目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第八話

「ねえ、ちょっと、あそこ見てよ!」


 翌日の昼休み。

 雲一つない天気の中、初夏の爽やかな風がビルに当たって汚されていく、そんな時間。

 三人組のOLが、とあるオープンテラスにいる二人に目を向けた。


「え、うそ!」

「あれって橘専務じゃない!?」

「ちょっと対面に座ってる女、誰よ!」

「ま、まあまあかわいいじゃない……」


 三人がひよどりのようにざわつく。

 そのカフェで仲よさそうに笑顔を交わしながら食事をしていたのは、アルオン・グループ社長、橘市政の次男である、橘和樹だ。

 和樹は高価な時計や装飾品、高級な料理店などを好まない性格だった。


 そしてそれは、仁愛も同様である。

 故にこのようなオフィス街で待ち合わせをして、堂々と互いに契約書と計画書が入ったノートパソコンを向け合い、笑顔を交わしながら食事をするのも、全く抵抗がなかった。

 これも仁愛が立案した策の一つだ。


 こうして公の場で仲良くしている姿を見せつけることで、故意に噂を広める。

 人は噂が好きだから、和樹だけではなく、仁愛の素性すじようもすぐ割れるだろう。

 そうなれば、自然と一条家や橘家の耳にも入る。

 こうして二人は堂々と外で昼食をすることにしたのだが、その内容は……。


「だーかーらー、今夜! 和樹さんの部屋を見せてくださいよ!」

「いや、そんな急には困るよ。まだいろいろと片付いてないし」

「いろいろってなんですか?」

「それはその、いろいろだよ!」

「えっちなビデオとかですか?」

「それは違う! 断じて違う!」

「別にあってもいいですよ。健康な成人男性ですから。全然おかしいことじゃないです」

「僕の話を聞いてくれ!」

「じゃあ今夜、案内してくださいね」

「せ、せめて明後日の土曜日にしてくれないかな?」

「むー……」


 言い争いをしていた。

 この程度の軽い話ならば、誰に聞かれても問題ない。

 いや、むしろ聞かれた方が好都合かもしれない。

 そういうところは昼でも夜でも、場所を選ばずに話ができる。


 しかし契約書や計画書の内容となると、話は変わる。

 これらはどうしても聞かれてはならない話なので、ならば和樹の部屋で、という話になったのだが、何故か和樹はそれをかたくなに拒んできたのだ。


 とはいえ仁愛の部屋となると、これは仁愛が困ってしまう。部屋には下着が干してあるし、自分では気づいていないような、なにかを置いてあるかもしれない。いきなり部屋に行かせてくれと言われて戸惑わない女性はいないと思うが、よもや男性の和樹がここまで慌てるとは思わなかった。


「仕方ないですね。じゃあいつになったらもう少し詰めた話ができるんですか?」

「その、やっぱり明後日、僕の部屋で」

「はあ……わかりましたよ」

「ありがとう!」

「二日間あげますから、えっちなものは全部、見えないようにしておいてくださいね」

「僕の部屋にどんな想像をしてるのかな!?」

「ふつうです」

「絶対違うと思うけど」


 まるで鍔迫つばぜいのような会話を笑顔で交わし、互いに会社に戻り、業務をこなして、仁愛は自分のアパートに帰ってきた。

 鞄を置いて部屋に明かりをともし、自室を見回す。

 2LDKの部屋はそれほど広くないし、物も少ない。

 ダイニングテーブルには、和樹から渡された書類が置いてあった。


「三略契約書、かあ」


 中を読んで理解したが、三略とは〝偽装、契約、政略〟をまとめたものだった。

 元々、和樹が望んだのは契約結婚であり、仁愛は父らの狙いによる政略結婚だ。

 しかしこれら二つを遂行すいこうするには結局、いろいろと偽装しなくてはならない。

 故に和樹は偽装結婚も織り交ぜた契約書としたのだと、仁愛は理解した。

 仁愛は契約書を手にして、リビングのソファに身を投げる。


「はぁ……なんだか変なことになっちゃったな」


 仁愛はここ数日で、自分の身に起きたことを回想する。

 これまで普通に仕事をして、帰りに買い物をしてこの部屋に戻ってきて、今日も頑張りました、とヱビスビールを一本飲んで、本や映画に心を動かし、ベッドで眠る。そして朝は冷蔵庫のチェックをして、着替えて会社に行く。

 そんな繰り返しの日々に対して、特に不満はなかったのに。

 それが、数日後には知り合ったばかりの人の部屋に引っ越すことになるなんて。

 仁愛はそっと、唇に指を当てる。

 柔らかくて、暖かくて。甘美な感触だった。


「キス、しちゃったんだなあ」


 そう思うと、なんだか身体が熱くなってくる。

 和樹が健康な男性であるように、仁愛だって壮健な女性だ。そうなると、やっぱり……いや、あり得ないけれど、でも、一緒に暮らしたら、心が揺れ動くことがあるかもしれない。

