和樹はここに住み始めて、食事はほとんど自分で作らなかった。
それは階下にフードコートがあり、高級レストランだってたくさんある。作る必要なく、和、洋、中、印、仏、様々な料理を口にできる。そうやってずっと一人で外食していて和樹が感じていたのは、食事とは機械的で、生きるための行為の一つにすぎない、ということだった。
当然ではあるが、どの店で食べてもいつだって同じ料理、同じ香り、同じ味の料理が運ばれてきて、それをなんの感情も揺らされず口に運ぶ。これはもはや、ただ死なないための作業だ。
それが、目の前の三品はどうだろう。
和樹が高級レストランで食べていたどんな料理よりも美味しいし、
(これが手料理なのか……)
和樹はお昼のパスタと同様、夢中で肉や野菜、チャーハンを口に運び、顔をほころばせる。
逆に仁愛はそんな和樹を見て、人に料理を作ってあげるって、こんなに温かな気持ちになるんだと楽しくなっていた。
和樹はよほど、おなかがすいていたのか、仁愛が思っていた以上に食べた。
「和樹さん。おかわり、いりますか?」
「うん、よろしく!」
仁愛に向かって子供のように皿を差し出す。仁愛は立ったままで食べる暇もなかったけれど、苦になるどころか、むしろ嬉しかった。仁愛の料理はきちんとした教室で習ったものなので腕には自信があったが、しかし、それを披露する場面がこれまでずっとなかった。ようやくその時がきたことで、習っておいてよかったと改めて思っていた。
和樹が食べる速度が遅くなってきたのを見計らい、自分も座って食事を始めた。
すると和樹は、はっ、として、視線をテーブルに落とす。
「あ、ごめん。仁愛に全部給仕をさせちゃって……料理が美味しかったから、つい……いて!」
しょぼん、とする和樹の頭を、ぺし、と仁愛が手のひらで
「そんな小さいことを気にしなくていいんです。それより食事が終わるまで、笑顔でいてほしいです」
「!……ありがとう」
仁愛には
「それより美味しかったですか?」
「とても美味しかった。こんなに美味しい料理を食べたのは初めてかもしれない」
「それは大げさです」
「いや、ほんとだよ。それになんか、とても温かかった」
「それはまあ、火を入れましたから」
「そういう意味じゃなくて」
「あー、ああ! なるほど。そうですよね。一人の食事より二人の方が、温かいですよね」
「まあ、それかもね」
「えへへ、私も、いつも一人でしたから。和樹さんと一緒で、温かいです」
「そ……それは、どうも」
仁愛と和樹は、二人で照れ合って目した後、同じタイミングで笑顔を交わした。
それから仁愛は食器を洗い、和樹は風呂の掃除をした。
そして次の問題は、風呂の順番だった。
仁愛は和樹を先にと言い、和樹は仁愛を先にと譲らない。
結局、じゃんけんで決めることになり、結果、仁愛が先で和樹が後ということになった。
「では、お先にお風呂を頂きます!」
「うん」
仁愛がぺこん、とお辞儀をして自室に戻っていくと、和樹は駆け足でリビングのソファにダイブした。
かわいい。
かわいすぎる。
かわいすぎだろう。
和樹は、ずっとこの契約結婚を持ちかける相手を探していたが、中々、出会えずにいた。
そして先日のパーティーだ。あの場で寄ってくる女性は
そして逃げ出した先にいたのが、壁を背にして、つまらなさそうにしていた仁愛だった。
その時、和樹は直感的にこの人だ、と思った。
昔から和樹はカンが鋭かったので、その子しか見えていなかった。それがまさかファーストアイ・ホールディングス社長令嬢、一条仁愛だとは思わなかったが、仁愛が政略結婚でパーティーに参加してきたのは明白だったので、これ以上の適任者はいないと、思わず手を取っていた。
策を持つものほど、逆手に取りやすいものはない。
そのおかげで契約結婚に偽装、政略を加えた〝三略結婚〟を思いつき、仁愛と同居することになった。しかし仁愛からは、生まれの良さからくる本音と建て前の使い分けや表裏がなく、表情も豊かで、善悪もはっきりとしていて、好感しか持てなかった。
和樹はソファで
それは仁愛と……もう一人。
別の女性のことだった。
その頃。
湯船に口までつけて膝を抱えるのは、仁愛だ。
和樹の部屋は風呂も広く、三人くらいはゆうに入れるくらい広かった。
(広すぎて落ち着かない……)
ぶくぶく、と、口から泡を吐く。
橘和樹。仁愛の会社であるファーストアイ・ホールディングスのライバル会社であるアルオン・グループ社長の、次男。彼と結婚する、と祖父、父に報告したことで、仁愛に課された政略結婚は成った。
しかし、これは偽装である。結納はしないし籍も入れないが、結婚式はするし、こうして一緒に暮らし始めてもいる。住民票も移すが、籍を入れていない以上、橘姓は名乗れないので、そこは当初の予定通り夫婦別姓で乗り切るつもりだ。
橘家は面白くないだろうけれど、あちらには和樹の兄、栄貴がいる。しかし仁愛に兄弟はいないので、一条姓を守ったと言えば断る理由がない。
そこは和樹の読み通りに進むだろうと、仁愛も同感だった。
「和樹さんって、あたま、いーなあ……」
仁愛は湯気で曇った天井を見上げる。
まるで高級ホテルの浴室のように、清潔感のある白が映った。
今まで仁愛は、異性に興味を持ったことなど一度もなかった。
気が強く、協調性がある仁愛の周りには、いつも友達がいた。しかし大企業の社長令嬢ということが知られると、女友達は一斉に去り、前から好きだったから付き合ってくれと言う男性が爆増した。
あまりにも浅はかで、あまりにも醜悪な狙いを隠しもせず近づいてくる。
だから男が大嫌いになった。
それなのに。
あのパーティーでいきなり手を
和樹と出会って一ヶ月も
全ては、あの和樹の手を振りほどかず、ついて行くという選択の先にあった状況だ。
「私、間違ってないよね?」
誰にというわけはなく、そう口にする。
「たちばな、かずきさん」
仁愛はそう口にすると、なんだか恥ずかしくなって、湯船にとぷん、と沈んだ。