兵法三十六計の十三計、打草驚蛇。
草を打って蛇を驚かす。
これには様々な意味があるのだが、今回の場合は草に埋伏している蛇を表に出す、という意味だ。
隠れている蛇は見つけにくい。そこで草を叩くことで驚かせ、
確かに和樹の言う通り、今のままではどこから襲われるかわからない蛇を、この結婚式であぶり出すのは悪い手ではなかった。
「そもそも今回の三略結婚自体、同じく兵法三十六計の第一計〝
「うは、本当にすごいな!」
仁愛と和樹は、再び歩き出す。
二人とも無意識だったが、手を繋いでいた。
「まさかパートナーに選んだ人が、兵法を語れる相手とは思わなかった。仁愛は三十六計の他に、なにか知ってる?」
「そうですねぇ。武経七書、論語、史記、
「うわあ、すごいな。どれも経営に応用できるものばかりじゃないか。こんな人が、これからファーストアイの常務になるのか……怖い存在になりそうだ」
「私にとっては和樹さんが十分、怖いですけれど」
「ははは、ライバルなのに夫婦って、面白いね!」
「でも、この絵図を描いたのは和樹さんですよ?」
「確かに」
実際、仁愛は和樹が目論んだ計画に乗っているだけで、自分で策を立てたわけではない。
となると、やはり一つの疑念が浮かび上がってくる。
和樹がこんな策を使ってまで結婚したくない理由だ。
訊きたい。
どうして、そんなに結婚したくないのですか?
そう言いたい。
仁愛はぎゅっと和樹の手を握り、視線を道に落とした。
それから。
二人はレストランで食事をして、ワインとつまみを購入し、部屋に戻った。
今日は土曜日なので、すこしゆっくりできる。仁愛はまだ和樹の趣味部屋にほとんど入ったことがなかったので、そこで過ごしたいと言い、和樹も快諾した。
「この部屋、仁愛ももっと自由に使っていいんだよ?」
和樹が仁愛に、優しく言う。
「ありがとうございます。でも、まだまだ部屋の中を綺麗にしたいんです。整理整頓やお掃除が一通り済んだら、のんびり楽しませていただきます」
「うん、ありがとう。でも今日は楽しんでね」
「はい。ここ最近、お仕事や結婚式の準備で大変でしたからね。夕飯の時間まで遊ばせていただきます」
微笑みあう二人。
結婚式という、目下、最大の障壁を前にして、二人は様々な準備を行っているうちに、少しずつ互いを知るようになっていた。
「仁愛もワインを飲む?」
ソファに座り、ワインを開けながら仁愛に声をかける和樹。
「そうですね、今日はいただきます」
和樹は仁愛の前にグラスを置いて、ワインを注いだ。
「それにしても、ここ、本当にすごいです」
「なにか映画でも見る?」
「いえ、今日は静かに漫画を読みたいです」
「うん」
「その……和樹さんの隣、いいですか?」
「え、あ、うん」
「あは♪」
仁愛は笑顔で棚から漫画をごっそり持ってくると、テーブルの上に載せ、和樹の隣に座った。
このソファは二人掛けだが、恋人用のため、ぴったりと身体がくっつく。
仁愛は和樹の体温を感じたかった。
一人暮らしが長かったせいか、人の温もりが心地いいのだ。
にんまり笑う仁愛に、和樹が少し頬を赤らめて言う。
「たまにはこうやって、一緒にいるけど、おのおの別のことをやるっていうのも、いいかもね」
「はい!」
仁愛と和樹は顔を向け合って、子供のように、にっと笑った。
それから仁愛と和樹はワインを飲みながら、漫画に没頭した。
仁愛は酒に強い。二十歳になってから様々なパーティーで、仁愛に近づき、酔わせて落とそうとした男性が多々現れたが、彼らを
どれくらい時間が経っただろうか。
いつの間にか、和樹の手は止まっている。
仁愛はそれにまったく気づかず、夢中で漫画のページをめくっていた。
その時。
和樹の身体がゆらり、と泳いだ。
「え、わ、ちょっ! わひゃぁああ!」
どたん、という大きな音と共に、仁愛と和樹は絡まり合いながら床に落ちた。
「いたた……あの、かずき、さ……ん!?」
仁愛は、和樹に覆い被さられていた。
いつものラフなワンピースを着ていたので、落ちた時に腰までめくれ上がり、下着が
その上に和樹の身体が触れる。
けっして豊満とは言えない……仁愛のかわいらしい胸に、和樹が頬をつけていた。
仁愛の体温が、瞬間湯沸かし器の中のお湯のように上がる。
「か、和樹さん……って、あれ?」
すう、すう。
和樹は仁愛の胸に抱かれて、眠っていた。
「んもう、びっくりしました!」
仁愛は和樹の背中に手を回し、こう思った。
やっぱり和樹さんを……嫌いではない、と。
こんなに大胆に押し倒されたのは初めてだが、仁愛は和樹ならいっか、と、その頭を優しく撫でながら、少しだけ和樹に身体を貸してあげることにした。
思い返せば和樹だって、仕事をこなしながら、この三略結婚を進めてきた。疲れないわけがないし、こんな大胆な計画なのだから、ずっと神経をすり減らしてきたはずだ。
「おつかれさまです。和樹さんの計画のおかげで、私はあなたと出会えました」
寝息を立てている和樹の顔は見えないけれど、もし人を好きになるとしたら、こうやって身体を重ねても嫌じゃない人がいいなあ、と、仁愛は和樹をぎゅうう、と抱きしめるのだった。