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第十話

第一章 兵は拙速を聞く 第十話




 まず、壁につい最近まで、なにかが掛かっていたような跡がある。そして食器棚の皿やグラスの数が一人暮らしの割には多い。パーティー用なのかもしれないが、その割には大皿が少なかった。

 リビングの左右には二つずつ扉があり、正面はバルコニーになっていた。げ型のフックに、物干し竿が二つ。これなら洗濯物もよく乾くだろう。


「仁愛さん、ソファに座ってて」

「はい」


 平静を装いつつ、仁愛は、その観察眼をフルに働かせる。和樹は無意識のうちに、ダイニングから見て左奥のドアに、何回か視線を投げていた。和樹が荷物を置き、冷蔵庫からお茶のペットボトルを二本取り、棚から見覚えのある紙の束を取り出している。


 その隙に仁愛は、ソファに座らず、すたすたと、和樹が気にしていた扉に向かった。


「あ! そ、そこはっ!」


 和樹が慌てて走ったものの、仁愛がその部屋のドアを開ける方が早かった。


「わ、わああっ!」


 和樹の悲鳴を無視し、仁愛は照明のスイッチを手早く探り当ててオンにすると、天井のシーリングライトが点灯し、部屋全体を浮かび上がらせた。右手の壁には、様々なアニメのフィギュアが並び、左手には書籍と、映画の円盤がびっしりと納められている。


 そして奥には大型のテレビ、その左右には棒状のスピーカーが置かれていた。テレビの下にはゲーム機が並び、真新しい二人がけのソファと、小さなガラステーブルがあった。


「こ、これは!」


 ほほを染め、フィギュアに目を向けて口に手を当てる仁愛。


「あうう……」


 青い顔をして、がっくりと膝から崩れ落ちる、和樹。


「和樹さん、これって?」


 ふるふると身体を震わせながら訊く仁愛。


「は、白状するよ。僕の趣味は映画とか、アニメやゲーム、そして漫画やフィギュア集めなんだ。これまでは一人で暮らしてたからリビングにも飾っていたんだけれど――」

「そっか、だから私が和樹さんの部屋を見たいって言った時、あんなに拒んだんですね」

「うん。大急ぎで全部、この部屋に隠したんだ。だって仁愛さんに、気持ち悪いって思われるかな、って」


 仁愛はうなれる和樹の前で屈み、力を込めて言った。



『私、こういうの大好きですっ! もっと見ていいですか!?』



「え、え? ああ、いい、けれど?」

「やったぁ!」


 ぴょん、とスカートを舞わせながら跳ねると、和樹秘蔵のコレクションに近づく。


「わあ、ヒロアカがある! 鬼滅も……あ、エヴァ~~~~♪」


 仁愛は嬌声きようせいをあげながら、フィギュア棚の前で興奮していた。


「あ、あの、仁愛さん?」

「はい?」

「こういうのって、その、君みたいなかわいい女性にとっては、嫌なものじゃないの?」

「かわいいかどうかは知りませんけど、私は好きですよ。ただ今住んでいるアパートは狭いので、こういうのを飾る場所がないんです。それにこのシアタースペースも、すごくいいですね! わぁ~、天国じゃないですか~!」


 軽く興奮気味に、目を輝かせながら漫画、アニメ、ゲームソフトの棚まで吟味していく仁愛。その姿を見て、和樹はほっと胸をなで下ろしていた。


「驚いたなあ。こんなに喜んでくれるなら、片付けなくてもよかったかな」

「いえ! こういうものは一室に飾るべきです! その方が世界観がぎゅーっと詰まって、映えますよっ!」

「そ、そう?」

「たとえば壁のポスター、元々はリビングに掛けてありましたよね? だめですよ! あんなシックなリビングには合わないです。それよりこの部屋を、このままどんどん成長させていきましょう!」

「せ、成長?」

「そーです! 私が見てないアニメや映画もいっぱいあったし。ここ、私も使っていいですかっ!?」


 仁愛の熱量に押される和樹。

 隠したいと思っていたものが、まさか仁愛の心を捉える形になるとは、夢にも思わなかった。


「もちろんだよ! ここの出入りは自由するから、仁愛さんも好きな時に使っていいよ」

「わい! やった~!」


 拳をあげて喜ぶ仁愛。

 まるで子供のようだった。


「じゃあ、ここは後にして、本題に入ろうか」

「はいっ!」


 すっかりテンションが上がった仁愛は、おとなしくリビングに戻ってソファに座ると、和樹も安心してソファに身体を預けた。


「では改めて。今回、この僕、橘和樹と一条仁愛さんの三略結婚について、疑問点はあるかな?」


 和樹が、表情を引き締め、仁愛に尋ねる。


「ありません。この契約書から私への配慮を感じましたし、和樹さんが信頼できる方だと読み取れました。ですので、この契約を締結させていただきたいと思います」

「!……ありがとう、よかった!」


 仁愛はジャケットのポケットから、印鑑を取り出す。ここに来た時にはもう、和樹が求めてきた三略結婚に合意するつもりだった。それくらい、この契約書は和樹の優しさと配慮にあふれている。仮になにか裏があろうと、仁愛がこの三略結婚に反対するまでには至らなかった。


「じゃあ、ここに捺印なついんを」


 和樹が契約書を仁愛に差し出す。

 ページを開くと、そこにはもう和樹側の捺印欄に判が押されていた。

 仁愛は印鑑を朱肉につけて、その契約書に判を押す。

 和樹も仁愛が持っていた契約書に自分の印鑑を突いた。


 仁愛はこのやりとりの最中、心の奥底で〝孫子〟の一文を思い返していた。


 この三略結婚を成し遂げるためには、とにかく早さが必要だった。つまり『兵は拙速を聞く』であり、多少の準備ができていなかろうと、少しでも速く行動する、である。


 仁愛は和樹の提案に乗る形になったが、和樹は見事に一条家、橘家を出し抜く計略を成し遂げた。


 とはいえ、大変なのはこれからだ。

 一条仁愛と橘和樹による結婚が偽装であると露見しないよう、和樹とは契約を守りながら共に生活しなくてはならない。


 仁愛は和樹と、そんな不思議な結婚生活をスタートさせた。

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