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第二章 無中生有

第一話

 仁愛と和樹は周りを巻き込みつつ、慌ただしい日々を送っていた。


 仁愛はファーストアイ・ホールディングス本社の会長室にて、祖父や父に、今回のパーティーではターゲットであるたちばな栄貴に近づけなかったものの、その弟・和樹と意気投合。告白されて恋人になり、将来を考える仲になったことを告げると、二人ともその成果に大喜びした。


 本来の計画では仁愛を長男の栄貴と結ばせたかった祖父と父だが、目的はアルオン・グループ創業者一族との政略結婚なので、結果的には弟の和樹でも問題はない。あからさまに自分のことを道具としか見ていない祖父と父に辟易へきえきとしながら、仁愛は近いうちに和樹と同棲どうせいするとだけ告げて、その場を後にした。


 仁愛は政略結婚を仕掛けた祖父と父を、心底、疎ましく思えてきた。


 確かに戦略的には間違いではない。仁愛と和樹の仲を皮切りに、両社は大きな事業を展開していくだろう。しかし、そのために一族である仁愛と和樹という二人を利用したことに対して、全く悪びれてもいないところに、おぞましさすら感じた。


 とはいえ、現時点で仁愛は和樹を悪く思っていなかったし、その相手とこれから一緒に暮らすということに、様々な感情が頭の中を駆け巡っていた。もしこれが和樹ではなかったら、この政略結婚は断っていただろう。それは、間違いない事実として受け止めていた。


 橘和樹。アルオン・グループの社長である橘市政の、次男。


 異性として好きか、というのはよくわからない仁愛だったが、一緒にいて面白そうだと思ったし、話していてかなり有能な人物だと理解したので、今までよりは楽しい生活ができるのではないかという予感はあった。


 この日、仁愛は午後休を取り、いよいよ和樹の部屋への引っ越しを行う。

 もう荷物はまとめてあるし、和樹も手伝ってくれるというので、業者を呼ぶ手間も省けた。

 和樹が仁愛のアパートを見たら、きっと目を丸くするだろうな。そう思うと、仁愛はいたずらっぽい笑みがこぼれる。人としてはどうしようもない祖父と父だが、その悪知恵のおかげで和樹と出会ったのだから、そこだけは感謝した。


 さあ、今日から新しい世界が動き出す。


 和樹との〝三略結婚〟が仁愛に、会社に、世の中にどんな影響を与えるのか。

 それを考えると、なんだか会社とかはどうでもいいや、という気分になってくるのが不思議だった。

 今は、和樹との暮らしを楽しもう。もし気に入らないことをされそうになったら、腕一本くらいへし折って、逃げだそう。どちらに動いても、なにか胸躍るようなことが始まるような気がして、仁愛は自然と早足になった。


 それから。

 仁愛は十四時ごろに帰宅し、和樹を待っていた。


「お、おお?」


 やがて軽トラックで乗り付けた和樹が、仁愛のアパートを見て発した第一声が、これだった。

 いい意味の感嘆ではなく、予想外の喫驚だった。なにせタワーマンションに住んでいる和樹からすれば、仁愛は同レベルの会社であるファーストアイの令嬢なのだから当然、部屋も相応だと思っていた。

 しかし実際、仁愛が住んでいたのは、まるで学生が住む安アパートのようだった。


「和樹さん、来てくれてありがとうございます!」


 屈託なく、和樹に手を振って礼を言う仁愛。


「いや……いいんだけど、これ、本当に仁愛さんの、アパート?」


 信じられない、という表情の和樹に対し、むっ、とした表情でずかずかと歩み寄り、背伸びして和樹に顔を近づける仁愛。


「それ、違いますよね!?」


 和樹は顔を赤くし、仁愛から視線をらした。


「あ、そうだったね。でも、本当にこれが、に、仁愛の、アパート?」


 和樹が混乱と嬉恥きちが混じった声で、仁愛に訊く。


「はい。素敵でしょう? 駅からも近いですし、築年数はかなり経っていますが、頑丈なんですよ!」

「いやあ、そっか。僕はてっきり、もう少し立派な……いや、新しくて広い部屋だと思ってた、から」

「だって一人暮らしですし。あんまり広すぎたら掃除が大変じゃないですか。それに、これは祖父の教えなんです。贅沢ぜいたくに慣れてはいけない。まずは最も家賃が安く、最も築年数が経っている物件を選べ、って。実際、ここで学ぶことは多かったです」

「そっか……さすが、あのファーストアイを仕切っているだけあるね。

 中身は、くそやろう、ですけどね。

 仁愛は危うく喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。


「じゃあ僕は仁愛の荷物を車に積んでおくけど、いい?」

「お願いします。私は大家さんにお礼を言って、鍵を返してきますので」

「わかった、こっちは任せて」


 力強く胸を張って、トレーナーの腕をまくる和樹に笑顔を向けた。

 先日、和樹と契約を交わした日。仁愛は和樹に口頭でいくつかの提案をしていた。

 そのうちの一つが、今後、仁愛を呼び捨てにすることだった。


 妻が夫を〝さん付け〟するのは自然だ。

 しかし夫が妻に〝さん付け〟するのは、周囲からすると奇妙に映る。

 ならば和樹も自分を呼び捨てにしてほしい、という意見を仁愛は却下した。今回の作戦では仁愛が夫を支える良妻を演じる必要がある、と主張し、和樹も納得してその意見を受け入れたのだ。


 そして腰に絞りがなく、ゆったりしている薄紫色のワンピースを着て、履き物はサンダルという、かわいい格好の仁愛が、アパートの入り口で「お世話になりました」と声に出し、深々と頭を下げる。ベリーショートでストレートの髪が、はらりと零れると、蠱惑的こわくてきなうなじが露わになり、それを目にした和樹の胸が跳ね上がった。


 仁愛は頭を上げると、荷物の上に置いてあった菓子折りを手にして「それじゃ、荷物をお願いします!」と言い残し、古びたブロック塀の外側をぱたぱたと走って行った。

 その背中を見て、改めて一条仁愛という女性は素敵な人だ、と胸を熱くさせていた。


 そんな和樹は数秒後、またしても仰天の光景を目の当たりにすることとなる。


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