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第34話:小鳥遊智子①

「あ、来たきた。遅いぞー。小鳥遊っ」


「ごめーん孝宏っ」


「ほら、智子せいで遅れちゃったじゃないっ。ごめんね孝宏くん」


「美波が謝ることじゃないよ」小鳥遊の頭を軽く小突きながら、「どうせこいつが寝坊したんだろ」


「いや〜、今日が楽しみ過ぎて寝付けなかったんだよね」


「子供かっ」


 孝宏が小鳥遊に手の甲でツッコミを入れる。


 孝宏と小鳥遊は幼馴染なこともあってか妙に距離感が近い。端から見ているとまるでカップルのようですらある。もっとも当人たちは否定しているが。


「……」


 その光景に、ギュッと握り拳を作る美波。


「ん? とうかしたの美波」


 その気配に気が付いたのか否か。小首を傾げながら問いかける。


 握っていた拳をパッと解き明るく返す美波。「別になんでもないよ」


「そう? ならいいけど」


「美波はお前と違って繊細だからな。緊張してるんだろ」


「ガサツで悪かったなっ」と孝宏へヘッドロックを決める。


 三人は同じ大学の山岳部の部員で、今回は釈迦ヶ岳に挑む予定になっていた。


 釈迦ヶ岳は、福岡・大分県境に位置する山で、福岡県では最も高い標高を誇る。第二の高峰・御前岳とも稜線で繋がっている。


 釈迦ヶ岳には三つのピークがあり、最高点である標高1231mの普賢岳は大分県側にあるが、一般に釈迦ヶ岳と呼んでいるピークである本釈迦――標高1229mは県境上にある。


 孝宏と小鳥遊は何度か登っているが、美波は今回が初めての挑戦であるため、そのちょっとした変化を緊張していると捉えたのだろう。


 先に山道の入口で待機していた他の部員と合流し、本釈迦を目指す。


 そしてそれは尾根伝いに山道を進んでいた時のことだった。


「ねぇ、智子。訊きたいことがあるんだけど」


「ん、なんだい?」


「…………」


 逡巡するように押し黙る美波。


「訊き難いこと?」


「……うん」


「それって孝宏のことじゃない?」先導するように前方を歩く後ろ姿を見ながら問う。


「――っ」何故それをという表情を浮かべる。「やっぱり分かるんだ……」


「そりゃ親友のことだからね。見てれば分かるよ」


「……孝宏くんのこと、本当はどう思ってるの?」


「う〜ん。いい奴だとは思うけどねぇ。友達以上にはなれないかな」


「そう……なんだ」


「うん。だからあたしに構わず――」


――ドンッ


「――え?」


 あまりにも突然で、何が起きたのか分からなかった。


「そんなんじゃ誰も幸せになれないじゃない」


 そう口にした怖いくらいの無表情がどんどん遠のいていく。それが切り立った崖に突き落とされたせいだと頭が理解するのに時間が掛かった。


 だってそうだろう。何故、美波があたしを……?


 その思いは口をついて出ることはなく、それどころか悲鳴さえ上げることもないまま、彼女――小鳥遊智子は重力に引かれるまま死へと近づいていったのだった。



※ ※



 ハッとなって目を覚ますと、そこはテントの中だった。


 テントと言っても近代的な形のものではなく円錐形の構造で、一端を束ねた木の棒を広げて地面に建てて支柱とし、その周囲に何か動物のなめし革を被せ十数本の木の杭で前面を留めたものであった。


「まるでティーピーみたい……」


 ティーピーとはアメリカ合衆国北部中西部に先住するインディアン部族であるスー族を始め、カナダ南部、北米平原部、北西部の、移動しながら狩りを行う文化を持つ部族の野営用の住居のことである。なるほどそう言われれば確かに、構造などが酷似していた。


 しかし、こんなマニアックなテントを使う部員がいただろうか? 孝宏あたりなら面白がって使いそうな気はするが……


「そうだっ。美波――っ」


 孝宏の馬鹿面と一緒に思い出した親友の顔に、跳ね起きようとして全身に走った呼吸が止まりそうなほどの鋭い痛みに悶絶する。


 歯を食いしばって痛みが落ち着くまで我慢する。ようやく落ち着いた頃には、全身に脂汗をかき、呼吸も荒くなっていた。


 辛うじて動く左腕で、体に掛けられた粗末なシーツを捲って納得する。全身隈なく包帯が巻かれていた。恐らくだが、右腕と、両足、あと肋骨も何本か折れているだろう。


 しかしよく助かったものだ。あの高さなら即死していてもおかしくなかったはず。


「美波……どうして……」ぽつり呟く。


 そう、それはつまり親友に殺されかけたということ他ならず、怒りよりも先にどうしようもないほどの悲しみが湧いてきて目尻から幾筋もの涙が零れ落ちていった。


 ガサゴソと音がする。どうやらいつの間にか眠ってしまったらしい。物音に気が付き瞼を開けると、見覚えのない女性が包帯を交換しているところだった。


「あなたは、誰?」


「――っ」


 その女性は小鳥遊が眠っていると思い込んでいたのだろう。突然話しかけられた途端肩を跳ねさせ、なんとその場でひれ伏してしまった。


 何がどうなっているのか分からないまま困惑していると、そこへ壮年の男が一人やって来た。見知らぬ人物が増えたことで困惑の度合いを深めたていると、その男は片膝をつき野太い声で話しかけてきた。


「女神様。お加減はいががでございましょうか」


『女神様』? 一体この男は何を言っているのだろう。男のこちら見る目は真っ直ぐで、とても冗談を言っているようには見えない。女は未だひれ伏したままだし、本当に何がどうなているのか分からなかった。


「あの、あたしは女神ではないですし、そもそもあなた方は誰なんですが?」


 すると男は少し驚いたような表情を浮かべると、「まだ記憶が安定されていなようですね。無理もありません。即死していないのが不思議なくらいの怪我でしたからな」


「記憶……? あたしを助けてくれたのはあなた方なんですか?」


「正確には女神アーシャ様ですが」男はひれ伏したままの女へ顔を向ける。「いつまでもひれ伏していないで、早く包帯を交換してさしあげないか」


「は、はいっ」


 女は弾かれたように顔を上げると、慌てた様子で包帯の交換を再開し始めた。


「女神アーシャ……神様があたしを助けてくれたとでも言うつもりですか?」


 この男は本当に何を言っているのだろう。さっきはあたしのことを女神様と呼んでいたし、何か怪しい宗教団体なんじゃないだろうか……助けてくれたことはありがたいが、気をつけた方がいいかもしれない。


 そんな思いが顔に出ていたのだろう、


「今はお疑いでしょう。ですがじきに解るときがきますよ」


 そう言うと男は踵を返そうとする。


「待って。ここはどこなの? 友人に連絡をとりたいのだけど」


「それは無理でしょうな」


「えっ、ちょ、ちょっとっ」


 なおも呼び止める声に、しかし男は包帯の交換を終えた女性とともにテントを出ていってしまった。


 あとに一人残される小鳥遊。


『それは無理でしょうな』


 先程の男の言葉が脳裏に蘇る。無理ってどういうこと? じきに分かる? 一体どういうことなのだろう。色々な考えが浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。理解が全く追いつかない。


 とはいえどのみち今は動けないのだからしばらく様子を見るしかないかと考えるのを止める。


 そうしている内に再び睡魔に襲われ、いつしか寝息を立て始めたのだった。


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