 仁愛は契約書を床に落とし、天を仰いで、腕で目を覆う。

 床に落ちた契約書が、あるページを開いた。


 第2条 甲(和樹)と乙(仁愛)の関係について

 1.甲は乙に、強引な性的交渉を求めないこととする。

 2.乙は甲に対し、本契約を一方的に破棄する権限を持つ。

 3.乙は甲がこの契約の破棄を要請した場合、拒否する権利はない。


 この条項は、全て仁愛が圧倒的に有利なものである。

 仁愛をきちんと尊重し、自分は譲歩した内容になっている。

 これだけで橘和樹がどういう性格なのかを読み取れた。

 橘和樹は、とてもいい人だ。


 柔和にゆうわな顔や表情も素敵だし、女性に対する扱いも優しい。

 しかし、これらには全て〝現時点では〟というまくらことばがつく。

 なにせ仁愛は和樹と知り合って二日しかっていないし、その程度の時間で相手がどんな人物か、全てを把握するのは不可能だ。

 まして男女の間柄であれば、尚更なおさら


「でも……」


 仁愛はとくん、と高鳴った胸をとんとんとたたくと、床に落ちた書類を拾い、服を脱いでシャワーを浴びてパジャマに着替え、栄養補助食品を食べて歯を磨き、早々にベッドに潜り込んだ。

 枕の隣にスマートフォンを置く。この中には和樹の電話番号と、LINEのアカウントが入っている。

 気がつけば、仁愛はずっと和樹のことばかり考えていた。

 和樹から、なにかメッセージが入るかな。


 そんな期待をしてしまっている自分に、はっ、として、スマートフォンに背を向ける。

 あのアルオンのパーティー以来、なんだかとても面白いことが始まったんだ、という思いが湧き上がってくるのは、素直に認めていた。


「ふふっ」


 あの秘密部屋でのやりとりを思い返し、笑みがこぼれる。

 実際に籍は入れないが、仮面夫婦として過ごし、両家を欺く偽装結婚。

 和樹のアルオンと仁愛のファーストアイを結ぶと見せかける、政略結婚。

 結婚したくないという和樹が、仁愛に提案してきた契約結婚。


 和樹の会社であるアルオンとその創業家一族、仁愛の会社であるファーストアイとその創業家一族、これらをまとめてだますのだ。今まで牢獄ろうごくに入れられて、父の言われるままに行動を強いられ、自由に生きられなかった仁愛にとって、ようやく手にした牢獄の鍵のような話が降ってきたのだ。


(……あれ?)


 そこでふと、仁愛は一つの疑問に勘付いた。

やかな風がビルに当たって汚されていく、そんな時間。

 三人組のOLが、とあるオープンテラスにいる二人に目を向けた。

「え、うそ!」

「あれって橘専務じゃない!?」

「ちょっと対面に座ってる女、誰よ!」

「ま、まあまあ可愛かわいいじゃない……」

 三人がひよどりのようにざわつく。

 そのカフェで仲よさそうに笑顔を交わしながら食事をしていたのは、アルオン・グループ社長、橘市政の次男である、橘和樹だ。

 和樹は高価な時計や装飾品、高級な料理店などを好まない性格だった。

 そしてそれは、仁愛も同様である。

 故にこのようなオフィス街で待ち合わせをして、堂々と互いに契約書と計画書が入ったノートパソコンを向け合い、笑顔を交わしながら食事をするのも、全く抵抗がなかった。

 これも仁愛が立案した策の一つだ。

 こうして公の場で仲良くしている姿を見せつけることで、故意に噂を広める。

 人は噂が好きだから、和樹だけではなく、仁愛の素性すじようもすぐ割れるだろう。

 そうなれば、自然と一条家や橘家の耳にも入る。

 こうして二人は堂々と外で昼食をすることにしたのだが、その内容は……。

「だーかーらー、今夜! 和樹さんの部屋を見せてくださいよ!」

「いや、そんな急には困るよ。まだいろいろと片付いてないし」

「いろいろってなんですか?」

「それはその、いろいろだよ!」

「えっちなビデオとかですか?」

「それは違う! 断じて違う!」

「別にあってもいいですよ。健康な成人男性ですから。全然おかしいことじゃないです」

「僕の話を聞いてくれ!」

「じゃあ今夜、案内してくださいね」

「せ、せめて明後日の土曜日にしてくれないかな?」

「むー……」

 言い争いをしていた。

 この程度の軽い話ならば、誰に聞かれても問題ない。

 いや、むしろ聞かれた方が好都合かもしれない。

 そういうところは昼でも夜でも、場所を選ばずに話ができる。

 しかし契約書や計画書の内容となると、話は変わる。

 これらはどうしても聞かれてはならない話なので、ならば和樹の部屋で、という話になったのだが、何故か和樹はそれをかたくなに拒んできたのだ。

 とはいえ仁愛の部屋となると、これは仁愛が困ってしまう。部屋には下着が干してあるし、自分では気づいていないような、なにかを置いてあるかもしれない。いきなり部屋に行かせてくれと言われて戸惑わない女性はいないと思うが、よもや男性の和樹がここまで慌てるとは思わなかった。

