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第3話:レイン

 ふんわりとした浮遊感。


 丈夫で大きな背中、どこか安心してしまう温もり。


 これは、夢だ。


 幼い頃、夜中に一人で泣いている私をおんぶして、夜の道を散歩してくれた父。


 そしたらいつの間にか眠ってしまって、気が付いたらいつも朝だった。


 ——いつも、気がついたら朝に……気がついたら、ここは、どこなのでしょうか? 


 私は確か学園から逃げ出して、橋の下で捕まりそうになった所を、レインくんに助けられて。


 ぼんやりとした意識で手を動かせば、ふかふかのベッドの感触。ゆっくり瞼を持ち上げると、見覚えのない天井に穏やかな暖色の明かり。


 私はまだ完全に覚醒していない意識を起こしながら周囲を見廻して首を横へと向ける。


 そこには、腕を枕がわりに顔だけをベッドに乗せて眠りにつく彼の無防備な寝顔が鼻先数センチのところにあった。


「意外と可愛い——違うっ!? 近い近い近いよっ!?」


 すぐさま正面へと向き直った私は、バクバクと高鳴る鼓動に顔を火照らせながら布団の中に潜り込む。


 ずっと付き添って看病をしてくれていたのだろうか、ドキドキしながら布団をめくり彼の顔を再度確認する。


 ——ぐっすり眠ってる、なんで話した事もない私にこんなこと。


 落ち着かない感情や疑問、今が何時でどのくらい寝ていたのか、ずぶ濡れだった私をここまで運んで看病してくれるなんて、彼の今までの印象からは想像もつかない。


 しかし、その瞬間、私の頭に猛烈な違和感が走った。


 ベッドが濡れてない。


 私は全身ずぶ濡れだったはず。そして、このスースーする感じ。


 はて? と首を傾げ、半ば思考を捨てたままチラリと布団をめくり、自分の状況を確認。


 ——うん、ない……服が、ない。


「っぅぇええええ!?」


 どこから出たのかわからない音を発しながら、全身が恥じらいとパニックで真っ赤に染まる。


「なにかなこの状況!?」

「ん、起きたのか」


 発狂する私の声に目を覚ました彼は、布団の中で怯える子犬のように警戒心をあらわにしている私を寝ぼけ眼で見つめる。


「れ、れっレインくん!? いろいろと、聞きたい事が。   

 ——その前に、この度は助けていただいてありがとうございます。で、その、私の現状についてお話しをお伺いしたいのだけれども。見た? 私の……」


「ん? ああ、見ていない」


 羞恥に悶える私の反応を見て何かを察した彼は平然と眠い目をこすりながら言ってのけた。


「そ、そっか、見てないならよかった——って無理だよね? 無理があるよね!? 助けてもらっといてこんな事言えないんだけどさ!?」


 まさにその通りなのである、自分自身でも仕方のない状況だということは十分に理解している。


 だが彼は錯乱中の私に向かい再び堂々と言い張った。


「目隠しをしていた」


 ドヤっと自信満々に親指を立てるレインに一瞬「ああ、なるほど」と納得しかけ、目隠しをしたまま衣服を脱がせるシュチュエーションをなんとなく想像する。


「むしろ悪化!? まさぐられるより、方がマシだったかな!? もちろん、助けられた分際でこんなこと言っちゃいけないんだけどね!?」


「面倒くさい奴だな」


 不思議な生き物を見るように絶賛パニック中の私をじっと見つめる彼は、突然何かを思い出したようにハッと立ち上がる。


 私はビクッと肩を跳ねさせて小動物のように布団の中へ首を引っ込めた。


「ちょっと待ってろ」


「え? ぁ、う、うん」


 そそくさと部屋を後にするレインの背中を布団に隠れながら見守ると、肩の力が抜けるようにベッドへ倒れ込んだ。


「今頃、お母さん達心配しているだろうな——心配、してくれてるよね?」


 チラリと視線を向けた先、カーテンの隙間から陽の光は見えず、恐らく夜なのだろうと理解する。


 改めて部屋を見回せば、高い天井に重厚感のある家具、控えめに言っても家柄が良い事は間違いない。


 気になるとすれば彼以外に人の気配が全くしないことだ、この時間帯に何の物音もしないのは不自然だった。


「レインくんの家族はいないのかな? まさか、二人きり?」


 一人照れながら頬を染める私は、現在自分が置かれている状況を改めて思い返し、はしゃいでいる場合ではないと再び気を落として現実を見る。


 ふと視線がベッドの横にある棚、その上に飾られた写真立てへと向いた。


 そこには、あどけない笑顔を浮かべた群青の髪をした少年と、その肩に手を添える、私と同年代程の男の子。

 背後には和かな笑顔を浮かべる夫婦の姿が写っていた。


「レインくんの家族かな? お父さんとお母さん、小さい子はレインくん? 別人みたい……もう一人はお兄さんかな」


