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第五話

 いつもは仁愛と和樹の笑い声で満ちている部屋が、今は夜明け前の湖のようにしん、と静まりかえっていた。

 ダイニングのテーブルに置かれた紅茶が、どんどん熱を奪われていく。

 そんな雰囲気に風を送り込んだのは、和樹だった。


「今から三年前。僕は父が過労で倒れて入院した病院で、なんとなしに行った裏庭に、彼女は立っていた。患者衣のまま椎の木を見上げて、仁愛のようにボーイッシュな髪を揺らして、枝葉を見上げていたんだ。僕はその美しさに、釘付けになった。それが、寿々菜凛月との出会いだった」


「すずな、りつ、さん?」


 きゅっ、と、仁愛の胸が締めつけられる。

 過去の話なのだから、自分で望んだことなのだからと心の中で言い聞かせながら、和樹の話に耳を傾けた。


「僕は彼女を知りたくて声を掛けた。最初はすごく迷惑そうな顔をしていたけれど、一時間くらい話をして、少しだけ打ち解けた。寿々菜凛月、508号室。それだけ聞いてその日は終わったけれど、毎日、お見舞いに行くようになった。凛月は映画やアニメ、漫画が大好きで、観てみたい、読んでみたいタイトルがたくさんあるっていうから、かたっぱしからネットで取り寄せて、毎日、凛月に届けた。凛月は喜んで受け取ってくれて、読み終わったものは僕が引き取った」

「あ……そうやってできたのが、あの、趣味部屋……」

「そう。あの部屋にあるものは、ほとんどその時のものなんだ。だからある意味、僕の趣味部屋っていうわけじゃない」

「じゃあ、あのフィギュアは?」

「凛月が病室に飾っていたんだ。僕、本当はあまりアニメとか詳しくないから、あの時は駿河屋するがやに通って店員さんに聞きながら買ってたんだ。同じフィギュアだと飽きると思って、同じキャラのものを見つけたら買って、病室に飾っていたものは僕が預かった。漫画本とか小説とか、映画のディスクと同じように」

「そこまで、してあげてたんですね」

「うん。そのうち僕は凛月を本気で好きなんだって気づいた。それまで、女性にここまでしたことがなかったから、狼狽うろたえたよ」

「それは、仕方ないことだと思います」

「あんなに女性を好きだと思ったのは初めてだった。だから告白したけど、二度、断られた」

「え、断られちゃったんですか?」

「残念ながら。でも三度目で怒られた。そして凛月は、僕のことは好きだけど、わたしのことは好きにならないでほしいって言ったんだ」

「な、なんで、です?」

「彼女は……凛月は骨肉腫だった。近いうちに右足を切断する手術を受けるって」

「え!?」


 骨肉腫。

 それは骨の悪性腫瘍で、脛骨けいこつ大腿骨だいたいこつ、上腕骨などに発生する。

 十代から二十代に多く、成長痛と勘違いされてしまうこともあるという。


「そ、それで、和樹さんはなんて言ったんですか!?」

「それがどうした? その程度で離れるとでも思ったの? だったら僕が、なくなる君の足になるって言った。凛月は泣きじゃくって、僕の胸を叩いてきた」

「うう……」


 和樹の深い愛情に、ぐっ、と、仁愛の胸を打つ。


「それから僕らは恋人同士になった。僕と凛月が出会った時、椎の木の下にいたのは、もうすぐ自分の足で、こうして木を見上げられないんだと落ち込んでいたらしい。そこになにも知らない僕が現れたんだ。あれこれ難癖つけて追い払おうとしたら、その全てを僕が叶えていったから、変人なんだなって思って、僕を好きになってくれたらしい」


 視線をテーブルに落とす和樹。

 思い出したくないことを、絞り出すように言う和樹の姿は、仁愛から見て痛々しかった。

 でも、知っておきたい。

 和樹の奥底にあるものを、共有したい。

 その思いが勝っていた。


「手術はまもなく行われた。無事に成功して、凛月は右膝上十センチから下を失った」

「そ、それは、つらいことですが、成功してよかったです!」

「僕もほっとしたよ。それから外出できるようになって、僕と凛月は写真や動画をたくさん撮った」


 和樹がテーブルに手を置き、力を込めて立ち上がり、鍵を握る。


「仁愛、こっちへ」

「はい」


 そのまま和樹は、仁愛がずっと謎だと思っていた部屋の前に向かうと、持っていた鍵で解錠し、扉を開けて中に入った。

 仁愛もトレイをテーブルに置き、和樹に続いて中に入る。

 和樹がライトをつけると、部屋の全容が明らかになった。


 そこは仁愛の予想とは違い、ひどく殺風景な部屋だった。

 ベッドにはマットレスすらない。

 窓は遮光カーテンが引かれ、床はほこりまみれだ。そんな無機質な部屋の中に一つの棚が左の壁際にあり、写真立てが並ぶ。そしてその上には、引き延ばされた女性の笑顔が飾られていた。

 すごい美人で、最高の笑顔を向けていた。


「この人が、凛月さん……」

「うん」


 仁愛は後ろに手を組んで、写真を覗いた。

 そこには今よりも幸せそうで、元気な和樹と、凛月の二人が写っていた。

 椎の木の下で。

 病院の入り口で。

 街中で。

 レストランで。

 いろいろな表情を浮かべて、生き生きとした凛月の姿が並んでいた。


「二人とも、すごく幸せそうです」

「本当に幸せだった。凛月は素直でかわいくて、片足なんかなくたって関係ないくらい、魅力的で、素敵な女性だった」

「だった……って、あ!」


 何故、和樹は過去形で語るのか。

 いち早く察した仁愛は、思わず後ずさり、両手で口をふさいだ。


「さすがに仁愛は鋭いね。そう、退院してここに来る直前の検査で、がんの転移が見つかったんだ」


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