ドリンクが運ばれてくると、和樹が応対し、仁愛の前に三杯のカクテルが置かれる。すると、仁愛はレッドアイを手に取り、グラス半分まで一気に飲んだ。
「ぶっちゃけますけど、私、キスとか、まったくしたことがありませんっ!」
ぶんぶんと赤い顔を振りながら叫ぶ仁愛。
本当にぶっちゃけた。
完全に、酒の力に頼った発言だった。