 ゆっくりとベッドから足を下ろし、写真へと近づいていく。


「笑った顔——なんでだろう、懐かしい?」


 あどけない少年の笑顔に、なぜか懐かしさを感じた私は、ふいに頬を伝う一筋の滴に気がついた。


「あれ、なんで涙なんて……おかしいな」


 胸の奥底から溢れる覚えのない感情に私は戸惑いを感じていると、扉の向こうからドアノブに手をかける音。


 瞬間、常人離れした動きで布団の中に身を滑り込ませた私は、戻ってきたレインくんへにっこりと微笑み返す。


「お、おかえりぃ、なんちゃって」


「別に見ても構わない、両親と——兄さんだよ」


「うん、私が見られると不味い格好だったことの方が大きいかなッ——その、今ご家族は? 私がいても」


「……っ、ここには俺一人しか住んでない」


「ぇ」


 その言葉には、重く、強い悲しみがこもっていたように感じられた。


 私はそれ以上のことを聞かなかった。


 聞く事が出来なかった。


 どことなく気まずい空気に視線を泳がせていると、彼はベッドの近くに小さなテーブルと上品な茶器をセットして私へと差し出してくれる。


「ベルガモットティーを入れて来た、これで機嫌を直せ」


「べ、べるがもっと? なんかオサレな響き! レインくんとのギャップがすごいよ!?」


 彼は私のカップにゆっくりとベルガモットティーなるオサレな液体を注ぎ入れ、瞬間爽やかで心安らぐ香りが充満する。


 まるで心の疲れが洗い流されるようだった。


「いい香り、なんかホッとしちゃった」


 カップに注がれたお茶を私は布団にくるまったままそっと口元に運ぶ、優雅な味わいと温もりが冷え切った体と心を温めてくれる。


「後、制服もアイロンかけといた」


「ちょいちょい女子力高くないかなっ、 レインくん完璧なのか!? どうもありがとうございます!!」


 思わず含んだお茶を吹き出しかけた、彼の普段からは絶対想像も出来ない言動、何よりその優しさが今はじんわりと胸に染みてしまう。


、騒がしいなお前」


 先ほどから抑えている感情を誤魔化すようにハイテンションで応えていると、彼は少し困ったような表情を浮かべた後で、何かを懐かしむように優しげな笑みを浮かべて私を見つめた。


「と、とりあえず着替えよっかな?」


「ああ、風邪ひくといけないからな」


 彼から制服を受け取った私は、火照った顔を背けながら言外に一先ず出ていって欲しいと伝えたつもりだが、全く意図を察してもらえなかったので直接的に伝えることにした。


「そうだね? その気遣いはありがたいけれども、その前にもっと気遣って欲しい部分があるかな?」


「ん? あ、すまない、人が来るのは久しぶりだったからな、茶菓子を忘れていた」


「そこ!? 違うよ? レインくん? 着替えたいから、一旦お外に出てくれない?」


「そんなことか、早く言えよ」


「そこは鈍いの!?」


 なんやかんやと言い合いながらやっとの思いで彼を部屋の外へ追い出した私は、パリっとした制服に袖を通し、ベッドから出て腰掛けると気持ちを落ち着ける為に再びティーカップへと口をつける。


 とても、美味しかった。

 同時に緊張の糸がほろほろと解れていく。


「泣いているのか?」


 頃合いを見て部屋へと戻ってきた彼が私の姿を見て声をかける。


 ほとんど無意識だった。


 緊張が緩んで感情が溢れたのか、しかし、それだけではなかった、先ほどから感じている私の中の『何か』がこみ上げてくる。


 それは彼の声を聞くたび、その柔らかな表情を見るたび、激しく戸口を叩くように、私の知らない感情がその心を叩くのだ。


「ほら」

「ぁ、ありがと」


 そっと差し出されたハンカチを受け取り、頬をこぼれ落ちる涙を拭う。


 ティーカップの温もりを両手で感じながら、少し気持ちを落ち着かせると、改めて彼へと向き直った。


「レインくん、助けてくれて本当にありがとう——その、今更こんなこと聞くのは失礼なんだけど、あまり話した事も無かった私をどうして」


 正直、聞くのは怖かった、親友にすら見捨てられた私なんかを何で助けたのか。

 私自身、それが理解が出来なかったから。


「おまえを助けるのは、当然だろ……」


「え? どう言うこと?」


「……」


 彼はどこか悲しみを帯びた瞳で一瞬私を見据えた後、静かに俯いて黙り込んでしまう。



 ああ、またか——。



 私はそんな憂鬱な感情がこみ上げてくるのにウンザリとした気持ちになる。


 先ほどまでの高揚が色あせていくかのように。


「もしかして、レインくんも関係ある感じ?と」


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