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第六話

 第5条 プライバシーについて

 1.甲(和樹)、乙(仁愛)は、互いにプライバシーを侵害しないこと。

 2.甲乙は、互いの部屋に許可なしで入ってはならない。

 3.疑問に思ったことは、その側が会議の開催を宣言し、即座に解決すること。

 4.3.にて決定された変更事項が契約書に記載されていた場合、その都度、改訂すること。


 契約書の第五条第三項が仁愛の脳裏に浮かぶ。


「疑問に思ったこと……ですか」


 仁愛は早速、会議を開き、疑惑を和樹に伝えるべきだろうかと悩んだ。

 しかし、仁愛は頭を振って、その考えを払拭ふつしよくする。


 なにかを判断するには、まだ早すぎる。

 和樹と知り合って日が浅いのだから、わからないことだらけなのは当たり前だし、現時点での和樹の性格を考えれば、なにかを隠していたとしても仁愛に伝えるはずだが、今の関係値の低さを鑑みれば、和樹はまだ仁愛に言うべきではないと判断しているに違いない。

 それは至極しごく、当然の結論だった。


 洗い物を全て終えると、仁愛は手をタオルで拭いてエプロンを脱ぎ、それをドラム式洗濯機の中に入れ、ぱたぱたとリビングに向かった。テレビに映されていたのは、東欧アゼルバイジャン共和国の、田舎いなか暮らしを淡々と流す、という動画だった。

「こういうのがお好きですか?」


 ソファに腰を埋める和樹に問いかける仁愛。

 和樹は仁愛に、柔らかな笑顔を向ける。


「うん。こことは真逆の環境だからね。いろいろと勉強になるし、なんとなく落ち着くんだ」

「へえ~……隣、いいですか?」

「え、あ、うん」


 歯切れの悪い返事に首をかしげる仁愛だったが、和樹の隣に座ると、瞬時に理解できた。

 どんなに離れようとしても、腰骨が当たってしまうくらいの近さだ。

 二人がけの恋人専用、ラブソファーだった。

 腰に和樹を感じると顔が熱くなる仁愛。


(ひゃあああああ~~~~)


 男性とここまで密着したことがなかった仁愛は、両膝をくっつけ、その上に手を置いて顔を下げた。


「仁愛。パスタ、しかったよ。それに洗い物もすぐやってくれて、ありがとう」


 和樹の甘い声が、吐息を感じるような距離から、仁愛の耳をくすぐる。


「いいいいいいえ、いいんです。それより、明日は月曜日ですけど、和樹さんもお仕事ですか?」

「あ、うん。七時にはここを出ようと思ってる」

「そうですか。私は七時半に出ますから、それまでにお弁当、作っておきますね」

「それはうれしいな。ありがとう!」


 和樹が仁愛に顔を向けると、より密着度が上がる。疑惑はあるけれど、ここまでくっついても嫌だと思わないのが、仁愛にとっては不思議だった。どうやら自分は、男性恐怖症というわけではないらしい。あまりにも出会いに恵まれてこなかったので、実はそうなのではないかと心配していた。


「和樹さんと私の収入を考えると、いろいろと甘えてしまうことになっちゃうと思うんです。だったらその分、私は部屋をれいにするとか、お弁当を作るとか、ゴミ捨てをするとか、とにかく、身体でお返しさせていただきます!」

「か、身体……」

「どうしてそこだけ切り抜きました!?」

「いいい、いや、ごめん!」

「いえ、別に怒っているわけでは――」

「仁愛は本当に優しくてかわいくて、働きものだね」

「ふぁっ!? か、かか、かわいいっ!?」


 突然、胸に打ち込まれた言葉の矢に、頭から湯気が立ち上るんじゃないかと思うほど熱くなる仁愛。

「あ、失礼だったかな」

「いえ……かわいいって言われて、嫌な女性は、いないと、思います」

「それなら、よかった」

「和樹さんって……おんなったらしですか?」


 その言葉に、思わずソファから起きて噴き出す和樹。


「な、え? そんなことないよ?」

「そうですか。それならいいです」

「どうしてそんなことを?」

「だって和樹さんって、さらっと女の子にかわいいとか言えちゃうので」

「ああ、ごめん。僕、割と思ったことをそのまま口にしちゃうところがあるから。直さないとね」

「じゃあ私をかわいいと思ってくれたのですか!?」

「うん」

「それは、嬉しい、です」


 ほっぺたに両手を当てて照れる仁愛。


「これはもう、お付き合いするしかありませんね」

「えっと、三略結婚とはいえ、いちおう、もう夫婦なんだけどね」

「わかってます。高度な冗談です」

「高度すぎてつかめなかった!」


 一瞬、二人の間に流れる、暖かな間。

 その空気に、声をそろえて笑った。



 それから映画を見ようということになり、仁愛は娯楽部屋で名作「タイタニック」を鑑賞した。何度も観た映画だったが、やはり同じ場面で号泣し、和樹もつられて泣いていた。この娯楽部屋に置かれていた鑑賞スペースもラブソファーだったが、仁愛は映画に没頭していたので、リビングのソファよりは緊張せずに映画を楽しめた。


 照明を落とせば、正面に大画面で高精細な映像が流れる。音響にもこだわっており、完全防音になっているので、衝撃音が大音量で仁愛の身体を突き抜ける。このこだわりは、さながら小さな映画館を生み出していた。


 リビングに戻った時はもう夕方になっており、存分に泣いた仁愛の顔は、くしゃくしゃだった。

 その時、和樹が気づいた。


「あれ、仁愛って化粧してないね。家だから?」

「いえ、私はいつも基礎化粧品をつけるだけで、それ以上は特になにもしてないです」

「へえ……そんなに綺麗な肌なのに?」

「そ、そうですか?」


 ぼっ、と、頬が染まる仁愛。

 ほとんどすっぴんなのだが、その肌を褒められたら、やはり照れる。


「女性の化粧品って、たくさん種類があるからね」

「そうですね。ただ、私の場合は、その、それだけ揃えるお金が……」

「ああ、そういうこと」


 和樹は、仁愛の表情で全てを察した。

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