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第十三話

 昼になってようやく騒動が収まり、仁愛はデスクに戻れた。


 仁愛の弁当は、主に和樹に持たせたものの余りだ。

 別々に作るのは効率が悪いし、男性と女性では食事量が違うので、弁当は和樹のものをメインに作ることにした。


 ちょっとした、いたずらも込めて。


 ここまで、三略結婚は順調に遂行すいこうされている。

 とはいえ仁愛と和樹は、まだ一番大きな壁を乗り越えていない。


 それは来月六月に予定されている、結婚式だ。


 これだけは、そつなくこなさなければならない。


(結婚式、かあ)


 自分の人生とは絶対に関係のないものだと思っていたことが、一ヶ月後に控えているというこの奇妙な現実に、戸惑いがないと言えばうそになる。


 でも和樹が考えたこの三略結婚には案外、隙がない。

 少しでも穴があればそこをつきたいと思っていた仁愛だったが、最悪、和樹と仁愛が別れる、つまり契約破棄になった場合まで想定される条項が、契約書に記載されていた。


第15条 契約破棄について

 1.甲(和樹)は乙(仁愛)が本契約を破棄したいと申し出た場合、その時点で本契約は無効とする。

 2.1.について、相手の理由は詮索せず、速やかに契約破棄を履行すること。

 3.本条項の事態が起きた場合、財産分与などは発生しないものとする。

 4.互いに相手が不利になるような行動はとらないこと。

 5.本契約が破棄されても、互いを尊重すること。


 契約書の最終項であるこれも、極力、仁愛が傷つかないよう配慮がされているあたり、和樹の性格をよく現しているな、と思った。

 ちなみに契約書は現時点で全十五条あり、仁愛はその全てを暗記している。

 それを思い返す度、必然的に和樹へとおもいをせてしまっていた。


(う~ん……)


 油断すると、つい和樹のことを考えてしまう。

 ひょっとしてこれは、恋なのかなあ。

 仁愛は箸をくわえながら、自分の気持ちがどこにあるのかを考えてみる。

 しかし、珍しく答えは出なかった。


 そして、夜。

 役職的に早く仕事を終えた仁愛は、またキャミソールとショートパンツという姿で、明日の弁当や、掃除用具などを購入して帰宅した。本当はもっと露出を控えた服を着るべきなのだろうが、そもそも持っていないのだ少し悲しかった。


 この部屋にはお掃除ロボットが三台あったが、あれでは壁や高所、細かいところまでは掃除が行き届かない。

 特にトイレと浴槽である。

 ここだけは早急に掃除をしなければならないと強く思った。男性が掃除をした場合、表向きは綺麗にできるのだが、浴槽のカビとトイレの便座の裏などは案外、見ないことが多い。


 仁愛が最初にここに来た時、真っ先にチェックしたのは台所、トイレ、浴槽という水回りだった。キッチンには一人暮らしにしては多すぎる食器や、二人分のカップなどが並んでいた。これでは自分ではない、女性の影を感じざるを得ない。


 そしてトイレを確認する。便座をあげて便器の裏側を見ると、黒や黄色のカビが付着していた。浴槽の床や壁に目を近づけると、ピンク色のカビが広がっていた。つまり、ここは和樹が一人で使っていた場所、ということになる。キッチンだけは謎が残るけれど、仁愛はそのことを詮索したくはなかった。

 いつかきっと、和樹自身が語ってくれるだろう。


 もっとも、その時はきっと三略結婚ではなくて……本気で……。

 そこまで考えて仁愛は強く頭を振った。


 時刻は午後六時過ぎ。

 仁愛は和樹にLINEで「お疲れ様です。何時頃に帰宅されますか?」とメッセージを送ると「今日は早いかもしれない」という返事が来た。


 ならばそれまでに、風呂場とトイレは掃除しておこう。

 仁愛は服を脱ぎ、キャミソールを着ると、ぱんつだけというあられもない格好になる。水回りを掃除する場合、衣類は極力薄めにするのが仁愛のやり方だった。


 ゴム手袋をはめて、まずはトイレから掃除を始めた。便座をあげ、便器の縁の裏洗剤をかけて、手で擦り落とす。ぼろぼろとがれているカビを定期的に流し、全体的にブラシで擦って洗った。

