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第四話

 そして。

 時刻は午後七時半。


 ダイニングテーブルには仁愛特製カレーライスと、付け合わせのサラダが並んだ。


「か、カレーで大失敗したことはないのですが……」


 仁愛は毎回、食事の度に和樹の反応を伺う。

 むしろ仁愛にとって、それが楽しみになっていた。

 和樹はカレーの匂いに笑顔を見せ、口を開いた。


「いやあ、これはまた、美味しそうだな! それではさっそく!」

「「いただきます!」」


 二人が声を揃えて叫ぶ。

 このかけ声も、かなり息が揃うようになってきた。


 そして、スプーンを手にしてカレーに突っ込み、口に入れた。

 仁愛は味見をしているので、このカレーの辛さを知っている。

 果たして、和樹の口に合うのか。

 毎回、ドキドキできる瞬間である。

 カレーを喉に通し、ぷはあ、と息を吐く和樹。


「美味しい! すごく美味しいよ!」

「ああ、よかったです!」


 夢中になって食べる和樹の姿を目にして、顔をほころばせる仁愛。

 もう何度も卓を共にしているのに、和樹の「美味しい」という一言をもらえると、とても嬉しい。ふと思い返してみると、和樹から「美味しい」以外の感想を聞いたことがないことに気づいた。


「あの、和樹さん?」

「うん?」


 カレーに夢中になっていた和樹が、顔を上げる。


「も、もし、お口に合わない料理があったら、遠慮なく言ってください。次は必ず、美味しいものを作りますので!」


 仁愛が眉をきゅっと吊り上げ、力を込めた言葉を放ったので、和樹はスプーンを皿に置いた。


「僕はそういう忖度そんたくはしないから。仁愛の料理が美味しいから、美味しいって言ってるだけだから。心配しないで」

「かずきさん……私、嬉しいです」


 瞳を潤ませる仁愛に、和樹は狼狽ろうばいした。


「さ、さあ、食べよう! 僕はおかわりするからね!?」

「はい!」


 一生懸命、作ってよかった。

 仁愛の心が、そんな思いで満たされていく。

 やはり一人で機械的に食べるのは、ただの「食物の摂取」なのだなあ、と感じた。


 和樹と二人だから、全力で美味しいものを作ろうと頑張れる。

 和樹と二人だから、食べていて楽しい。

 和樹と二人だから……。

 仁愛はカレーをひとすくいして口に入れ、和樹に笑みを見せた。


 それからの日々は、再び慌ただしかった。

 続々と返信されてくる案内状の処理に追われ、結婚式の受付を仁愛は友人に、和樹は同期に頼むことにして連絡すると、その四名は快諾してくれた。


 仁愛のスタイルはあくまで〝堅苦しくしたくない〟で一貫している。

 お色直しもしたくないと言い出したが、さすがにそれは通らなかった。

 結局、おおむね式場のプランナーが立てたプログラム通りになったが、新婦による両親への手紙と、ウェディングケーキは仁愛が強く却下した。


 仁愛を道具として見てこなかった祖父や父に、感謝の念などないからだ。

 もし母が生きていたら、母に向けてなら、やったかもしれない。

 仁愛がそう呟いたことで、和樹は、はじめて仁愛に母がいないことを知った。


「ごめんなさい。母は私が高校生の時、病気で亡くなっちゃったんです。すっごく優しくて、頭が良くて、料理が上手で、家事も全てこなして、本が大好きで……私の人生の指針を教えてくれました」


 そっか、と和樹は頷く。

 仁愛は仕事ができるし、家事も一切手を抜かない上に、とても賢い。こそはお母さんが、仁愛に一条家という特殊な環境で生き抜くために与えた知恵なのだな、と納得した。そのおかげで一条仁愛という女性は大金持ちの一人娘なのに、全然、そういう感じがしない、とても魅力的な女性になった。


 和樹は自分の直感に感謝し、この結婚式はなるべく仁愛の意向を取り入れるよう動いた。

 その結果、式は結婚式と披露宴までで、二次会はなし。ご祝儀しゆうぎは全額辞退し、橘家に払わせると和樹が言うと、今度は仁愛がさすがにそれは、と口を挟んだ。


 しかし道理からして別姓とはいえ表向き、仁愛が橘の家に入る形になるのに、忙しさにかまけて結納や顔合わせなどをしていないのだから、そこは橘家の面目を潰さない方がいいのではないかと伝えれば、簡単に通るだろう、と和樹が一計を案じ、かくして今回の結婚式費用はご祝儀も含めて全額、橘家が支払うことになった。


「ほ、本当にそんなことがまかり通ったんですか……」


 仁愛は呆れて、リビングでテレビを見ていた和樹の前に紅茶を差し出す。


「これも計算通りだよ。橘家は僕らの結婚式で一条家よりも主導権を握りたかったはずだったからね。僕からそう打診されれば、喜んで飛びつくと思ったんだ。これで僕らは一銭も出さず、結婚式を挙げられるというわけだ」

