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第26話:マナ汚染

 目覚ましの音で目を覚ます。


 朝六時。これは会社勤めをしていた頃からの習慣だった。


 隣で寝ているアーシャに目をやる。あられもない姿が目に毒だ。


 彼女は目覚ましの音に一つ身動みじろぎしただけで起きる様子はなかった。


 ちなみに言ってくが『昨晩はお楽しみでしたね』といった展開は一度たりともない。


 そういう展開を望まないわけではないが、相手は仮にも女神様だのだ。下手に手を出そうものならどんな罰を受けるか知れたものじゃない。


「やれやれ」


 とりあえず風邪をひかないように毛布を肩まで掛け直してやる。


 それから軽くシャワーを浴び、ランニングウェアに着替えて準備をする。


 アーシャには毎朝この時間はランニングだと言ってあるので急に居なくなっても驚きはしないはず。というかランニングから戻っても寝ていることが殆どなので、そんな心配いらないのだけれど。


「今日も冷えるな」


 しかしそれがかえって眠気覚ましになって好都合だった。


 走るコースはいつも同じだ。道行く同じランニング仲間に声を掛けられたり掛けたりしながら一定のペースで走る。


 普段パソコンの前に座ってばかりで運動不足なのを気にして初めた早朝ランニングだったが、これはこれで結構おもしろいものだと思えるようになっていた。


「ただいま」


「…………」


 ランニングを終えて帰宅すると、やっぱりアーシャはまだ眠っていた。


 別段起こしたりはせず、そのまま再びシャワーを浴びに行く。二度手間と思われるかも知れないが、これが僕の日課だった。


 さて、今日は何曜日だっかな? 部屋着に着替えながら考える。仕事を辞めてからというもの、曜日感覚が無くなってきていた。


「今日は木曜日か」


 曜日を確認するのはアーシャ用の朝食のを日替わりにしているからだ。自分は鮭の塩焼きに味噌汁があればそれでいいが、アーシャは違う。彼女は朝食には必ずパンを希望する。なので毎度パンによく合うおかずを用意しなくちゃならない。


 今日は木曜日。フレンチトーストの日だった。


 卵、牛乳、砂糖、バニラエッセンスをボウルに入れて混ぜ、卵液を作る。アーシャは甘党なので砂糖は多めだ。


 食パンは耳を切り落として半分に。お皿に入れた卵液に食パンを浸す。


 そして電子レンジで片面ずつ温める。こうすると食パンが卵液を十分に吸い取ってくれる。


 バターを溶かしたフライパンにパンを入れ、極弱火で蓋をして五分ほど蒸し焼きにする。いい感じに焼きめが入れば完成だ。


 甘く香ばしい香りが辺りに立ち込める。


「今日はフレンチトーストの日かや!」


 瞬間移動もかくやという速度で、飛び起きたアーシャがテーブルに着く。


「おはようアーシャ」苦笑交じりに挨拶する。


「おはようじゃ。それより早うそれをよこせっ」


「先に顔くらい洗ってきなよ」


「その間に冷めてしまうかもしれんっ」


「顔洗うくらいじゃ冷めないから。むしろ味が馴染んでいい感じになって――」行ってしまった。


 まったく食い意地の張った女神様である。


「うま〜い!」という声を背後に聞きながら、自分の朝食を用意する。


 鮭の切身を焼くときは、両面を中火で焼いた後、大さじの酒を振り、蓋をして一分間蒸し焼きにするとふっくらと仕上がる。


 味噌汁はフリーズドライのものを利用する。


 ご飯をよそってテーブルに並べる。うん。美味そうだ。


 そうして食後の珈琲を飲みながら、ふと疑問に思っていたことを訪ねてみた。


「そういえば『マナ汚染』って具体的にどういったものなの?」


「『マナ汚染』かや……。そうじゃのう……あっ、あれじゃっ」人差し指をピンと上に伸ばす。「核汚染と同じじゃな。ゲームとやらでもあったじゃろ? 汚染で既存の動物がミュータント化するやつが。あれと基本は同じじゃな」


