半狂乱になって妹の名を呼ぶ。誰でもいい、誰か、誰か助けてくれ!
――もしヴェンの毒に侵された時はそれを唱えるのだ。
その時不意に脳裏に蘇る言葉。それはシーリス城の地下迷宮で亜人のオルランドが発した言葉だった。
「そうだっ、あの時の魔術。えーと確か……」
脳内にこれまでに集めたシンボルを思い浮かべる。そして妹を助けたい一心で全身全霊を込めて唱えた。
「〝
唱え終わるとほぼ同時に橙色の雫が一雫、中空に現れマルティナの胸元に波紋を作る。すると暗緑色に染まった部分が薄っすらと輝き、ベッキーが息を呑んで見守る中パリパリと剥がれ落ちては光の粒子となって消えていく。肌に血色が戻る頃には、すべての暗緑色が剥がれ落ちていた。
「……マルティナ?」
恐る恐る呼びかける。
「…………姉ちゃん? え? 何で泣いてるの? ハッ、アイツかっ! アイツが何かしたんだねって……あれ? アイツは?」
上半身を起こして胡座をかき、あっれ〜と辺りを見渡す。
マルティナだ。このバカさ加減はいつものマルティナだ。マルティナが生きてる!
「ねぇ、アイツはど――」
「この大馬鹿やろう!」
言葉とは裏腹に満面の笑みを浮かべ、マルティナの首に抱きつく。
「ね、姉ちゃんっ?」
いきなり抱きしめられ目を白黒させる。それでもその両腕は、しっかりと姉の背中に回されていた。
「あんな無茶しやがってっ。もう少しで死ぬとこだったんだぞっ?」
「あれは、姉ちゃんが危ないって思ったら体が勝手に動いてたんだよぉ。それに、」なおも何か言い募ろうとする姉の唇に人差し指を当てニッと微笑む。「立場が逆だったら姉ちゃんも同じことしたでしょうぉ?」
「……グッ」
マルティナにしては珍しく的を射た台詞に、思わず言葉に詰まる。確かに立場が逆だったら、ベッキーも同じことをしていただろう。それを考えると、もう何も言えなくなった。
ベッキーは小さくため息を吐くと「ま、何はともあれお疲れさん相棒」と拳を握る。そこに自分も拳を作り、「お疲れさんだよ相棒ぉ」とコツンと拳同士を合わせる。
そして立ち上がると、床に転がった〝
「アタシはこれ貰って帰ろうっとぉ」
クラウディオが使っていた血剣とは違い、塵となって霧散しなかった黒剣を拾い上げる。この武器なら、今後の戦闘でも大いに役に立ってくれることだろう。
と二人がそれぞれ戦利品を手にしたその時。
「何だっ? 部屋が揺れてる?」
「ヤバイよ姉ちゃん。なんかあちこち崩れ始めてるっ」
恐らく迷宮の主であるクラウディオが消滅したことで、迷宮が存在を維持できなくなったのだろう。急激な崩壊が始まっていた。
「とにかく逃げるぞっ」
「うひょうぉっ」
頭上に気をつけ大部屋を離れようと駆け出す。大小様々な大理石が降り注ぎ、危険なことこの上ない。大きな欠片に当たりでもすれば怪我ではすまないだろう。
しかし幾ばくも進まぬ内に二人の足が止まってしまう。一際大きな揺れが起こり、この大部屋へ続く小部屋――シフティング・ルームへの通路が大規模な落盤によって塞がれてしまったのだ。
「どうしよう、姉ちゃんっ?」
「クソッ、他に脱出口がないか探してみるっ」
落ちてくる石片を右に左に避けながら、石棺が並んでいた部屋に駆け戻る。ひょっとしたら石棺内に何か仕掛けがあるかもしれないと考えたのだ。
「駄目だ、どこにも――おわっ」石棺を押し潰すほどの落石に慌てて飛び退く。
「姉ちゃん、これ不味くない……」
「ああ、さすがにヤバいなこれは……」
このままでは遠からず二人とも押し潰されるか、良くて生き埋めになってしまうだろう。かといってここから脱出する方法がない上に、落盤から身を隠せそうな場所もない。
はっきり言って万事休す。絶体絶命の大ピンチだった。
――やれやれ、これでは先が思いやられるな。
