目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第2話 「剣崎陽依の十五年間」


 私は望まれて生まれてきた。

 母には「生きても良いよ」と無償の愛をもらい。

 父には「生きられるように」と支えられてきた。

 だから私は、特に不自由もなく健やかに育った。


 私は幸せ者だ。

 これからも、幸せな毎日を享受していける。

 そうしたら私もいずれは、好きになった人と新しい家庭を築いて、同じように子に尽くせる親になろう、と。


 そんな未来がどれだけ幸せに満ちているのか。

 ──現在いまの私にはもう、何も分かりやしない。



◆◆◆



「ふんしょ……! ふんしょ……!」


 当時五歳だった剣崎けんざき陽依ひよりは、少し大きな道着と袴を身につけて、自分の背丈と同じ位の竹刀を振っていた。

 まだ幼いその目には輝かしい未来が見据えられ、未熟な私はその一振一振を意識して積み重ねていく。

 何度も、何度でも、蜃気楼を目指す旅人のように。

 少しずつこころと身体が疲れてきたけれど、額の汗が目に入って邪魔だけれど、それでも竹刀を振り続ける。

 何故なら私は、幼いながらに知っているからだ。

 この何度もを積み重ねることでしか、人間は一歩を踏み出すことが出来ないことを。

 何か大切なもんの為には、それだけの努力をしなくてはいけないことを。

 だから私は、どうしようもなく弱い自分を奮い立たせる。

 だって私には、それだけの憧憬ゆめがあるから。


「はぁはぁ…………ふんしょっ! ふんしょっ!」


 チラリと時計を横目でみる。

 あともう少し、そろそろ祖父が来る頃合だ。

 今日は何を教えてくれるのだろうか?

 もしかしたら私の剣を受けてくれるかもしれない。

 そう思うだけで、胸が浮き踊るように高まる。

 あともう少し、あともう少しで褒めて貰える。

 そんな邪な気持ちはこころの奥底にしまって、何事もないような無の表情で祖父を待つ。

 すると、道場の扉が開く音が聞こえた。


「おやおや? 道場から可愛くて凄みのある声が聞こえて来ると思ったら、俺の可愛い陽依だったのか!」


「おはよう、おじいちゃん!」


 つい先程まで振っていた竹刀を小さな身体の私は両手で抱えて、練習着の祖父へと駆け寄った。


「おう、おはよう。今日も朝練頑張ってて偉いぞー! 流石は俺の孫だ!」


 剣を持ったときの威厳のある表情と違い、蕩けきった表情を見せる祖父は私の頭を優しく撫でる。

 それがくすぐったくて笑うと、にへらと微笑んだ祖父が手に持っていた手拭いで、私の顔の汗を拭いてくれた。


「こんなに汗かいて……。陽依よ、一体そいつぁ何回振ってたんだ?」


「それはねっ!それはねっ! わたしね、十を六回もやったんだよ! 凄い?凄いでしょ!?」


 褒めて貰えることを期待した私の声色は高く、内心と連動するかのように身体がぴょんぴょんと跳ねた。

 しかし、当の祖父は何故か固まっており、かと思えば痙攣しだしたりなど、何処か様子がおかしい。

 私が不思議に眺めていると、突然、祖父がガハハと大きな声で笑いだし、私を抱き抱えては頬を擦り合わせた。


「かーっ! 俺の孫は天才だ天才だと思っていたが、まさか大天才だったとはな! いや……むしろ陽依は世界で一番可愛いから、大天才じゃなくて大天使様だ!」


「きゃぁ~っ! えへへ。おじいちゃん、お髭ジョリジョリして痛いよぉ~」


「おっと……わりぃわりぃ。つい、な?」


 祖父は抱き抱えていた私を下ろすと、コホンと一回ためを入れて、私の目の前で正座した。

 姿勢を正し、礼儀をもって接する相手への気遣い。

 その凄みや奥深さというのが滲み出ている。

 このとき私の内心は感心でいっぱいで、それがキラキラと輝く目にも現れているのだが、それはそれ。

 相手の敬意には此方も敬意を評するのが礼儀だ。

 だから私は幼いながらにも、互いのこころに呼応するようにして、ビシッと姿勢を正して正座した。

 そして、祖父が正座をするときは、何時も決まって難しい話をするときである。

 そこのところの気の持ち方も準備万端だ。


「なぁ、陽依よ──」


 きた。

 私は集中して、真剣な姿勢で話を聞く。


「お前はどんな人間になりたい?」


「……どんな、人間?」


 突拍子も無い質問に頭が困惑する。


「そうだ。陽依、お前は何を成す人間になりたい?どんな大人になりたい?」


 聞いている言葉が、難しくて理解できない。

 何を成す?どんな大人になりたい?

