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第八話

 その後、和樹は晩ご飯を食べに行こうと言い出したが、仁愛は明日のお弁当のことがあるので、食材を買い、自宅で食べないかと提案し、和樹はそれに同意した。時間的に仕込みを行うような料理は作れないので、中華にすることにした。


 時刻は午後五時半。


 和樹にはここでの買い物を部屋に持って行ってもらい、その間に仁愛が買い物を済ませる運びとなった。仁愛が最初に和樹のキッチンを見て思ったのは、インスタント食品や冷凍食品が多いことだった。その反面、生鮮食品や米は全くなかった。

 男性の一人暮らしでお金持ちなのだから、そんなものかもしれないなあ、と仁愛は思いつつ、米五キロ、キャベツ、レタス、人参にんじん、豚肉など、今夜のご飯に必要な食材を手際よく集めていくと、会計し、鞄からマイバッグを出してそれらを詰めていく。


「はうっ!」


 そこで仁愛は、あっさり壁にぶち当たった。

 非力な仁愛にとって、買ったものがあまりにも多すぎたのだ。

 特に、五キロの米。


「む~……これは迂闊うかつでした」


 さて、困った。

 二つのエコバッグは既に満杯であり、これを持つのもやっかいだ。

 それに加えて、五キロの米。

 普段なら、こんなイージーミスは絶対にしない。それなのにやってしまったのは、お化粧で浮き足立っていたことと、三階であんな買い物を見せつけられた直後だったので、いろいろ感覚が狂ったようだ。


「むむむ……」


 どうするかと考えていた仁愛だったが、打てる手は一つしかなかった。

 少し恥ずかしいけれど、カートごと部屋に運ぶ、というものだ。

 ただ、それにしても重いし多い。はたして上手くカートを操って和樹の部屋に行けるのか。

 そう思っていて時だった。


「仁愛!」


 聞き慣れた男性の声が、仁愛の耳が敏感に捉えた。


「はぁ、はぁ、きっと荷物、多くなると思って、迎えに来ちゃった」

「うう……かずきさぁ~ん……」


 思わず抱きしめそうになったが、一歩、足を出した時点で我に返り、やめておいた。


「さあ、荷物を持つから。帰ろう」

「はい~~」


 和樹がバッグを持ち、仁愛は五キロの米を大事そうに抱えて、先を歩く。

 その時、和樹はまるで小さな仁愛が笑顔で、赤子を抱っこして歩いているみたいだな、と思ったが、瞬時に、ということはその赤ちゃんの父親は……と考えてしまい、思考を停止した。

 こうして和樹と仁愛は、無事に買い物を終えると、部屋に戻った。


 仁愛は化粧品類の整理は後回しにして、早速、炊飯器を掃除し、釜を磨いて米を炊く。

 そして米が炊けるまでの時間を無駄にせず、買ったものを冷蔵庫や棚に片付けていった。

 和樹は仁愛から受け取ったレシートを横に、リビングのテーブルにノートパソコンを持ち込み、なにやらキーボードをたたいていた。


 少し気になったものの、仁愛は家事に忙殺されてしまった。

 今日の晩ご飯は青椒肉絲チンジヤオロースー回鍋肉ホイコウロウ、チャーハンとスープの四品を作ることにした。


 鍋、まな板、包丁、皿、様々な調理器具を広げ、食材を置いても、まだ余裕がある。すごく広いキッチンだったけれど、仁愛にはやや高さが足りなくて、低めの踏み台を使わないと丁度いい高さにならないことが、若干仁愛をへこませた。


 身長があと五センチあればぁあっ!


 そんなことを悔しく思いつつ、手際よくIHヒーターの電源を入れ、その鬱憤うつぷんを刃に載せて、食材を切り裂いていった。


 かくして三十分後。

 ダイニングテーブルの上には、全ての料理が並んでいた。


「なんかいい匂いが……おぉ!」


 自室から出てきた和樹が思わずうなり、ダイニングにやって来て、椅子に座る。

 テーブルに並んだ料理たちは、香ばしい匂いを部屋に広げ、存在を主張していた。


「あ、和樹さん。ちょうどよかった。今、できましたよ!」

「うん、どれも美味しそうだ! 本当に、外食にしなくてよかった!」

「あは。それはちょっと、うれしいです」


 仁愛が微笑む。

 まだ化粧を落としていなかったのと、エプロン姿。元々のかわいさがこれらを引き立て、和樹の胸を打ち、顔を熱くした。

 当の仁愛は和樹にそんなことを思われているとはつゆ知らず、甲斐甲斐かいがいしく和樹の前に置いたグラスに冷えた麦茶を注ぐ。中華料理は基本的に熱いので、そこを理解していた仁愛は、熱いお茶よりも冷たいものを選択した。それから自分のグラスにもお茶を注ぐと、仁愛は和樹の対面に座った。


「それでは」


 湯気立つ料理に両手を合わせ、目を閉じる。

 和樹も思わず、仁愛にならって同じ仕草をした。


「「いただきます!」」


 声を揃えた後、仁愛は立ち上がり、小皿を取ってそれぞれ料理を盛り、和樹の前に置く。


「あ、ありがとう」

「いいえ♪」


 微笑ほほえみながら返事をする仁愛に、どんどん胸が早鐘を打つ和樹。

 軽く頭を振って気を取り直し、青椒肉絲を箸で口に運ぶ。


「わああ、美味い!」

「よかったです。中華はあんまり自信がなかったので」


 小首をかしげて目を細める仁愛の髪が、はらりと唇にかかる。

 和樹は食事を続けながら、どんどん仁愛にかれていく自分に戸惑っていた。

 仁愛との関係はあくまで偽装。契約結婚だ。

 そういう関係だからこそ、仁愛はここにいてくれる。

 だから本当に好きになってしまってはいけない。

 仁愛だってそんなの望んでいない……だろう。

 しかし和樹は自分の気持ちに、なるべく素直になりたかった。


 それが可能であれば。

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