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第十一話

「おはようございますっ!」

「お……お?」


 翌日、頭をきながら自室のドアを開けてリビングに現れた和樹を、張りのある可憐な声が包み込む。寝ぼけ眼でキッチンを見ると、エプロン姿の仁愛がてきぱき働いていた。


「あ、おはよう」


 和樹が壁に掛かっている時計を見ると、午前六時四十分だった。


「いつから起きてるの?」

「え、四時です」

「四時!? 早すぎない?」

「そうですか? 私はいつもこの時間に起きてるんですが」

「そっ、か」


 考えてみれば仁愛は昨晩、午後九時半に眠っている。

 七時間あれば、睡眠時間としては充分だ。


「和樹さん、コーヒーをれましょうか?」

「いいね、もらいたいな」

「わかりましたっ! ちょっと待っててくださいねっ!」


 仁愛はにっこり笑い、なんだかうれしそうに和樹に対して背中を向けた。

 和樹はダイニングテーブルに座りながら、唇が緩んだ。

 朝から笑顔満開、元気全開の仁愛に、和樹はエネルギーを与えられるように覚醒していく。


 本当に、ぱたぱたとキッチンを行ったり来たり、時にはジャンプしたりと、慌ただしく働く仁愛を見ていると、自然と顔がほころんでくる。しかしこうして改めて見ると、あのキッチンは仁愛にとって高すぎる。和樹は仕事帰りに、長めの踏み台を買おうと決めた。


 その時、仁愛が声をかけてきた。


「和樹さん、コーヒーが入りました。私も少し休憩したいので、一緒にいいですか?」

「もちろんだよ。座って!」


 和樹にとって、断る理由がない。

 仁愛はコーヒーカップを和樹と自分の前に置き、椅子に座って額の汗を拭った。


「はー。ここのキッチンは広いので、いい運動になります」

「ごめんね。仁愛にとっては、ちょっと使いづらいでしょ?」

「そんなことはありませ~ん。ちびで困ることには慣れてますぅ~」


 目を細め、口をへの字にする仁愛と、思わず笑顔になる和樹。こんな顔もするんだ、と、和樹は驚きつつカップを手にした。

 口にすると、芳醇ほうじゆんなコーヒーの香りが舌を躍り、鼻から抜けていった。


「あれ? 新しいコーヒーの豆、買ってきた?」

「いえ、棚にあったものを使いましたが」

うまい……香りが全然違う。なんでだろう?」

「ふふ。きっと私の方がかたが上手なんですよ」

「そんなことある!?」

「ないと思ってたんですか!?」


 仁愛と和樹はぱちくりと視線を交わし、声を出して笑い合った。



 いつもなら仁愛はもう一時間、遅く寝ている。

 しかし、今日から二人分の弁当を作ることになったので、昨日は逆算して少し早めに寝たのだ。

 そのおかげか、今日の弁当は会心の出来だった。


「おお、お弁当も、もうできてるの?」

「もちろんです! 今日からは毎日作りますから!」

「それは、本当に嬉しいな。でも……こんな弁当箱、うちにあったっけ?」


 首をかしげる和樹に、仁愛は笑った。


「ここに来てからキッチンを調べましたが、和樹さんはおそらく自炊をしないタイプだと思いましたので、弁当箱は持っていないと思ったので、昨日の買い物でお弁当箱を二つ、購入しておきました。少し恥ずかしいですが、同じデザインのお弁当箱で、和樹さんのは大きいもの、私は小さいものを選んでみました」