「ああ。あんな感じか……」ん、てことは。「もしかして人間とかもマナ汚染で変異したりするのかい?」


「そうじゃのぅ……」どこか悲しそうな顔をしながら、「昔は汚染度合いの酷い地域で〝亜人〟がよく出没しておったよ」


「『亜人』?」


「そうじゃ。元人間の成れの果て」珈琲を一口含み「ゾンビと違って理性が残っている分、色んな意味でタチが悪い存在じゃったよ」


 色んな意味か……。内心で思う。それはつまり人殺しを行うことと同義だからなのだろう。


「そうじゃな。丁度よいから、今回は『亜人騒動』について話すとしようかの」



※ ※



「もともとあの世界は、こちらの世界同様にマナが一定に安定した世界じゃった」


「えっ。『こちらの世界』ってこっちにもマナあるの?」


「かなり薄いがのう」珈琲のおかわりを無言で催促しながら、「間違いなくこちらの世界にもマナはある。それを感じられるのが俗にいう『霊能力者』とかいう者たちなのじゃろう」


「それじゃ僕もアーシャに特訓してもらえば魔法が使えるってことっ?」


 もしそうならすごい話だ。思わず前のめりになる僕にしかし、アーシャは首を横に振るとこう言った。


「それは無理じゃな。魔法はそう一朝一夕に使えるものではありんせん。精々幽霊が視えるようになるくらいじゃろうよ」


「そっかぁ……それは残念だ」本当に残念だ。


「それにさっきも言った通りこの世界のマナは薄い。仮に使えたとしてもマッチ程度の火も出せんじゃろうな」


「う〜んそれじゃなぁ……。ま、使えたところでこの世界じゃ使い道がないか」


 使えることがバレたら世界中で大騒ぎになりそうだし。目立つのは嫌だ。


「それでは話を戻すとしようかの」そう前置きすると再び語りだした。


「130年前。魔王アムシャ率いる魔王軍が魔塔を築いて天界へ進撃を開始した折に、わっちと魔王アムシャが対峙した話は以前話した通りじゃ。三日三晩続いた戦いの余波は、魔力マナの均衡を崩し、世界のすべての領域を汚染した」


 そこで辛そうな表情を浮かべると一旦口を噤む。そして珈琲を一口含むとおもむろに再開した。


 始まりは野生動物の異常行動だったらしい。鹿や、猪が街を取り囲む防壁に頭から突っ込んで自死しだしたのだ。


「そこだけ聞くと何かの病気みたいだよね」


「この医療技術の発展した世界に住む者にはそう映るのかもしれんがのう、あちらの世界の民は『これは呪いだ』『神々の怒りだ』と狼狽え誰も彼もが天に祈っておったよ」


 そこで自嘲気味に笑う。「そこにはもはや誰もおりんせんのに」


「…………えと、」


 失った兄弟姉妹、それに両親のことを想っているのだろうか。こういう時なんと声をかければ良いのか分からず、僕は言葉に詰まった。


「そんな顔をせんでおくれ。別に感傷に浸っているわけではありんせん」


 そう言う彼女の表情は、やはりどこか悲しげであった。


「話を続けようかのう」


 それまでの感情を珈琲とともに飲み干し話を続ける。


 動物の異常行動は森だけに留まらず、鳥や、海の生物にも見られるようになる。そして森で魔物化した動物に襲われる者が続出する事態になると、魔法が使えなくなったことと相まって、民達は恐れ慄き、しまいには生贄を捧げるようにもなったという。


「そうやってどれだけの乙女たちが森に、山に、海に捧げられたことか。わっちは人間が好きじゃが、他人の命を捧げてでも生き残りたいと願うその生への執着には、いささか納得がいかぬ」