「孫子の第四章第四項〝まず勝ちてから戦う〟ですか?」

「その通り。橘家はアルオン・グループを創業したけれど、それはファーストアイからの知見によるものが大きいから、どこか一条家に対して劣等感のようなものを感じていた。打てる手は全て打ち、勝ってから後に戦う。今回のようにしておけば、なにがあっても僕らに損害はないからね」

「数多ある兵法書の中から、状況に応じて実践しているなんて、和樹さんはすごいです!」

「それを理解しちゃう仁愛も、充分すごいんだけどね」


 和樹が仁愛に、いたずらっ子のように、にっ、と笑った。


「でも、本当に僕は仁愛に出会って、かなり変わったよ」

「そうですか?」


 紅茶を載せていたトレイを抱きしめつつ、問い返す仁愛。


「仁愛じゃなかったら、僕はなんでもお金で解決する男のままだった。そうなりたくないと思っていたものに、いつの間にかなっていた。それを気づかせられたのは、仁愛しかいなかったよ」

「そ、それなら、嬉しいです。これも母の教えですが、人の価値はお金でも地位でもなく、その人にあると言っていました。だから、父から平社員として会社に入れと言われた時もすんなり受け入れられましたし、多すぎるお小遣いは突き返していました」

「仁愛のお母さん、本当に人格者だったんだね」

「最高の母でした」

「仁愛がこんなにお母さんの話をするのって、珍しいね」

「私も驚いています。きっと母の話は、心から信じられる人にしかできないと思ってたましたから」

「それは、僕を信じてくれてるってことかな?」

「あ……はい、です」


 にこっと微笑む仁愛。

 思わぬ反撃に、和樹の方が照れさせられた。


「一緒に暮らし始めてもうすぐ一ヶ月になりますが、和樹さんは紳士的に接してくれました。きっとこれからもそうしてくれると信じられると思ったんです」

「わからないよ? 今から急に豹変ひようへんするかも――」

「その時は鎖骨をいただきます」

「ギプスができないところじゃないか! エグい!」

「では肋骨ろつこつにします?」

「同じでしょ! ごめんなさいすいません!」


 笑いを交わす、仁愛と和樹。

 最近、仁愛は和樹との距離が徐々に縮まっていることを感じていた。

 最初は緊張で固くなっていたこの生活も慣れたし、なにより、和樹と一緒にいるのが楽しかった。知的なのにユーモアがあり、何事も仁愛を最優先に考えてくれる。

 こんなに大事にされたのは、本当に母親以来だった。

 和樹がこんな人でなければ、ここまで心の内をさらけ出すことはなかっただろう。

 次の日曜日は、もう結婚式の当日だ。

 仁愛は和樹の隣に座り、トレイに顎を載せる。


「ど、どうしたの?」


 急に雰囲気が変わった仁愛に、動揺する和樹。

 仁愛は悩んでいた。

 結婚式の前に訊くか。それとも後にするか。

 しかし、いくら偽装結婚式とはいえ、やはりもやもやした気持ちのまま式をしたくなかった。


「和樹さんに、訊きたいことがあります」


 仁愛が和樹に顔を向けて叫んだ。


「あの、鍵を掛けてある部屋のこと?」

「!?」


 一瞬、仁愛は心を読まれたのかと思って驚いたが、ゆっくりと頷き、険しい表情になった。


「まず、和樹さんはどうしても結婚をしたくないので、私に偽装・契約結婚を提案してきました。表向きだけでも既婚になっていれば、もう縁談はないからです。でも……ずっと、その理由がわからなかったんです。なんで和樹さんはそこまでして婚姻を拒んだんですか!? そろそろ、教えてほしいです」


 涙を落としながら懇願する仁愛。

 その姿を見て和樹は、覚悟を決めた。


「本当はもっと早く言うつもりだった。でも、仁愛と楽しい日々を過ごしているうちに、この契約を破棄されるのが怖くて……どんどん言えなくなっていったんだ」


 和樹はソファから立ち上がると、自室に入る。

 数秒後、鍵を持って仁愛の元へ戻ってきた。


「これが、凛月りつの部屋の鍵だよ」


 苦しそうに、絞り出すように、言葉を紡ぐ和樹。


「凛月さん?」

「仁愛、これから話すことで君が僕を見限るなら、それも仕方ないことだと思う。すぐ契約破棄して出て行ってもらって構わないし、その際は僕が仁愛の住む場所を手配する。仁愛にとっては、このタイミングが一番いいのかもしれない。

 かつての僕の恋人だった女の子の話、聞いてくれる?」


 ダイニングの椅子に座り、鍵をテーブルに置く和樹。


「はい。是非、聞かせてください」


 仁愛はトレイを握りしめたまま、和樹の対面に、静かに座った。


 当初からの謎だった〝和樹が結婚したがらない理由〟が、これから明かされることになる。


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