「そ、そうなんだ」
和樹が仁愛に、軽く
仁愛はこれまで、恋愛をしたことが全くなかった。ゼロだ。学生の頃は勉強に明け暮れ、会社に入ってからは仕事に没頭し、恋愛とは無縁な生活を送ってきたからだ。
「そう言う和樹さんは、さぞかし経験豊富なんですよね!」
仁愛がぎろっ、と、和樹に目を向けると、和樹は真っ赤になって頭を
「ごめん、実は、それほどでもない」
「え~? それなのに、私とこんな結婚を考えたんですかぁ?」
「もし経験豊富であれば、逆にこんなことを考えられなかったと思う」
「あ、あー……」
なるほど、と、仁愛は納得する。
「え、っと、じゃあもしかして、この結婚式が、お互いの、ふぁ、ファーストキスに、なると?」
「まあ、フリだけでいいから」
「バレないと思います?」
「うーん、そうだよねえ……そっか……」
仁愛と和樹の問題はこれだけではなく、大小様々山積みだ。
この場所、この時間だけで即実行できるような状況ではない。
「とにかく、僕の計画は仁愛さんにとって失礼だということは承知の上なんだけど、これくらいしないと周りを
仁愛は〝三略結婚契約書〟と〝行動計画書〟に一通り目を通すと、全部のカクテルを一気に飲み干し、立ち上がった。
「足りません!」
「え?」
「この計画は、あまりにもイレギュラーに弱すぎます。このままでは他人から軽い質問を受けただけで、あっさり
「そ、そう?」
「そうです。だって今日、知り合った男女がいきなり恋人同士になって、すぐ
「じゃあ、なにか考えがある?」
「あります!」
仁愛は椅子に深く座り、鋭い目つきになった。
「何事も順序が大事です。というわけで、まず明日から毎日、デートをします。それでお互いのことをもっと知り合うんです。なるべく細かく、情報交換をしないといけません」
「な、なるほど」
「さらにこのデートはこのような密室ではなく、
「確かに……僕の計画は机上の空論であって、実が伴っていないね」
「その通りですっ! そんなにあっさり同棲、結婚となったら和樹さんはともかく、私が不審に思われるんですよ! 和樹さんが普通の女性を相手にそうするならともかく、ライバル会社の娘とだなんて。周りが見たら、私が和樹さんを上手く落とした、という風に見られてしまいます!」
語気を強める仁愛。
まるで酔っているかのようだった。
「でも、ということは、仁愛さん、この契約を前向きに?」
おずおずと尋ねる和樹。
対して仁愛は、堂々と言い放った。
「お受けしようと思います。策としては上々ですし、双方にメリットしかありませんから」
「あ、ありがとう!」
頭を下げる和樹に、仁愛は「自分はどうかしてる」と思っていた。
今日、出会ったばかりの男性と、結婚?
本当、漫画やドラマじゃあるまいし。
酔った勢いなのかな、とも考えていたが、仁愛は酒に強い。
この程度で思考が乱れるなど、ありえない。
つまり、それだけこのプランと和樹に魅力があったということだ。
「それと、僕の覚悟が足りなかった。そこは、ごめん」
「そーですよ。これだけのことをやるんだから、いろいろ覚悟してください。私もします」
「仁愛さんも!?」
「当然です。これから、私たち二人で親と会社と、場合によっては世間を
仁愛は後ろに置いていた鞄からUSBメモリを取り出すと、和樹が打ち出した契約書。計画書と共に手にして、膝をデスクに載せ、身体を乗り出して和樹に顔を近づけた。
……やはり酔っているのかもしれない。
「この〝行動計画書〟はデータで持ち帰って精査します。紙だと私のバッグに入りませんので。熟読した上で修正します。私もUSBメモリを持ってるんで、これにデータを入れてもらえますか? 当たり前ですが、ウイルス対策も暗号化もされてま――」
刹那。
和樹は仁愛の手を取り、自分の方に引き寄せると……強引に唇を奪った。
ばさばさ、と、落ちる書類。
カララ、という音と共に、デスクを滑るUSBメモリ。
そして、凍る仁愛。息ができず、みるみる顔が青くなっていく。
『うぁふぁあああああああああああ!』
仁愛は変な声をあげてのけぞると、そのままデスクから転落し、後頭部を床に打ちつけた!
「う~~、痛い~~」
両手で後頭部を押さえる仁愛。
「わあっ、大丈夫!?」
和樹が慌てて、仁愛に駆け寄る。
「う、あ……!」
デスクから転落した仁愛の格好は、ドレスのスカートが完全にめくれあがり、桜色の下着が丸見えの状態だった。
和樹は思わず目を奪われてしまった。
いや、魅せられていた。
「う~……」
「はっ! だいじょ、あ、わっ!」
痛がる仁愛に、和樹は目を閉じたまま近づいたのだが、スカートに足を取られる。
幸い床はカーペットになっているので、仁愛が打った頭に
めくれたスカート。
かあっ、っと体温があがっていく、仁愛と和樹。
「あ、わあああ、ご、ごめんっ!」
和樹は身体を起こし、スカートを戻して床に膝を突いたまま、正座で仁愛に背中を向けた。
仁愛は顔を真っ赤にして、静かに上体を起こし、じろ、と和樹の背中を視線で刺す。
そして和樹の頭をぱしん、と
「!?」
目を丸くして、和樹が振り返る。
「女性のファーストキスを奪ったんだから、これくらいは許して下さい!」
仁愛が涙目で、
和樹は頭を掻き、頭を下げた。
「ごめん。今日会ったばかりなのに、こんな話をしたあげくキスまでしてしまって……」
「本当です。ひどいです。あんまりです!」
「心から謝るよ。でも結婚式の時にお互いファーストキスだと緊張して、それまでの偽装恋人や偽装同棲も無駄になると思っちゃって、それで――」
「…………」
「ごめん」
「いえ、まあ、それも、一理あります、かね。でも、デスクの上でファーストキスっていうのは、ちょっと色気がなさすぎじゃないですか?」
「あ、うん、確かにそうだね」
仁愛は立ち上がって和樹の正面に回り、屈んで和樹の肩を
そして、顔を近づけてキスした。
ちゅぽ、と、扇情的な音を立てて、離れる唇。
今度は和樹が放心する番だった。
「ふぁ、ファーストキスを奪ったんですから、セカンドキスはいただきます。い、嫌でしたか?」
顔を赤くし、テキーラの甘い香りをまとった仁愛が、艶っぽく和樹に
「そんなこと、ない、かも」
「なら、よかったです」
頬を染めながら、小首を
和樹はそんな愛らしい仁愛の仕草に、言動に、思考に、心を
「そもそも私も、橘家に近づけなんていうことを言い出してきた一条の家に、うんざりしていましたから。それに和樹さんの契約書を流し読みしましたが、
頬を染めたまま、ぐっ、と、両拳を胸の前に作って、きりっと眉を
「ふふ……あははははははは!」
和樹はそんな仁愛の言葉に、思わず笑ってしまった。