仁愛はふいっと横を向き、壁に掛かっていた
「凛月さん! 和樹さんは私、一条仁愛が責任持って幸せにします。どうかご安心を!」
和樹はこんなことを口に出せる仁愛に心底「凄いな」と思うと同時に、仁愛の隣に立ち、同じように手を合わせた。
「凛月。君は
仁愛と和樹は、揃って笑顔の凛月に祈りを
「この大きな凛月さんの写真、リビングに掛けてましたね?」
「う! な、なんでそのことを?」
「女のカンをなめないでください。リビングの壁に、何かを掛けてあった形跡があります。サイズもこの写真とぴったりでした。元に戻しましょう!」
「は、はあっ!?」
和樹にとってこれは、かなり意外な提案だった。
いくら偽装・契約・政略という三略結婚の間柄とはいえ、表向きは夫婦だ。そのリビングに他の女性の写真があったら、誰が見ても不自然だし、なにより仁愛が嫌がると思ったのと、凛月の存在を隠しておきたかったからわざわざここに移したのに、と、和樹はさすがに混乱してしまった。
「い、いやでも、それは――」
「和樹さんは凛月さんを片時たりとも忘れないために、リビングに写真を飾ったんですよね?」
「まあ、そうだけど」
「それなら、今後もそうしましょう。凛月さんがいなければ、私と和樹さんの関係はなかったんですから。私は凛月さんにはお目にかかったことはありませんが、和樹さんのお話を聞いて、私も忘れてはならない方だと思いました。だめですか?」
「……仁愛が、そう言ってくれるなら」
仁愛に何度も驚かされて、和樹の涙はどこかに消えてしまった。
「では、写真はお願いします。私では、その、悔しいのですがっ!」
手が届かない。
瞬時に察知できる事実だった。
「あ、ああ。僕がやっておくよ」
「お願いします。私は掃除機を取ってきます」
ぱたぱたと部屋を出る仁愛の背中に目を向けて、和樹は口許を緩ませた。
一条仁愛。なんて人だ、としか言いようがなかった。
それから。
橘和樹の心と、あかずの扉を開かせた仁愛は、全力で凛月の部屋を掃除した。
頭にはバンダナ、口にはマスク、そしてエプロンと、防御は万全だ。バケツに布巾も用意した。
まずは窓を開け、降り積もった埃をはたきで叩いて外へと逃がす。天井の隅にある、主のいない
元々、この部屋には凛月の写真を置いた棚しかないので、掃除機を掛けやすかった。
凛月の棚も、しっかり濡れ布巾で汚れを落とし、幸せが詰まった和樹と凛月の写真を微笑ましく思いながら、一つ一つ、磨いていった。
そうこうして一時間、凛月の部屋は全てが見違えるように綺麗になった。
「ふー、一通り、お掃除終わりましたぁ」
仁愛は掃除機を抱えて、リビングに戻ってきた。汗だくになった身体にぴたっと張りつく服が気持ち悪かったけれど、部屋を綺麗にできた爽快感は格別だった。
「ありがとう。コーヒーを
和樹が、仁愛にねぎらいの言葉を贈る。
「いただきますっ!」
仁愛の返事ににっこりと笑った和樹が、カップにコーヒーを注ぐ。仁愛は掃除機を片付け、エプロンを脱ぎ、バンダナを外して洗濯かごに投げると、ダイニングを走り抜け、リビングに行った。
「おお~」
そこには優しく微笑んでこちらを見ている、寿々菜凛月の写真が飾られていた。
「凛月さん。どうか和樹さんを守ってください!」
まるで神に祈るかのように、手を叩いて礼をする仁愛。
和樹はそんな仁愛の姿を見て、改めて、こんな女性がこの世に存在するとは思わなかったという驚きと同時に、心温かなものを感じていた。
「あとはここの趣味部屋ですが、名称を娯楽部屋に変更します!」
急に仁愛が和樹に向かってそう言い出したので、和樹は何事かと思ってしまった。
「もともと、あの部屋に名前なんかつけてなかったんだけどなあ」
「これを機にそうしましょう!」
「まあ構わないけれど」
「和樹さんは娯楽部屋から、凛月さんが特に好きだったものを選んで、それを凛月さんの部屋に運びましょう。そうなると、本棚も必要になりますね……」
「その、娯楽部屋のものを使えばいいんじゃない?」
「それは駄目です!」
びしっ、と、前傾になって和樹を指さす仁愛。
「空いたところには、私と和樹さんが読みたいものや観たいもので埋めていくんです!」
「おお、なるほど……」
「時々、凛月さんのお部屋に入って借りるものもあると思いますが、そこはやはり、空いた本棚の隙間を私で埋めていきたいんです」
「そうだね。仁愛には仁愛の好みがあるだろうし、いいと思うよ。ここは会社や仕事から開放された空間にしたいからね」
「そーです! なので夫婦共同の娯楽部屋なのです!」
腕組みし、我ながら良いアイデアだ、と言わんばかりの仁愛。
しかし、と仁愛は思う。
さりげなく行ったアピールが、
和樹は案外、鈍いのかもしれないと疑い始めていた。
「ところで仁愛」
「はい?」
「コーヒーが……」
「あ」
仁愛はその後、ぬるくて苦いコーヒーを飲む羽目になった。