 そんなの、──私には分からない。


「ん~~~…………難しくて分からないよ……」


「………………」


 分からないと答えた私に、祖父は何も言わない。

 ただ、次に紡がれるであろう言葉を待っている。


「でも…………うんっ! わたし、格好良くて誰からも好かれるような、おじいちゃんみたいな人になりたい!」


 これは紛れもない本心。

 祖父はあらゆる剣術大会の優勝トロフィーを総ナメする実力を持ち、その上で、誰からも好かれるような明るくて人の良い人格をしているのだ。

 それら二つの条件が重なれば、いくら幼い私といえど尊敬するに難くなく、──何より祖父が振るう剣は美しい。

 初めて見たときの光景と、その高ぶってやまない感情を今でも鮮明に覚えている程だ。


「そうか…………なら、頑張らないといけねーな? それはもう凄く凄く頑張らねーといけねー。だってよ、陽依がなりたいって言った俺は、俺が六十数年の間で、滅茶苦茶努力して積み重ねた結果だからよ?」


「うん、分かった! わたし、凄く頑張る! いっぱいご飯食べて、いっぱい寝て、いっぱい練習する!」


「迷わず言うのか。このこの〜!」


「きゃっ!」


 心底嬉しそうな笑みを浮かべ、祖父が私の身体を急に抱き抱えた。

 突然のことに驚いた私の悲鳴は何処へやら。

 祖父はアドバイスだといって、私の小さな胸に人差し指を指す。


「良いか、陽依。これはアドバイスだ。何も全部が全部俺みたくならなくて良い。俺なんて、古くせぇ技を継ぐためだけに人生捧げたようなもんだ。今となっちゃ孫にも恵まれて幸せだがよ、どうにも陽依には合わねぇ。だから陽依は陽依の、なりたい未来の自分の為に苦しみながら努力して、何か絶対に譲れない大切なもんの為に生きろ」


 祖父はそう云うと、私の身体を道場の床に下ろす。

 そして、その代わりにとばかりに竹刀を持った。


「ま、陽依がこの技を継ぎたいって言うんなら、それはしょうがねぇ。お前の未来を少しだけ照らして、分かり易くしてやるのも大人の仕事だ」


 持った竹刀の剣先を肩に載せると、祖父は私の顔を見てにへらと笑う。


「そんじゃあ見せてやるよ。江戸の黒く深い死の淵、誰にも知られてならねー暗部で活躍してきた、必勝必殺の剣──『大和御神流やまとみかみりゅう』のその奥義を!」


「やった───!!」


 このときの私は、何の躊躇いも淀みもない、純粋で眩い笑顔を浮かべていたことだろう。


 だってこのときはまだ・・・。

 敬愛する■■は元気に■■■て──そして、私は自分の手で■を■■ことが出来たのだから……。



◆◆◆



 その人形の様に可愛い顔が嫉ましい。三年間頑張って練習してきた私達凡人を踏み潰すその才能が妬ましい。カッコよくて人気者な先輩に好かれているお前が恨めしい。全員から陰口を言われてるのに言い返さないお前の性格が腹立たしい。雲の上の優等生なアンタが憎たらしい。


 ねぇ、ここに何をしに来たの?

 凡庸な私達を足蹴りに、色目使いに来たの?

 誰もお前を望んでないんだけど。

 邪魔だからさっさと消えて?

