それから。
和樹が目を覚ました時、趣味部屋のソファに寝かされていて、毛布を掛けられていた。
「ん……あれ?」
仁愛と一緒にここで過ごしていて、ワインのせいで急に眠気がきて……。
それからは覚えていない。
和樹は身体を起こし、テーブルに目を向ける。
ワインにはコルク栓がされており、グラスはなかった。
そして、自分に掛けられた布団に注目する。
これは和樹のものではない。
仁愛の部屋に用意しておいたものだ。
「え、あ、う……」
ということは、仁愛はこの布団に毎晩、包まれて眠っているのか。
そう思うと、心臓が早鐘を打つ。
手にした布団から、いい匂いがする。
それが和樹の心を大きく揺るがし、こう思った。
仁愛を……嫌いじゃない。
あんな出会いだったけれど、仁愛は和樹の世界観を打ち砕くくらいの力があり、とても魅力的な女性だった。パーティーとなると、まるで仮面でもつけているかのように厚化粧をした女性が群がり、和樹という人間ではなく、社会的地位と金銭を求めてくる、おぞましい人ばかりだった。
しかし仁愛は違う。
兄の栄貴や和樹など見向きもせず、シンプルなドレスを着こなし、化粧は薄く、ストレートの髪を短く整えて、髪飾りなど一つもつけていない。そんな仁愛を目にした時「この人しかいない」と、ずっと目で追っていた。
かくて予想通り、いや予想以上に、仁愛は素敵な女性だった。
互いに親が大会社の社長なのに、仁愛は飾ることを嫌い、合理性を好んだ。その反面、きれい好きで、細かなところまで掃除をする。和樹の本家には家政婦さんが数名いたが、彼女らをまとめても仁愛より仕事はできないだろう。
仁愛が来る前と後では、まるで別の部屋のように住みやすくなった。
ふと、時計に目を向ける。
午後六時半。
この時間なら、仁愛はキッチンにいるかもしれない。
和樹は少しドキドキしながら仁愛の布団を手にして、歩いて行った。
少しだけ時を
「あの部屋はなんなんでしょうか?」
仁愛が和樹に布団を掛けて娯楽部屋を出た時、思わずそう口にしてしまった。
右隣にあたる、ダイニング側にもう一つある扉のことだ。
玄関側から見ると、右手にトイレ、左手に脱衣所と浴室がある廊下。
その先、左手にキッチン、左奥にダイニングがあり、さらに奥にはリビングがある。
リビングからは右手前が仁愛の部屋、右奥が和樹の部屋。
正面がベランダに通じている強化硝子戸があり、左奥が趣味部屋である。
では、左手前の部屋は?
いままで仁愛は、この部屋に疑問を感じたことが何度もある。
なにせこの部屋は、いつも鍵がかかっているのだ。
掃除をしたくても入れないし、自分が住んでいる場所に謎の空間があるのは気持ちが悪かった。
でも、鍵までかけているのだから、きっと和樹が見てほしくないものが入っているのだろうと、考えないようにしていた。
ところが時間が経つにつれて、その開かずの扉が気になってきた。
仁愛は夕飯のカレーを作りながら、ちらり、ちらりと視界に入る扉にずっと困っていた。
ちなみに、このキッチンが仁愛にはややサイズが大きいと察した和樹が、端から端まで届く長足掛けを買ってくれたおかげで、かなり快適になった。だがその反面、開けたキッチンとダイニングを見通せるスペースから、開かずの扉が目に入るようになってしまったのだ。
それからというもの、仁愛の好奇心と、不安と、僅かな気味悪さで、少し嫌な思いをしていた。これが仕事ならば、即その正体を明らかにするところだが、和樹が絶対に見られたくないものがあるのは間違いない。なので人の心に土足で踏み込むのは良くないことだと、知りたい気持ちをぐっと堪えることにした。
「あの、仁愛?」
はっ、と気づくと、趣味部屋から和樹が出てきていた。
「あ、起きました?」
「うん」
仁愛が、ぱたぱたと和樹の元に向かう。
和樹は顔を赤くしながら、布団を差し出した。
「これ、ありがとう」
仁愛は和樹から布団を受け取り、頬を染めた。
「だ、大丈夫でしたか? 私のですいません。くさくなかったですか?」
「くさいだなんて、そんな。いい匂いがした」
「え……」
「あ……」
仁愛は布団に鼻まで埋めて赤面し、和樹も
ともに暮らしているせいか、時折、こういった時が流れる。
甘いというか。艶っぽいというか。
時が止まったかのような感じだ。
「あ、あの、か、和樹さ……」
その時。
「うわ!」「ひゃわぁ!」
やかんの中に満たされていた水が、沸点を超え水蒸気となって、ピー、と笛を鳴らした。
「いっけない! もうすぐご飯ができますから、和樹さんは座っててください!」
「あ、うん」
二人は弾かれたように離れた。
仁愛は大慌てで抱えた布団を自室に投げ込むと、IHの電源を切る。その間も仁愛特製のカレーには弱火がはいっており、ことことと音を立て、食欲をそそる香りを放つ溶岩のように、泡が浮いては割れていく。
「おお、今日はカレーなんだね?」
その香りにつられて、和樹がリビング側のカウンターにある窓から、キッチンの仁愛に顔を向ける。
「はいっ! あ、和樹さんは辛いの、大丈夫ですか?」
「激辛でも食べられるよ」
「わあ、よかったあ。実は私、辛いものが好きなんです」
「じゃあ、その方向でお願いね」
「らじゃーです!」
お玉を持ったまま、真剣な顔で敬礼のポーズを取る仁愛。
和樹は思わず声をあげて笑ってしまった。