 真っ赤になって、伏し目がちになりながら言う仁愛。


「お、おお……」


 仁愛の配慮と仕草に、和樹も顔を赤くした。

 それにしても、今、仁愛が口にした推察は、そのまま当てはまっていた。

 この辺りは仁愛の優秀さが垣間見かいまみえる。

 ダイニングテーブルに並ぶ、ランチクロスに包まれた弁当箱。和樹は青色。仁愛は菜の花色だった。


「な、なんかまるで、親子みたいだね」

「親子じゃないです! 偽装ではありますが夫婦ですから、せめて恋人同士とかにしてください!」


 両腕を振り上げ、ぷんすか怒る仁愛。


「うわ、わ、悪かったよ。わあ、まるで恋人同士みたいだなあ」

「わざとらしい!」


 びし、と人差し指を和樹に向ける仁愛。

 そんな仁愛に対して、和樹は努めて冷静に言った。


「それにしても! その部屋着、なんとかならないかな。あまりにも色っぽすぎるんだけど!」

「へ? そうです?」


 和樹の指摘で仁愛は片足を上げ、ショートパンツに目を向ける。

 そこで改めて、色々と目立ってしまっていたことに気づき、顔が徐々に赤くなり、叫んだ。


「あ、や……すいませんっ、お目汚ししてしまって!」

「いや、そんなことはないけれど、さ、ね?」

「は、はい?」

「え……あの、僕に見られて恥ずかしいとか思わない?」

「少し思いますけれど、この時期は暑いので、楽な格好の方が動けますので……」

「そ、それならいいけど」

「でも和樹さんが気になるなら、ちゃんとしたズボンをはきます!」


 そこなのか。

 そこだけじゃないんだけどな、と苦笑する和樹。


「まあ仁愛が恥ずかしくなければ、好きな格好で構わないよ」

「あ、はい。和樹さんも、普段通りの格好でいてくださいね。私がいるからって、気を遣われるのは、やです」

「もちろんさ」


 仁愛の笑顔につられて、和樹も苦笑いをする。

 この一時で和樹は、本当に仁愛が男慣れしていないんだということを悟り、そしてこれから、こんな扇情的な仁愛と一緒に暮らしていけるのか、理性を抑えられるのか、目を閉じて天を仰いだ。


 それから。

 朝食を終えた後、互いに出社の準備を終えて、家を出る時間になった。

 仁愛の会社は池袋、和樹の会社はここ渋谷にあるので、仁愛の方が早く出社しなくてはならないのだが、和樹が仁愛を駅まで送るというので、二人で家を出ることにした。


「あ、そうだ。仁愛、これを渡し忘れてた」

「はい?」


 急に仁愛の手を握り、カードを手のひらの上に置く和樹。


「この部屋のカードキー。仁愛が持っていないのは不自然でしょ?」

「確かにそうですね。自宅の鍵を持っていない人、いないでしょうし」


 仁愛は和樹の手の温もりと共に、カードを受け取った。

 手を握る。これは異性からされると案外、好き嫌いがはっきりと出る行為だ。


(嫌……じゃなかった……)


 これは仁愛にとって、驚嘆に値する出来事だった。

 なにせ今まで、手を握られて嫌だと思った男性しか出会ったことがなかったのだから。


「どうしたの? 行こうよ」

「あ、はは、はいっ!」


 仁愛は戸惑いつつ、靴を履き、鞄を手にして、ドアを開けていた和樹に向かっていく。

 和樹がドアを閉めると、ドアノブの上についているプレートを指さした。


「ここにカードを当てて」

「はいっ!」


 仁愛は頬を染めて、カードに目を落とす。

 カードキーの使い方くらい、仁愛だって知っている。以前住んでいたあのアパートで、父が勝手にセキュリティを強化すると言い出し、大家さんを説得して、仁愛の部屋だけカードキーを導入していた。

 しかし……なにかが違う。


 ドキドキする。


 なんでだろう、と思いながら仁愛がカードをかざそうとした、その時。

 その手を、後ろから優しく和樹が包み込んだ。


「ふぁっ!?」


 仁愛の背中に、和樹の胸が当たる。

 吐息が聞こえるほど顔が近づいていた。


「夫婦になって初めての共同作業、って、どうかな?」


 そう言う和樹に対し、仁愛は勝手にカードをかざしてドアをロックした。


「あっ!」


 動揺する和樹。


「だ、駄目だった?」


 仁愛はむん、と和樹に身体を向け、眉をげた。


「そうじゃないです。鍵を掛けることが初の共同作業というのは納得できません! せ、せっかくの初めてなら閉めるのではなく、開くべきではないですか?」

「あ、ああ、言われてみれば」

「やり直します」

「えぇ……?」


 仁愛はもう一度、カードを右手でかざす振りをする。


「ほら、和樹さん!」

「あ、うん」


 和樹は先ほどよりも大胆に、仁愛の背中に密着し、おなかに手を回し、右手でつかんでいたカードを仁愛の手ごと包んだ。


「こ、こ、これが、ほんとの、初めての共同作業、です……」


 まさか、抱かれるとは思っていなかった仁愛は、体温が急上昇していくのを感じた。


「うん。これから仁愛が幸せに暮らせるよう全力を尽くすよ」


 和樹が誓いの言葉を口にすると、仁愛は不思議と身体から力が抜けて、笑顔がこぼれた。


「私も、和樹さんに嫌われないようがんばります!」


 カシャン。

 二人の誓いは今、様々なしがらみという扉から解き放たれて自由に混じり合った。

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