「仕方ないですね。じゃあいつになったらもう少し詰めた話ができるんですか?」

「その、やっぱり明後日、僕の部屋で」

「はあ……わかりましたよ」

「ありがとう!」

「二日間あげますから、えっちなものは全部、見えないようにしておいてくださいね」

「僕の部屋にどんな想像をしてるのかな!?」

「ふつうです」

「絶対違うと思うけど」

 まるで鍔迫つばぜいのような会話を笑顔で交わし、互いに会社に戻り、業務をこなして、仁愛は自分のアパートに帰ってきた。

 鞄を置いて部屋に明かりをともし、自室を見回す。

 2LDKの部屋はそれほど広くないし、物も少ない。

 ダイニングテーブルには、和樹から渡された書類が置いてあった。

「三略契約書、かあ」

 中を読んで理解したが、三略とは〝偽装、契約、政略〟をまとめたものだった。

 元々、和樹が望んだのは契約結婚であり、仁愛は父らの狙いによる政略結婚だ。

 しかしこれら二つを遂行すいこうするには結局、いろいろと偽装しなくてはならない。

 故に和樹は偽装結婚も織り交ぜた契約書としたのだと、仁愛は理解した。

 仁愛は契約書を手にして、リビングのソファに身を投げる。

「はぁ……なんだか変なことになっちゃったな」

 仁愛はここ数日で、自分の身に起きたことを回想する。

 これまで普通に仕事をして、帰りに買い物をしてこの部屋に戻ってきて、今日も頑張りました、とヱビスビールを一本飲んで、本や映画に心を動かし、ベッドで眠る。そして朝は冷蔵庫のチェックをして、着替えて会社に行く。

 そんな繰り返しの日々に対して、特に不満はなかったのに。

 それが、数日後には知り合ったばかりの人の部屋に引っ越すことになるなんて。

 仁愛はそっと、唇に指を当てる。

 柔らかくて、暖かくて。甘美な感触だった。

「キス、しちゃったんだなあ」

 そう思うと、なんだか身体が熱くなってくる。

 和樹が健康な男性であるように、仁愛だって壮健な女性だ。そうなると、やっぱり……いや、あり得ないけれど、でも、一緒に暮らしたら、心が揺れ動くことがあるかもしれない。

 仁愛は契約書を床に落とし、天を仰いで、腕で目を覆う。

 床に落ちた契約書が、あるページを開いた。


 第2条 甲と乙の関係について

 1.甲(和樹)は乙(仁愛)に対し、性的な干渉を求めないこととする。

 2.乙は甲に対し、本契約を一方的に破棄する権限を持つ。

 3.乙は甲がこの契約の破棄を要請した場合、拒否する権利はない。


 この条項は、全て仁愛が圧倒的に有利なものである。

 仁愛をきちんと尊重し、自分は譲歩した内容になっている。

 これだけで橘和樹がどういう性格なのかを読み取れた。

 橘和樹は、とてもいい人だ。

 柔和にゆうわな顔や表情も素敵だし、女性に対する扱いも優しい。

 しかし、これらには全て〝現時点では〟というまくらことばがつく。

 なにせ仁愛は和樹と知り合って二日しかっていないし、その程度の時間で相手がどんな人物か、全てを把握するのは不可能だ。

 まして男女の間柄であれば、尚更なおさら

「でも……」

 仁愛はとくん、と高鳴った胸をとんとんとたたくと、床に落ちた書類を拾い、服を脱いでシャワーを浴びてパジャマに着替え、栄養補助食品を食べて歯を磨き、早々にベッドに潜り込んだ。

 枕の隣にスマートフォンを置く。この中には和樹の電話番号と、LINEのアカウントが入っている。

 気がつけば、仁愛はずっと和樹のことばかり考えていた。

 和樹から、なにかメッセージが入るかな。

 そんな期待をしてしまっている自分に、はっ、として、スマートフォンに背を向ける。

 あのアルオンのパーティー以来、なんだかとても面白いことが始まったんだ、という思いが湧き上がってくるのは、素直に認めていた。

「ふふっ」

 あの秘密部屋でのやりとりを思い返し、笑みがこぼれる。

 実際に籍は入れないが、仮面夫婦として過ごし、両家を欺く偽装結婚。

 和樹のアルオンと仁愛のファーストアイを結ぶと見せかける、政略結婚。

 結婚したくないという和樹が、仁愛に提案してきた契約結婚。

 和樹の会社であるアルオンとその創業家一族、仁愛の会社であるファーストアイとその創業家一族、これらをまとめてだますのだ。

 今まで牢獄ろうごくに入れられて、父の言われるままに行動を強いられ、自由に生きられなかった仁愛にとって、ようやく手にした牢獄の鍵のような話が降ってきたのだ。

(……あれ?)

 そこでふと、仁愛は一つの疑問に勘付いた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?