昼になってようやく騒動が収まり、仁愛はデスクに戻れた。
仁愛の弁当は、主に和樹に持たせたものの余りだ。
別々に作るのは効率が悪いし、男性と女性では食事量が違うので、弁当は和樹のものをメインに作ることにした。
ちょっとした、いたずらも込めて。
ここまで、三略結婚は順調に
とはいえ仁愛と和樹は、まだ一番大きな壁を乗り越えていない。
それは来月六月に予定されている、結婚式だ。
これだけは、そつなくこなさなければならない。
(結婚式、かあ)
自分の人生とは絶対に関係のないものだと思っていたことが、一ヶ月後に控えているというこの奇妙な現実に、戸惑いがないと言えば
でも和樹が考えたこの三略結婚には案外、隙がない。
少しでも穴があればそこをつきたいと思っていた仁愛だったが、最悪、和樹と仁愛が別れる、つまり契約破棄になった場合まで想定される条項が、契約書に記載されていた。
第15条 契約破棄について
1.甲(和樹)は乙(仁愛)が本契約を破棄したいと申し出た場合、その時点で本契約は無効とする。
2.1.について、相手の理由は詮索せず、速やかに契約破棄を履行すること。
3.本条項の事態が起きた場合、財産分与などは発生しないものとする。
4.互いに相手が不利になるような行動はとらないこと。
5.本契約が破棄されても、互いを尊重すること。
契約書の最終項であるこれも、極力、仁愛が傷つかないよう配慮がされているあたり、和樹の性格をよく現しているな、と思った。
ちなみに契約書は現時点で全十五条あり、仁愛はその全てを暗記している。
それを思い返す度、必然的に和樹へと
(う~ん……)
油断すると、つい和樹のことを考えてしまう。
ひょっとしてこれは、恋なのかなあ。
仁愛は箸を
しかし、珍しく答えは出なかった。
そして、夜。
役職的に早く仕事を終えた仁愛は、またキャミソールとショートパンツという姿で、明日の弁当や、掃除用具などを購入して帰宅した。本当はもっと露出を控えた服を着るべきなのだろうが、そもそも持っていないのだ少し悲しかった。
この部屋にはお掃除ロボットが三台あったが、あれでは壁や高所、細かいところまでは掃除が行き届かない。
特にトイレと浴槽である。
ここだけは早急に掃除をしなければならないと強く思った。男性が掃除をした場合、表向きは綺麗にできるのだが、浴槽のカビとトイレの便座の裏などは案外、見ないことが多い。
仁愛が最初にここに来た時、真っ先にチェックしたのは台所、トイレ、浴槽という水回りだった。キッチンには一人暮らしにしては多すぎる食器や、二人分のカップなどが並んでいた。これでは自分ではない、女性の影を感じざるを得ない。
そしてトイレを確認する。便座をあげて便器の裏側を見ると、黒や黄色のカビが付着していた。浴槽の床や壁に目を近づけると、ピンク色のカビが広がっていた。つまり、ここは和樹が一人で使っていた場所、ということになる。キッチンだけは謎が残るけれど、仁愛はそのことを詮索したくはなかった。
いつかきっと、和樹自身が語ってくれるだろう。
もっとも、その時はきっと三略結婚ではなくて……本気で……。
そこまで考えて仁愛は強く頭を振った。
時刻は午後六時過ぎ。
仁愛は和樹にLINEで「お疲れ様です。何時頃に帰宅されますか?」とメッセージを送ると「今日は早いかもしれない」という返事が来た。
ならばそれまでに、風呂場とトイレは掃除しておこう。
仁愛は服を脱ぎ、キャミソールを着ると、ぱんつだけというあられもない格好になる。水回りを掃除する場合、衣類は極力薄めにするのが仁愛のやり方だった。
ゴム手袋をはめて、まずはトイレから掃除を始めた。便座をあげ、便器の縁の裏洗剤をかけて、手で擦り落とす。ぼろぼろと
次に浴槽だが、これは仁愛の予想通り苦戦した。
なにせ仁愛は148センチしかない。
床は問題ないが、天井の掃除は一番長い棒で拭いてみようと試みたが、かろうじて届いたものの、天井についていた
キャミソールはずぶ
仁愛は天井を諦め、床や壁を徹底的に磨いた。
やり始めると、だんだん楽しくなってきた。
トイレ掃除もそうだったが、仁愛は集中すると楽しくなってしまい、周りの声が聞こえなくなってしまう。床に膝をつけ、濡れたキャミソールが重量に負けて、胸やおなかを
「た、ただい、ま……」
仁愛の身体が固まる。
ぎ、ぎ、ぎ、と背後に首を向けると、顔を真っ赤した和樹が立っていた。
「ひゃわわ、あ、はううううああああ……」
慌てて身体を反転させた仁愛は、冷たくて濡れた床にお尻を突いてしまった。
「わひゃあああっ!」
床の冷たさに、飛び上がる仁愛。
「わああ、ご、ごめん! なにも見てないから!」
そう言いながら、和樹の身体はしっかり仁愛に向いていた。
「わ、私のブラの色はなんでしょう!?」
「……つけてなかった」
「がっつり見てるじゃないですかぁあああ!」
仁愛の悲しい悲鳴が、浴室に響いた。
そして。
ずーん、と沈む仁愛と、なんとか弁明しようとする和樹が、ダイニングで相対していた。
「だから、あ、あれは事故だったんだって! 帰ってきても返事がなかったから中に入ったら、脱衣所の扉が開いてて、
実際、和樹は仁愛の下半身もしっかりと目に焼き付けていた。
あの時。仁愛は
「うう、自業自得とはいえ、もうお嫁に行けません……」
「いや、一応、僕らは夫婦なんだけど」
「和樹さん、私が行き遅れたら責任とってください」
「それは、その……うん、いいよ」
「え?」
「仁愛なら喜んでと言うか、
「なんで和樹さんが切れるてるんですか!?」
「とにかく、その、あの、ごめんなさ……わああああああ!」
「あっ!」
和樹は仁愛が呼び止める暇もなく、全速力で自室に入っていった。
「ほんとに責任……とって、くれますか?」
仁愛は胸に手を当て、ぽかぽかするものを感じながら、それならいっかな、と
それにしても、と、改めて思う。
和樹の行動は、やはり兵法に
『兵法三十六計 第七計 無中生有』
なにもないところに重要なものがあると敵に思わせておいて、本来の目的を達成する。
知識として持っていてこれを遂行したのかどうかは不明だが、まず和樹は誰かと結婚すること、させられることを極端に嫌がっており、そこに仁愛という格好の相手が現れた。
和樹は仁愛に偽装、契約、政略という三つの要素を持った結婚を提案し、受諾させたことで、周囲を欺くことに成功した。ファーストアイやアルオンの人々を、偽装された無の中に納めたのだ。
故に〝無中生有〟だ。
しかし和樹は、ただ周囲を
つまり、どこかに本心である〝有〟がある。
それはいずれ、明らかになるだろう。
「よし、忘れよう!」
仁愛は