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第十話

第二章 無中生有 第十話




 それから。


 仁愛は湯船から出て、身体から湯のたまを滴らせて浴室を出ると、タオルで身体を拭き、下着をつけて、ドライヤーで髪を乾かした。仁愛がショートカットにしているのは、髪を乾かしやすいというのが最たる理由だ。おしゃれにはあまり興味がなかったけれど、化粧くらいはしっかりしないといけないなあ、と痛感させられた一日だった。


 そして少しぴっちりとしたグレーのショートパンツとピンクのキャミソールを着て、扉を開ける。部屋着のとき、仁愛はブラをつけなかった。リラックスしたい時に、胸を締め付けられるのは嫌だったからだ。


「和樹さん。お風呂、お先にいただきました。次、どうぞ」


 リビングへと歩きながらそう言うと、ソファで仰向あおむけになっていた和樹が身体を起こした。


「あ、ああ――」


 風呂上がりで、髪の毛をタオルでかしかしと拭いている仁愛を目にして、和樹の心臓が跳ね上がる。

 薄着なので、くっきりと浮かび上がるボディライン。ショートパンツの皺が、集中線のように蠱惑的な場所に集まっている。あらわになったおへそ。照明が照らし出す、仁愛の胸の……ふたつの尖端。

 これら全てが強烈な色香とともに、和樹を襲っていた。


「こ、ここのお風呂はどうだった? ゆっくり入れた?」


 やや焦り気味に訊く和樹。


「はい。身体を伸ばしてお湯にかれたのって久しぶりでしたから、気持ちよかったです」

「それはよかった。じゃあ、僕も入ろうかな」

「いってらっしゃい」


 仁愛の笑顔に、心を激しく揺さぶられる和樹は、早足で自室に行って着替えを手にすると、脱衣所に入ってぱぱっと服を脱ぎ、浴室に入り、手桶ておけを使って頭から湯をかぶった。

 思考を止め、作業的に身体を洗って湯船に浸かる。


 深呼吸をすると、身体は温まっているのに、頭はえてきた。

 久しぶりに湯を張って、身体の力を抜いてみる。和樹は普段、風呂掃除を欠かしていなかったが、おおむねシャワーで済ませていたので、こうしてのんびり風呂に入るのは久しぶりだった。


「いちじょう、にあ」


 口に出してみて、気づいた。

 先に仁愛が風呂に入ったということは、この湯船に仁愛が浸かったということだ。

 あのかわいい仁愛が、全裸で、この湯に……。


「うう、ううう」


 和樹は身体を丸めて、肩に手を置き、うつむいた。


「なあ、僕は仁愛を好きになっていいと思う?」


 うめくような声が、浴室に反響する。


『教えてくれないか……凛月りつ……』



「それでは、おやすみなさい!」


 和樹が風呂から上がると、仁愛がそう声を掛けてきた。

 時刻はまだ午後九時半だ。


「えっ、もう寝るの?」


 タオルで頭をがしがし拭きながらリビングに歩いてきた和樹が、目を丸くした。


「はい。私はいつも早寝早起きでして。簡単に言うと、もう眠いのです」

「ははっ、うん。ここに来て初日だし、疲れてると思うから。ゆっくり眠れるといいけれど、寝心地が悪かったらすぐに言ってね」

「ありがとうございます。それでは和樹さん、また明日」


 仁愛が優しく微笑ほほえむ。


「う、うん。おやすみ」


 和樹がそう言うと、仁愛がまたぺこり、と頭を下げて、自室に入っていった。

 ぱたんとドアを閉めると、仁愛はドアに寄りかかり、そのまま、ずずず、とかがむ。

 心臓が破裂しそうなくらい高鳴っていて、ぼっ、とほおが染まった。


「お、お、お風呂上がりの男性って、あんなに色っぽいですか!?」


 危うく鼻血が出るところだった。

 和樹のお風呂あがりは、かっこよさに磨きがかかっていた。

 元々、和樹はとてもきれいな顔をしている。異性を顔で見ない仁愛からしても、整っているにこしたことはないのだなあ、と考えを改めてしまいそうになるほど、魅力的だった。

 最初の出会いや、テーブル上でのファーストキスなど、強引な面もあるけれど、不思議と怒りや傷心は感じない。


 しかし、やはり。

 どうしても和樹の後ろに、別の女性の影がちらちらと見え隠れする。


「いつか訊いてみたい、のかな。どうなんだろ……」


 仁愛は立ち上がり、一人では広すぎるベッドに身を投げ、横になった。



 その頃。

 風呂からあがった和樹はグラスとワイン、そしてチーズを持って娯楽部屋にいた。

 火照ほてった身体を、冷たいワインで落ち着けながらモニターに目を向ける。

 モニターの電源は、入っていなかった。

 一人暮らしをしていた時、ここは和樹の心を満たす場所だった。


 世の中には、無数の物語がある。

 それと同時に、無数の生き方がある。


 橘家に生まれて、人生なんて一本道だと思っていた和樹にとって、これらのサブカルチャーとの出会いは衝撃だった。喜怒哀楽、愛憎、欲情、様々な感情がアニメや映画、漫画や小説として顕現化され、並べられている。


 人生は一本道ではない。

 それを教えてくれた……大切な人。

 くい、とワインを飲む和樹。


『きっと、許してくれないだろうね』


 笑みをこぼし、ワインとグラスをそのままに、和樹は娯楽部屋を後にして、自室に向かった。

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