 次に浴槽だが、これは仁愛の予想通り苦戦した。


 なにせ仁愛は148センチしかない。

 床は問題ないが、天井の掃除は一番長い棒で拭いてみようと試みたが、かろうじて届いたものの、天井についていたしずくを降らせるだけの結果となり、冷水を浴びてしまった。

 キャミソールはずぶれで透け、ピンクのぱんつもびっしょりだ。仁愛はこうなるのが予想できたから、軽装にしていた。


 仁愛は天井を諦め、床や壁を徹底的に磨いた。

 やり始めると、だんだん楽しくなってきた。


 トイレ掃除もそうだったが、仁愛は集中すると楽しくなってしまい、周りの声が聞こえなくなってしまう。床に膝をつけ、濡れたキャミソールが重量に負けて、胸やおなかをあらわにする。足を開き、鼻歌交じりで床にスポンジを当てていた、その時だった。


「た、ただい、ま……」


 仁愛の身体が固まる。

 ぎ、ぎ、ぎ、と背後に首を向けると、顔を真っ赤した和樹が立っていた。


「ひゃわわ、あ、はううううああああ……」


 慌てて身体を反転させた仁愛は、冷たくて濡れた床にお尻を突いてしまった。


「わひゃあああっ!」


 床の冷たさに、飛び上がる仁愛。


「わああ、ご、ごめん! なにも見てないから!」


 そう言いながら、和樹の身体はしっかり仁愛に向いていた。


「わ、私のブラの色はなんでしょう!?」

「……つけてなかった」

「がっつり見てるじゃないですかぁあああ!」


 仁愛の悲しい悲鳴が、浴室に響いた。

 そして。

 ずーん、と沈む仁愛と、なんとか弁明しようとする和樹が、ダイニングで相対していた。


「だから、あ、あれは事故だったんだって! 帰ってきても返事がなかったから中に入ったら、脱衣所の扉が開いてて、のぞいてみたらその、仁愛が、あの、すごい格好で……」


 実際、和樹は仁愛の下半身もしっかりと目に焼き付けていた。

 あの時。仁愛はつんいになり、やや足を開いていたので、ピンクのぱんつが透けてかたどる、艶美な凹凸も、全てが目に入ってしまった。


「うう、自業自得とはいえ、もうお嫁に行けません……」

「いや、一応、僕らは夫婦なんだけど」

「和樹さん、私が行き遅れたら責任とってください」

「それは、その……うん、いいよ」

「え?」

「仁愛なら喜んでと言うか、うれしいというか、むしろ責任を取らせてほしいというか……ああ、なにを言ってるんだ僕は!?」

「なんで和樹さんが切れるてるんですか!?」

「とにかく、その、あの、ごめんなさ……わああああああ!」

「あっ!」


 和樹は仁愛が呼び止める暇もなく、全速力で自室に入っていった。


「ほんとに責任……とって、くれますか?」


 仁愛は胸に手を当て、ぽかぽかするものを感じながら、それならいっかな、と微笑ほほえんだ。

 それにしても、と、改めて思う。

 和樹の行動は、やはり兵法にのつとったものだった。


『兵法三十六計 第七計 無中生有』


 なにもないところに重要なものがあると敵に思わせておいて、本来の目的を達成する。

 知識として持っていてこれを遂行したのかどうかは不明だが、まず和樹は誰かと結婚すること、させられることを極端に嫌がっており、そこに仁愛という格好の相手が現れた。


 和樹は仁愛に偽装、契約、政略という三つの要素を持った結婚を提案し、受諾させたことで、周囲を欺くことに成功した。ファーストアイやアルオンの人々を、偽装された無の中に納めたのだ。


 故に〝無中生有〟だ。

 しかし和樹は、ただ周囲をだますためだけの策略を用いたようには思えない。

 つまり、どこかに本心である〝有〟がある。

 それはいずれ、明らかになるだろう。


 「よし、忘れよう!」


 仁愛はつぶやいて席を立つと、エプロンを着て、夕食の支度に取りかかった。

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