その時、いきなり頭の中に直接語りかけてくる声があった。これはっと弾かれたように顔を見合わせたその刹那、激しい目眩にも似た感覚が二人を襲う。
そして気が付くと、ベッドの上で横になっていた。隣のベッドを見れば、マルティナも同じく横になってスヤスヤと眠りについている。
まさか夢だったのか? そんな焦りからすぐさまポーチの中身を確認する。
「夢じゃないようだな」
そこには相変わらず禍々しいオーラを放つ〝и〟の玉がしっかりと収まっていた。
しかしどうやってここに? 迷宮が崩落して危うかったところまでは覚えているが、その先の記憶が無い。誰かが助け出してくれたんだろうかと首を傾げていると、そこに一人の来訪者があった。
「ベアトリス様、お目覚めになられたのですねっ。今長を呼んでまいりますっ」
それは隠れ里の住民の一人だった。その女性はベッキーの返事も待たずに、慌てて部屋を後にする。幾ばくもせぬ内にドタドタと慌ただしい音がしたかと思うと、イーヴォが孫のウルバーノを伴ってやって来た。
「ようやくお目覚めかベアトリス殿。体の調子はどうじゃ?」
「何とも無い。どれくらい寝てた?」
「丸一日眠っていましたね」とウルバーノが答える。
訊けばベッキー達は、迷宮の入口付近の何も無い空間から突如として姿を現したそうだ。その時には既に二人とも気を失っており、長の指示でこの部屋のベッドに寝かされ今に至るらしい。
「転移されたってことか……でも誰が」
思い当たる人物がいないでもないが、その部分の記憶が欠落したベッキーにとって真相はまさに闇の中であった。
「そんなことより玉は、女神の試練は攻略したのかっ?」
「玉なら手に入れたぜ」と言ってポーチから〝и〟の玉を取り出す。
「手にとってみても良いか?」というイーヴォに、構わんぜと玉を差し出す。イーヴォはまるで熱いものに触れるかのような慎重さで、そっと玉を手に取った。
「おお……これが伝承に謳われた宝玉か……」
感動に打ち震える祖父の横で、ウルバーノが言い難そうに口を開く。
「ところで、その、『女神の試練』はどうでしたか?」
「お前の考えていた通りだったよ」
「それではやはり……」
「ああ。迷宮の主が魔物を使って二代目の長を唆したらしい」
「何ということじゃ……わしは……」
崩折れるように膝をつき、項垂れるイーヴォ。それも無理もないことだろう。そうではないかと伝承の矛盾を疑問に思いながらも、それでも何人もの若者を死地に送り込んでいたのだ。もっと早く自分の考えに素直になっていれば、無為に散らせずに済んだ命も多かった筈なのだから。
そんな祖父に何と声を掛ければ良いのか判らないのだろう、ウルバーノはどこか泣きそうな表情でイーヴォの肩に手を置いていた。
「まぁ、オレ達が敵を討った訳だし、それで良かったとするしかないんじゃね」
「そうですね。何とお礼を申し上げればよいか」
「わしからも礼をいう。これで忌まわしき因習からも開放された。本当にありがとう」
「別に礼には及ばねぇぜ。玉を手に入れるのに倒す必要があっただけだからな。それでも礼がしたいってんなら、今回大活躍だったマルティナに旨いもんでも食わせてやってくれ」
「それでは今夜にでも宴席を設けるとしよう。それまでゆっくり休まれると良い」
そう言うと、イーヴォは〝и〟の玉をベッキーに返し、ウルバーノのとともに部屋から去っていった。
改めてベッドに仰向けになり、天井にかざすように矯めつ眇めつ玉を見る。
これと同じ玉が世界の何処かにあと五個存在している筈。
「世界か……」
改めてそう考えると途方もない話だ。危険も相当なものとなるだろう。今回はよく分からない内に助かったが、次もそうとは限らない。それに石版――魔術の件もある。問題や謎は山積みだった。
「そろそろ仲間でも募るかな……」
そう独り言ちている内に、再び眠気に誘われて再び目を閉じたのであった。
〜第一章 完〜