「そういう負の慣習に縛られるのって、世界が変わっても同じなんだね」


 自分ならどうするのだろう。そう自問してみる。誰かの命を犠牲にする? それともともに助かる道を探す? どちらも有り得そうで、どちらも無さそうに思えた。正直そのときなってみないと分からない。


「少し話疲れたのう」首をコキコキ鳴らしながら、「続きはもう一眠りしてからじゃ」


 そう言うや僕の返事も待たずにベッドへ戻ってしまった。


 そうして再びアーシャが起きてきたのは、昼食の匂いに誘われてのことだった。


「この豚骨ラーメンとやらも美味いのうっ」


 急に食べたくなって棒ラーメンを湯がいたのだが、かなり気に入ってくれたようだ。小麦粉繋がりで口に合うのかも知れない。


「おかわ――いや、替玉じゃ」


「替玉って。いや、合ってるけどさ」


 苦笑を浮かべつつ次の麺を湯がく。


「ふ〜食ったくったぁ」


 結局この後もう一回替玉をし、つごう三杯の豚骨ラーメンを完食したアーシャは、満足そうに胃の辺りを擦っていた。


「そういえば亜人についての話が途中じゃったのう」


「確か『汚染度合いの酷い場所で出没する』だったっけ?」


「そうじゃ。今でこそそこまで酷い地域はそれほど存在せぬが、まだ余波の影響が色濃かった時代――特に現在の魔族領に近い場所ほどその発生率が顕著じゃった」


「何でその地域の人達は逃げなかったんだい?」


「逃げるも何も、自分たちが住んでいる場所が危険地帯であることさえ気が付いておらなんだのじゃからな」


「それってどういうこと?」


「考えてもみてみい。〝放射能〟が目に見えるかや?」


「あっ――」


「それと同じようなものでな。魔法が使えなくなったと同時に、民達はマナを感じることさえ出来なくなってしもうたんじゃ」


「だから自分たちが住んでいる場所が極度のマナ汚染を受けていることに気が付けなかったんだ」


「そういうことじゃ。マナ汚染はまず精神を蝕み、次いで体を変異させる。さっきまで笑っていた者が、突然血走った目で襲いかかってくるんじゃ」


「それは怖いね……」


「本当に恐ろしいのはここからじゃ。皮膚が段々とただれ始め、その後様々な変化が体に生じる。例えば牙が生え、手足の爪が鋭く長くなったり、手足が増えたり、中には皮膚が頭頂部からバナナの皮のように剥け始め、体の中から触手が生えた者もおった」


「どこの物体Xだよ」


 怖すぎる。


「しかもそれらが口々に『殺してくれ。殺してくれ』と泣きながら他の住民を殺して回るのじゃから。そのれはもう地獄の蓋を開けたような状態じゃったよ」


「…………」


 思わず想像してしまい、恐怖にぶるりと体を震わせる。


「まだ冒険者ギルドなど存在しない時代じゃからな。自分の身は自分で守らねばならない。とはいえそれまで魔法に頼りきりだった者たちばかりで、剣もろくに握ったことが無い彼らに戦うすべは無いにも等しかった。人間の変異体――これを後に『亜人』と呼ぶようなるんじゃが、それらから文字通り逃げるように他の地へ移れた者は、ほんの一握りしかおらんかった」


「その後亜人達はどうなったんだろう」


「その殆どは今日こんにちの冒険者ギルドのはしりとなる『自警団組合』の者たちに狩られたが、どこぞに逃げ隠れたものもおったようじゃ」


「それじゃぁ今もまだどこかに?」


「それはどうじゃろうな。寿命が人間のそれと変わらぬなら、とうに死んでおるじゃろうが。もしそうでなかったとしたら、今もどこかで息を潜めているやも知れぬな」


 食後に出されたお茶を飲み干し、最後に締めくくるようにこう呟いた。


「わっちが封印さえされなければ、こんなことには……」


 それはあまりにも悔しげで、自責の念がありありと分かる呟きだった。



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