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2.どこか、違うところへ

 なんとか1時間の残業を終えて自宅に帰ってきたかよは、化粧を落とし、冷凍庫から作り置きをしていたおかずをとり出す。

(今日はグラタンにしよう)

 電子レンジで温めるとき、アルミだと火花が散る恐れがあるが、作ったときに紙製のパウンドケーキの型に入れているので問題ない。かよは、冷凍しておいたグラタンを温める。

(一緒にノンカフェインのコーヒーでも飲もうかな……。なんか疲れちゃった)

 電子ケトルでお湯を沸かし、ノンカフェインのコーヒーを淹れる準備をする。入居時なにもなかったキッチンはいつの間にか、コーヒーや紅茶を淹れる道具でいっぱいだ。豆も茶葉も選び放題で、かよはその日の気分ごとに飲んでいる。

 そのとき、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震える音がした。また母だった。かよは重い溜息を吐き、着信に出た。

「もしもし」

『もしもし、お母さんよ。今、大丈夫?』

「……うん、大丈夫だよ」

 かよが返事をすると、母はまるでマシンガンのように、愚痴を言い始めた。今日は職場のことのようだ。母はスーパーの青果部門で働いている。

『まったく、リーダーったら情けないんだったら。あんなのだから、若い子に言いくるめられるのよ。普通はね、そういうときは勤務歴の長い人間の言うことを聞くものよ』

 母はよく【常識では】や【普通は】という言葉を口にする。しかし常識も普通も、環境や場所、世代によって違うものだと、かよは思う。しかしそれを母に言ったところで、母は「いや、そうなんだろうけれど、限度があるわよ」とさらに愚痴をこぼすだろう。母の言葉にはすべて首を縦に振っておくほうが、平和なのだ。

 母の愚痴は続く。

『あんなに気が強かったら、近づく男もいないわね。まあ、若いからどうにかなるんでしょうけれど、年とったらだめよ』

「お母さん、さすがにそれは言い過ぎだよ」

 しまった。疲れのせいで判断力が鈍っていたのか、かよは母の言葉を否定してしまった。すると母の、言葉という川の勢いが強くなった。

『そうかもしれないけど、やっぱり人間は愛嬌よ。かわいがってもらったら、得することもあるんだから。素直な心が1番よ』

 母の持論は続く。かよは心を削られるような感覚になりながら、母の話を聞いた。

 母の愚痴と持論は今日も30分以上話された。グラタンもノンカフェインのコーヒーも冷たくなっていて、なんとなく食べる気になれなかった。


 直近の母の愚痴から1週間。今日の昼休みも折り返しだ。食後に紅茶が飲みたくなり、給湯室に向かう。家では茶葉から淹れるが、会社では個包装のティーパックを使う。

 給湯室に入ろうとしたとき、中から声が聞こえた。どうやら鈴尾と別の女性同僚のようだ。

「てか鈴ちゃんさあ、このあいだの飲み会どうだったの? 品川さんに仕事押しつけて行ったやつ」

「ああ、あれねえ。大学の同期同士のだから、楽しいのは楽しかったよお。てか、品川さん、まじで便利すぎるう」

 自分の名前が出て、どきりとする。かよは給湯室の入口の壁に隠れた。

「鈴ちゃん、ほんと要領いいよねー。アタシも品川さん、使ってみようかなー」

「品川さん、いいよお。それとなく匂わせておいたら、勝手に想像して仕事引き受けてくれるからさあ」

「あー、それ超便利だねー。どんなこと匂わせたらいいかなー」

「婚活とかいいよお」

 かよはそっと給湯室から去った。自分の席に戻る気にもなれなくて、喫煙所の前にある自動販売機に向かった。喫煙所からはにぎやかな話し声が聞こえる。

 このあいだの定時前の仕事は、大学時代の友人との飲み会に行くためであって、婚活の相手に会うためではなかった。たしかに、かよは鈴尾に事実の確認をしなかった。勝手に想像しただけだ。けれど。

 かよは深呼吸を3回してから、自分の席に戻って早めに仕事を始めた。

 その後、かよはなにも考えないようにしながら、仕事を終わらせた。電車の中で、すし詰めにされながら、鈴尾の言葉が頭の中でくり返し再生される。便利、便利、便利。

(私……なにやってんだろ。その人のためになるって、思ってたのに)

 帰宅したかよはそのまま、ベッドに倒れこんだ。マットレスに体と心が沈んでいく。

 どれくらい横になっていただろうか。カバンの中から振動音が聞こえた。なんとか体を起こし、中からスマートフォンをとり出すと母からの着信だった。

(正直、今は出たくないけど……出なかったら出なかったで、面倒だしな)

 かよは着信に出た。

「もしもし……」

『あら、かよ。お母さん。今、大丈夫?』

「……ごめん、お母さん。私、もうお母さんの愚痴、しんどいや」

『ちょっと、なに言ってるのよ。それに今日はプチ不満で、愚痴ってほどじゃないわよ。それにかよに言えないなら、お母さんは誰に愚痴を言えばいいのよ。それでね、お父さんったら、またね……』

 かよは今まで、母がつらいだろうと思い、愚痴を聞いてきた。けれど、母はかよがつらいときに、身を引いてくれない。つらいときに、なにもしてくれない。自分のことしか考えていない。

(ああ、母さんにとって私は、都合のいい道具なんだ。ううん、母さんにだけじゃない。会社でもそう)

 ああ、自分を自分として見てくれる人は、いないのだ。気がつくと、かよはスマートフォンの通話を切っていた。目からは涙があふれる。

「どうして。私は……どこに行けば、私でいられるの? どこか……私が私としていられる場所に行きたい。私の好意が、好意として受けとってもらえるところに行きたい」

 かよが呟いた、そのときだった。足元から強い緑色の光が現れ、光の中に沈んでいく。ここはマンションの2階。

「え? え?」

 緑色の光に引き込まれていく。結果、かよは光の中に落ちていった。


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