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第十二話

(ふわわわわ、わあわわあわわわあわああああああ……)


 和樹に見送られて渋谷駅の改札を抜け、山手線のホームに立つ。

 時として男女の間柄では、裸で抱き合うよりも胸を高鳴らせるような行為がある。

 先ほどのそれが、仁愛にとってはまさにそれだった。


 電車に揺られながらも、つい振り返ってしまう。

 自分からあおったくせに、あんなに密着されるとは思わなかった。

 スーツの上からでも感じる和樹の優しさと決意。

 そしてなにより驚いたのは、あれだけ密着されてもぜんぜん嫌じゃなかったこと。


 今まで仁愛は、異性を好きになったことがない。

 この経験不足が仁愛を戸惑わせ、心を揺さぶらした。


(まさか和樹さんは私のこと、本気で?)


 そうだとしたら……残酷なことだ。

 なにせ仁愛と和樹は、偽装、契約、政略結婚の間柄なのだから。

 和樹だって、きっと割り切って行動しているに違いない。

 あたまのいい人だから。


(私なんて一条家でなければ、なんの価値もない女。勘違いしちゃ駄目です)


 そういう思考に至ると、仁愛の身体からすっと熱が引き、表情も引き締まった。

 和樹は一緒に住んでいるだけの相手。ルームメイトなのだ。

 そう割り切ろう。

 仁愛は心の中で、そう固く決意した。



 その頃。

 仁愛を送った和樹も、今朝の誓いについて考えていた。

 少し大胆な行動だったけれど、仁愛は拒まなかった。

 それどころか、やり直しまでさせて、これからを見据えた決意表明をした。


(まさか仁愛は僕のこと……本気?)


 そうだとしたら……むごいことだった。

 なにせ和樹と仁愛は、偽装、契約、政略結婚の間柄なのだから。

 仁愛だって、きっと割り切って行動しているに違いない。

 あたまのいい人だから。


 つかつかと、小気味よい靴音を立てて、会社に向かう和樹。

 仁愛が自分を好きになってくれたとしたら、どうだろう。

 やっぱり……どう考えても、うれしいことだ。


 一条仁愛という女性は、ちんまりしていて、かわいくて、愛嬌あいきようがあって、働きもので、その割に芯は強くて道理をわきまえていて、学ぶことが多い。

 こんな素敵で刺激的な女性は、二人といないだろう。


 しかし。

 和樹の中で、仁愛に対する想いに急ブレーキがかかる。


 まだ早い。

 早すぎる。


 和樹の中には、整理しなくてはならないことがある。

 仮にそれらを整えたとして、仁愛とは三略結婚の相手というだけで、これまでの行動は全てそのために演じているのかもしれない。


 ここ数日、仁愛と過ごしていて、そんなことはないという確信めいたものはある。

 和樹は人を見る目には自信があったし、それを大きく外したことはない。


 一条仁愛は表裏のない女性だ。

 だからこそ、慎重にならなければならない。

 和樹は右拳で自分の頭をこつんと叩き、今朝の軽率けいそつな行動を反省した。



「おおっ、橘さん、いよいよ愛妻弁当ですか?」

「本当ですか!?」

「うわ、橘さんが愛妻弁当を持ってきたぞ!」


 昼になって、和樹は弁当を持って社員食堂にやってきた。

 普段、和樹は専務室で仕事をしているが、食事の時は主に社員食堂を利用していた。


 これは和樹のスタイルであり、社員を知らない人間が、上に立つべきではないと思ったからだ。故に、大半の社員の中では、和樹が専務であることを知らないが、橘和樹という人物は知っている、というのが今の状況だった。


 先に仁愛と外で打ち合わせしながら昼食を一緒にしていた時、OLたちが和樹のことを知っていたのは、これが理由だ。

 人は気を抜いた時にこそ、本音が出る。

 そういう意味でも、和樹にとって社内の雰囲気を知れる絶好の場所だった。


「うん。妻の料理があまりにも美味おいしいから、お弁当を作ってもらうことにしたんだ」


 和樹がさらっと惚気のろけると、周りの社員たちがざわついた。


「橘さん、どんな中身なんですか!?」


 そう聞かれて改めて気づいた。


「そういえば、僕が起きた時にはもう出来あがっていたから、中身は見てないなあ」

「早く見せてください!」


 和樹に対する、周囲の圧が凄い。

 とはいえ、彼らの期待に応えられるような中身ではないだろうと、簡単に予想できた。

 なにせ和樹と仁愛は、普通の夫婦ではないのだから。

 などと思いつつ、ランチクロスを開く。

 すると、クロスと弁当箱の中にメッセージカードが入っていた。


【昨晩はとってもお疲れさまです。これを食べて午後もファイト! あなたの仁愛より】


 和樹は固まった。


『おお、おおお……』


 和樹の弁当をのぞんでいた社員たちが、感嘆の声を漏らす。

 そして、ふたを開ける。


『うおおおおおおおお!』


 周囲はどよめき、和樹は凍った。

 ご飯の上には、桜でんぶで大きなハートマークが。

 そしておかずは唐揚げ、プチトマト、サラダが、丁寧に入っていた。弁当はぎゅうぎゅうに詰めてしまうと味を損ねる。しかし空間を空けすぎると移動中に偏ってしまうのだが、仁愛の弁当はそれを全てクリアし、絶妙な分量で入っていた。


「な、な、なんですかこの幸せ満載弁当は!」

「大胆なメッセージカードに、このハート! すごい愛されてますね!」

「新婚の時はうちもこうだったなあ……」


 社員の皆がうなる出来映えの弁当だった。

 そして、声をそろえて叫ぶ。


『うらやましい!』

「え、ええあう!?」


 この日の昼は、周囲からの圧を感じながら弁当を口に運ぶ和樹だった。



 その頃。

 仁愛は社屋の屋上で一人、弁当の蓋を開いていた。


(ふふっ、今頃、和樹さんはちょっとくらい、びっくりしてるかなあ)


 顔をほころばせ、いたずらっぽく笑う仁愛。

 実際はちょっとどころの騒ぎではなかったのだが。

 そして仁愛の職場でも、朝一で激震が走っていた。

 それはオンライン社内掲示板に掲載された、人事についてだった。



 人事発令(六月一日より)


 商品開発部、第二課長 → 商品開発部、第一課、第一係 小垣浩志

 商品開発部、第二課、第三係長 → 商品開発部、第一課、第二係 加藤充

 商品開発部、第二課、第三係 → 常務執行役員 一条仁愛



 課長、係長クラスが平社員に降格させられるのは、ファーストアイでは常態化しており、さほど珍しいことではない。故に社員が管理職に昇進しても、安心できないというこのシステムが、ファーストアイ・ホールディングスというグループの強みだった。


 しかし、仁愛は別だ。

 平社員が一気に取締役クラスに抜擢ばつてきされるというのは、前例がない。

 当然ながら仁愛の部署は上を下への大騒ぎとなり、午前中は仕事どころではなかった。


 降格させられた課長も係長も放心し、心ここにあらずといった感じだし、今のうちに仁愛に取り入ろうとする下心丸出しの社員が鬱陶うつとうしくて、ゆっくりデスクにもいられなかった。

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