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第三話

 それから。

 和樹が目を覚ました時、趣味部屋のソファに寝かされていて、毛布を掛けられていた。


「ん……あれ?」


 仁愛と一緒にここで過ごしていて、ワインのせいで急に眠気がきて……。

 それからは覚えていない。

 和樹は身体を起こし、テーブルに目を向ける。

 ワインにはコルク栓がされており、グラスはなかった。


 そして、自分に掛けられた布団に注目する。

 これは和樹のものではない。

 仁愛の部屋に用意しておいたものだ。


「え、あ、う……」


 ということは、仁愛はこの布団に毎晩、包まれて眠っているのか。

 そう思うと、心臓が早鐘を打つ。

 手にした布団から、いい匂いがする。

 それが和樹の心を大きく揺るがし、こう思った。


 仁愛を……嫌いじゃない。


 あんな出会いだったけれど、仁愛は和樹の世界観を打ち砕くくらいの力があり、とても魅力的な女性だった。パーティーとなると、まるで仮面でもつけているかのように厚化粧をした女性が群がり、和樹という人間ではなく、社会的地位と金銭を求めてくる、おぞましい人ばかりだった。


 しかし仁愛は違う。

 兄の栄貴や和樹など見向きもせず、シンプルなドレスを着こなし、化粧は薄く、ストレートの髪を短く整えて、髪飾りなど一つもつけていない。そんな仁愛を目にした時「この人しかいない」と、ずっと目で追っていた。


 かくて予想通り、いや予想以上に、仁愛は素敵な女性だった。

 互いに親が大会社の社長なのに、仁愛は飾ることを嫌い、合理性を好んだ。その反面、きれい好きで、細かなところまで掃除をする。和樹の本家には家政婦さんが数名いたが、彼女らをまとめても仁愛より仕事はできないだろう。


 仁愛が来る前と後では、まるで別の部屋のように住みやすくなった。

 ふと、時計に目を向ける。

 午後六時半。

 この時間なら、仁愛はキッチンにいるかもしれない。

 和樹は少しドキドキしながら仁愛の布団を手にして、歩いて行った。


 少しだけ時をさかのぼる。


「あの部屋はなんなんでしょうか?」


 仁愛が和樹に布団を掛けて娯楽部屋を出た時、思わずそう口にしてしまった。

 右隣にあたる、ダイニング側にもう一つある扉のことだ。

 玄関側から見ると、右手にトイレ、左手に脱衣所と浴室がある廊下。

 その先、左手にキッチン、左奥にダイニングがあり、さらに奥にはリビングがある。


 リビングからは右手前が仁愛の部屋、右奥が和樹の部屋。

 正面がベランダに通じている強化硝子戸があり、左奥が趣味部屋である。


 では、左手前の部屋は?


 いままで仁愛は、この部屋に疑問を感じたことが何度もある。

 なにせこの部屋は、いつも鍵がかかっているのだ。

 掃除をしたくても入れないし、自分が住んでいる場所に謎の空間があるのは気持ちが悪かった。

 でも、鍵までかけているのだから、きっと和樹が見てほしくないものが入っているのだろうと、考えないようにしていた。


 ところが時間が経つにつれて、その開かずの扉が気になってきた。

 仁愛は夕飯のカレーを作りながら、ちらり、ちらりと視界に入る扉にずっと困っていた。

 ちなみに、このキッチンが仁愛にはややサイズが大きいと察した和樹が、端から端まで届く長足掛けを買ってくれたおかげで、かなり快適になった。だがその反面、開けたキッチンとダイニングを見通せるスペースから、開かずの扉が目に入るようになってしまったのだ。


 それからというもの、仁愛の好奇心と、不安と、僅かな気味悪さで、少し嫌な思いをしていた。これが仕事ならば、即その正体を明らかにするところだが、和樹が絶対に見られたくないものがあるのは間違いない。なので人の心に土足で踏み込むのは良くないことだと、知りたい気持ちをぐっと堪えることにした。


「あの、仁愛?」


 はっ、と気づくと、趣味部屋から和樹が出てきていた。


「あ、起きました?」

「うん」


 仁愛が、ぱたぱたと和樹の元に向かう。

 和樹は顔を赤くしながら、布団を差し出した。


「これ、ありがとう」


 仁愛は和樹から布団を受け取り、頬を染めた。


「だ、大丈夫でしたか? 私のですいません。くさくなかったですか?」

「くさいだなんて、そんな。いい匂いがした」

「え……」

「あ……」


 仁愛は布団に鼻まで埋めて赤面し、和樹もうつむいて頭を掻く。

 ともに暮らしているせいか、時折、こういった時が流れる。

 甘いというか。艶っぽいというか。

 時が止まったかのような感じだ。


「あ、あの、か、和樹さ……」


 その時。


「うわ!」「ひゃわぁ!」


 やかんの中に満たされていた水が、沸点を超え水蒸気となって、ピー、と笛を鳴らした。


「いっけない! もうすぐご飯ができますから、和樹さんは座っててください!」

「あ、うん」


 二人は弾かれたように離れた。

 仁愛は大慌てで抱えた布団を自室に投げ込むと、IHの電源を切る。その間も仁愛特製のカレーには弱火がはいっており、ことことと音を立て、食欲をそそる香りを放つ溶岩のように、泡が浮いては割れていく。


「おお、今日はカレーなんだね?」


 その香りにつられて、和樹がリビング側のカウンターにある窓から、キッチンの仁愛に顔を向ける。


「はいっ! あ、和樹さんは辛いの、大丈夫ですか?」

「激辛でも食べられるよ」

「わあ、よかったあ。実は私、辛いものが好きなんです」

「じゃあ、その方向でお願いね」

「らじゃーです!」


 お玉を持ったまま、真剣な顔で敬礼のポーズを取る仁愛。

 和樹は思わず声をあげて笑ってしまった。


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