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第九話

第一章 兵は拙速を聞く 第九話




 そもそも政略結婚は仁愛が命じられていたものであり、仁愛本人はさすがにそんな命令に従う気などさらさらなかったので、偽装結婚は理解できる。

 しかし〝和樹が結婚したくない〟ということから計画された契約結婚は、なにか引っかかるものを感じた。


(そもそも、どうして和樹さんは結婚したくないんだろう?)


 いつもの仁愛なら、こんな初歩的な疑問など、すぐに把握できた。

 しかし今回は状況の変化がすごすぎて、今になるまで気づけなかった。

 結婚したくない男性が、いくら家からの強引な結婚を避けたいからといって、ここまで大がかりな偽装工作をするだろうか。


(これは、和樹さんにも裏がある)


 仁愛は確信した。

 和樹には仁愛に話していない、根源的な、なにかがある。

 それを明かしてくれるまでは、心を許してはならない。

 そう気を引き締めていた時、スマートフォンの着信音で跳ね起きた。


「なな、な?」


 軽く混乱しながら、スマートフォンを手にすると、画面にはメッセージが入っていた。



「和樹:今日も真剣に考えてくれてありがとう。ちょっと早いかなと思ったけれど、後で起こしてしまうよりはいいかなと思ってラインするね。仁愛さん、おやすみ」



「うう……」


 こういうところなんだよなあ、と、仁愛はスマートフォンをぎゅっと胸に抱く。

 いちいちときめくな、この胸!

 仁愛はもんもんとしながら、枕に顔を埋めた。


 翌日は仕事明けに食事をして、さらに次の日。

 いよいよ仁愛は和樹の部屋を訪れることになった。


「うう……」


 朝の十時に渋谷で待ち合わせ、そこから肩を並べて歩く。

 その和樹の足取りは、鉄球でもつけているかのように重たかった。


「もう、和樹さん! 私たちはこれから結婚するんですよ? そこに住む場所を案内するのに、どうしてそんな暗い顔をしているんですか!」


 まるで三日間、徹夜をしたかのような表情の和樹は、せっかくの整った顔が台無しだった。


「あ、あらかじめ言っておくけれど、僕の部屋を見て引かないでよ?」

「それは見てからじゃないと判断できません」

「だよねえ」


 そして、和樹は徒歩五分くらいした場所にある、複合商業施設の前で立ち止まった。


「まさか、こ、ここですか?」

「うん」


 はー、と、いきをつく。

 おしゃれな強化ガラス張りのビルで、周囲に立ち並ぶビル群の中でも抜きん出るほど大きく、そして高い。下層は商業施設になっているようで、多くの人が出入りしていた。その入り口や、ビルの上部に燦然さんぜんと輝いていたのは、アルオンのロゴだった。


「こういうのって普通、上層階はオフィスとかじゃないんですか?」

「ここはアルオン・グループ直営のビルだからね。オフィス階ももちろんあるけれど、更にその上に、居住階があるんだ」

「はぁ~、お金持ちですね~」

「いや、仁愛さんだって変わらないでしょ」


 和樹の指摘に対し、確かに、と思ったけれど、それは会長の祖父母と、父が住んでいる場所に限る。仁愛が住んでいるのは、場所の割には家賃が安いアパートだ。住宅手当があるとはいえ、給料から家賃、光熱費も出しているので、金銭的な余裕はなかった。

 しかし目の前のこれは、あきらかに仁愛の給料で住めるような場所ではない。


「じゃあ行こうか」

「はい」


 そんな場所に向かって歩き出す和樹と、その背を追う仁愛。

 ビルの中は、フードコートやスーパー、衣料品やゲームセンターなど、ショッピングモールがそのまま入っていた。

 和樹はサービスカウンターに向かって微笑ほほえむ。


「お帰りなさいませ」


 カウンターの奥にいた女性社員たちが和樹の顔を見ると、一斉に腰を折った。


「どうも」


 和樹はそのままカウンターの端から奥に入り、そこにあった三基のエレベーターの前に立ち、ボタンを押した。


「あの、ここからじゃないと出入りできないんですか?」


 仁愛が和樹にく。

 部屋で出入りする度に誰かに会うのは、割とストレスだ。


「商業階から居住階に上がる場所は三カ所ある。そのうち二箇所はこんな感じだけど、居住階からそのまま外に出られるエレベーターもあるよ。でも、どちらを使うにしてもまず居住者専用ラウンジを通って、もう一度、エレベーターに乗り換えなきゃならないけどね」

「なるほど」


 まあ、要人やお金持ちが住むには無難な造りだった。居住者専用ラウンジそのものが、完全な防犯エリアになっている、ということだ。仁愛の父も、ここと似たような造りの部屋に住んでいるので、おそらくこのあたりも橘市政はしっかりと模倣したのだろう。

 やがてエレベーターがやってきたので、そこから上に向かう。仁愛はどの階を通過するかとエレベーターのランプに目を向けたが、そこには数字がなく、縦に四つのランプがあるだけだった。

 あっ、という間に四つのランプが点灯すると、扉が開いた。


「へえ~」


 仁愛が小さく声を漏らす。

 そのラウンジは全面ガラス張りになっており、渋谷の街が一望できた。まだ昼間なので、楽しそうに歩く人や、機械的に走る列車や車が、眼下に広がっている。

 仁愛が住んでいるアパートとは、雲泥の差だ。


 しかし、同レベルのビルを複数保有しているファーストアイの社長令嬢である仁愛にとって、あこがれや驚きなどの感情は特になく、平然とした顔で和樹と相対していた。このようなビルに、仁愛の父も住んでいる。渋谷ではなく池袋にあるものの、建物の構造や規模はそっくりだったので、特段、驚くようなことはなかった。


「さすが仁愛さん。全然、動じないね。これが普通の人なら、わーきゃー言うのに」

「あ……ええ。割と見慣れた光景だからですかね。ごめんなさい、わいくなくて」

「なにを言ってるの。こっちとしてはむしろその方がありがたいよ。きっと生まれの環境が似てるからなのかな。それって、今後にとっていいことなんじゃない?」

「客観的に考えて、私もそう思います」

「はは。それじゃ、こっちへ」

「はい」


 和樹が再び歩き出し、仁愛もとことことついて行く。

 床はグレーの絨毯じゆうたんが敷き詰められ、天井には立派なシャンデリアがある。そしてここにもカウンターがあり、女性のコンシェルジュが二人いた。


 そのカウンターの両翼にはガードマンが一人ずつ、胸を張って立っている。強化ガラスで外界を目にできる壁側には、いくつかのデスクとソファがあり、そこで商談らしき会話を交わしている人たちまでいた。

 カウンターを横切り、左手奥にある二基のエレベーターのうちの一つに乗り込む。ほどなくして扉が開くと、和樹は035号室を解錠し「どうぞ」と、何故なぜか緊張しながら、仁愛を部屋に入れた。


 和樹が照明をつけると、部屋の状況があらわになった。

 玄関から、まっすぐ廊下が伸びていて、左手は脱衣室と浴槽があり、右手にはトイレがある。仁愛がそれらを通り過ぎると、ホールのような場所に出た。


「わあ、広い!」


 大まかに分けて、手前からバスルーム、キッチン、ダイニング、リビングとなっている。

 仁愛はすうっ、と息を吸う。

 男性特有の匂いがする。この匂い、好きだなあと仁愛は思う。


 しかし鋭い仁愛は、すぐこの部屋の違和感に気がついた。

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