 いや・・・死ねばいいのに。


『ねぇねぇ。アイツうぜいから突き落とさね?』


『イイネそれ。ガチ賛成だわ』


『じゃあどうせなら、大会の前日にやろーぜ?』


『うわ、悪魔かよ引くわァ……気に入った』


『どうせここじゃ、みんな嫌いだからね。のこと』


・・・


 ──ドンッ。


「……………………えっ?」


 階段から突き落とされた。

 それは仲間だと思ってた同じ部活の人達だった。

 過ぎ行く時間がゆっくりに見える。


 ──何故?どうして?

 そんな言葉が脳裏を過ぎる。

 その間にも死が徐々に近づいて来た。


 死にたくない。まだ死にたくない。

 私は必死に考えた。助かる方法を。


 そうだ、受け身をとらなきゃ。

 どうにか受け身をとらなきゃ……死んじゃう。


 流れ行く時間が元に戻る。


「っ、ぁ"あ"あ"あ"─────!!!!!」


 痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。


 どうにか左腕で受け身を取ることが出来たが、完璧じゃなかった所為か肩は外れ、腕の骨が複雑に折れている。

 それの何と惨たらしいことか。

 痛みに耐えるなど到底出来るはずも無く、もう片方の腕で押さえ込んで蹲るしかない。


「ハァッハァッハァッ、ハァッ、ハァッ──」


 とめどなく酸素を体内に入れようと過呼吸になる。

 押し寄せる痛みと不安で生きた心地がしない。


 私が、私が何をしたというのだ。

 こんな仕打ちをされる理由が無いではないか。

 だって……入学してからの数ヶ月間とはいえ、私達は同じ大会を目指して共に精進した仲間だろう?


 肺が熱くてはち切れそうだ。

 溢れ出る涙と朦朧とする意識で視界がぼやけて見える。

 私はこのとき信じられず、自分を突き落としたであろう人達の方へと、顔の角度を変えて視界を上げる。


 これはきっと何かの間違いなのだ。

 押してるように腕が伸びていたけれど、きっとこれはわざとじゃなくて、何かの事故に違いないのだ。

 だからきっと、今にもみんなが助けに来てくれるのだ。

 きっとそうに違いない。

 でなければ私は、私という存在に自信が持てなくなる。

 だって憧憬するおじいちゃんならきっと、こんな風にされることはないのだから……。


 だから私は願った。

 いや……それは願いというには些か歪。

 ならばこれはきっと、呪いなのだろう。


 きっと。きっと。きっと。きっと。きっと。きっと。きっと。きっと。きっと。きっと。きっと。きっと──。


「─────」


 彼女達は私を見下して笑っていた。

 ただただ、楽しそうに嗤っていた。

 到底同じ人間のものとは思えない、悪魔の様な笑みを浮かべながら、スマホで私のことを写真に撮っていた。


『何でコイツまだ生きてんだよ、ゴキブリか?』


『知らねーしどうでもいいわ』


『ま、それもそっか。笑ってストレス発散出来たし、写真も撮り終えたし、先公来そうだからずらかろうぜ』


『あいよー! あ、そうそう。チクったら殺すぞ☆』


『うひょ。こえーWWW』


 彼女達は私への見知らぬ恨み言を吐き捨てると、そそくさと立ち去って行った。


 きっと、なんてものは存在し得なかった。

 そんなもの気づいていたし、知っていた。

 ただ気づかないふりをしようとしていた。


 諸行は無常だった。

 私はもう、──何も信じられない。


「ああ……あぁ…………うわあ"ぁ"ぁ"ぁ"──!!!」


 この後、悲鳴を聞いて駆けつけくれた先生が救急車を呼んでくれて、そして病院に入院した。

 病院の検査で判明したことが二つあった。

 一つは左腕が複雑骨折していること。

 もう一つは、──剣をもう二度と、握れなくなっていることだった。


・・・


 あれから少し経ったある日。

 自分の手で剣を振れなくなった私が、自分の未来に絶望して腐っていたときのこと。

 私はどうしようもない現実を知った。

 それは幼い頃から敬愛し憧憬してやまない、私にとっての生きる道標であり希望。

 そしてつい数週間前には、何も言わずにただ頭を撫でて優しく寄り添ってくれた存在の──、


「おじいちゃんが、死んだ?」


 喪失だった──。


 これは私が十五歳。

 高校一年生のときのことだった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?