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第二話

 兵法三十六計の十三計、打草驚蛇。

 草を打って蛇を驚かす。


 これには様々な意味があるのだが、今回の場合は草に埋伏している蛇を表に出す、という意味だ。

 隠れている蛇は見つけにくい。そこで草を叩くことで驚かせ、虎視眈々こしたんたんとこちらを狙っている蛇を引きずり出す、というものだ。


 確かに和樹の言う通り、今のままではどこから襲われるかわからない蛇を、この結婚式であぶり出すのは悪い手ではなかった。


「そもそも今回の三略結婚自体、同じく兵法三十六計の第一計〝瞞天過海まんてんかかい〟ですよね?」

「うは、本当にすごいな!」


 仁愛と和樹は、再び歩き出す。

 二人とも無意識だったが、手を繋いでいた。


「まさかパートナーに選んだ人が、兵法を語れる相手とは思わなかった。仁愛は三十六計の他に、なにか知ってる?」

「そうですねぇ。武経七書、論語、史記、貞観政要じようがんせいようあたりは頭に入っています。本当は老子、韓非子も学びたいのですが、中々、いい本がなくて」

「うわあ、すごいな。どれも経営に応用できるものばかりじゃないか。こんな人が、これからファーストアイの常務になるのか……怖い存在になりそうだ」

「私にとっては和樹さんが十分、怖いですけれど」

「ははは、ライバルなのに夫婦って、面白いね!」

「でも、この絵図を描いたのは和樹さんですよ?」

「確かに」


 実際、仁愛は和樹が目論んだ計画に乗っているだけで、自分で策を立てたわけではない。

 となると、やはり一つの疑念が浮かび上がってくる。


 和樹がこんな策を使ってまで結婚したくない理由だ。


 訊きたい。

 どうして、そんなに結婚したくないのですか?

 そう言いたい。

 仁愛はぎゅっと和樹の手を握り、視線を道に落とした。


 それから。

 二人はレストランで食事をして、ワインとつまみを購入し、部屋に戻った。

 今日は土曜日なので、すこしゆっくりできる。仁愛はまだ和樹の趣味部屋にほとんど入ったことがなかったので、そこで過ごしたいと言い、和樹も快諾した。


「この部屋、仁愛ももっと自由に使っていいんだよ?」


 和樹が仁愛に、優しく言う。


「ありがとうございます。でも、まだまだ部屋の中を綺麗にしたいんです。整理整頓やお掃除が一通り済んだら、のんびり楽しませていただきます」

「うん、ありがとう。でも今日は楽しんでね」

「はい。ここ最近、お仕事や結婚式の準備で大変でしたからね。夕飯の時間まで遊ばせていただきます」


 微笑みあう二人。

 結婚式という、目下、最大の障壁を前にして、二人は様々な準備を行っているうちに、少しずつ互いを知るようになっていた。


「仁愛もワインを飲む?」


 ソファに座り、ワインを開けながら仁愛に声をかける和樹。


「そうですね、今日はいただきます」


 和樹は仁愛の前にグラスを置いて、ワインを注いだ。


「それにしても、ここ、本当にすごいです」

「なにか映画でも見る?」

「いえ、今日は静かに漫画を読みたいです」

「うん」

「その……和樹さんの隣、いいですか?」

「え、あ、うん」

「あは♪」


 仁愛は笑顔で棚から漫画をごっそり持ってくると、テーブルの上に載せ、和樹の隣に座った。

 このソファは二人掛けだが、恋人用のため、ぴったりと身体がくっつく。

 仁愛は和樹の体温を感じたかった。

 一人暮らしが長かったせいか、人の温もりが心地いいのだ。

 にんまり笑う仁愛に、和樹が少し頬を赤らめて言う。


「たまにはこうやって、一緒にいるけど、おのおの別のことをやるっていうのも、いいかもね」

「はい!」


 仁愛と和樹は顔を向け合って、子供のように、にっと笑った。


 それから仁愛と和樹はワインを飲みながら、漫画に没頭した。

 仁愛は酒に強い。二十歳になってから様々なパーティーで、仁愛に近づき、酔わせて落とそうとした男性が多々現れたが、彼らをことごとく返り討ちにしている。今飲んでいるワインも、アルコール度数は高めの赤ワインなのだが、仁愛にとっては少し気持ちよくなるぶどうジュース程度にしか感じなかった。


 どれくらい時間が経っただろうか。

 いつの間にか、和樹の手は止まっている。

 仁愛はそれにまったく気づかず、夢中で漫画のページをめくっていた。

 その時。

 和樹の身体がゆらり、と泳いだ。


「え、わ、ちょっ! わひゃぁああ!」


 どたん、という大きな音と共に、仁愛と和樹は絡まり合いながら床に落ちた。


「いたた……あの、かずき、さ……ん!?」


 仁愛は、和樹に覆い被さられていた。

 いつものラフなワンピースを着ていたので、落ちた時に腰までめくれ上がり、下着があらわになっている。

 その上に和樹の身体が触れる。

 けっして豊満とは言えない……仁愛のかわいらしい胸に、和樹が頬をつけていた。

 仁愛の体温が、瞬間湯沸かし器の中のお湯のように上がる。


「か、和樹さん……って、あれ?」


 すう、すう。

 和樹は仁愛の胸に抱かれて、眠っていた。


「んもう、びっくりしました!」


 仁愛は和樹の背中に手を回し、こう思った。


 やっぱり和樹さんを……嫌いではない、と。


 こんなに大胆に押し倒されたのは初めてだが、仁愛は和樹ならいっか、と、その頭を優しく撫でながら、少しだけ和樹に身体を貸してあげることにした。


 思い返せば和樹だって、仕事をこなしながら、この三略結婚を進めてきた。疲れないわけがないし、こんな大胆な計画なのだから、ずっと神経をすり減らしてきたはずだ。


「おつかれさまです。和樹さんの計画のおかげで、私はあなたと出会えました」


 寝息を立てている和樹の顔は見えないけれど、もし人を好きになるとしたら、こうやって身体を重ねても嫌じゃない人がいいなあ、と、仁愛は和樹をぎゅうう、と抱きしめるのだった。


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