「さっさとそれ、終わらせなさいよね」
文子は鋭い目で私を睨みつけると、足早に去っていった。不気味なものからは一刻も早く離れたい。彼女の背中はそう語っている。私は心を無にして、ひたすら洗濯物を水で濯ぐ。長い時間そうしているうち、最初は刺すように痛かった水の刺激も段々感じなくなってくる。その代わり、指先の動きが鈍くなっていくのだった。
(痛みを感じ続けると、そのうち何もわからなくなってくる)
ふと、そんなことを考える。思えば、私の人生はずっと痛みを伴うものだった。
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五年前、母が病気で亡くなると、私は桜小路家を追い出された。当時、私は十一歳。もうどこかで奉公すれば、自力で生きていけると判断されたのだ。
奉公先を決める暇もないまま、私は身一つで屋敷を追い出された。桜小路家の人々からすれば、私みたいな人間はさっさと出て行ってほしいに決まっている。それがわかっているから、私もまだ屋敷に置かせてほしいと頼み込むことはしなかった。
(どこか住み込みで働けるところを探そう。できることは何でもやらなきゃ)
誰も頼れる大人はいない。これからは、自分の力だけで生きていかなければ。そう決意した。しかし、奇妙な見た目をしている私を雇ってくれるところはなく、奉公人の募集に応募してはことごとく断られる。酷いところだと、面接で顔を合わせた瞬間に塩をかけられるなんてこともあった。
屋敷を出る前、こっそり持ち出した食料はとっくに底を付いていた。お金も持っていなかった私は、道に落ちている食べ物や食べられそうな雑草を口にして生きながらえるしかない。しかし、そんな生活が長く続くわけもなく、屋敷を追い出されてから五日後には、道端で動けなくなってしまった。
田んぼの傍らにある大きな木の幹にもたれかかり、身体を預ける。秋の始まりを迎えた稲は、黄金の穂をたんまりと付け、頭を垂れている。私はただ、そんな豊かな景色を見ていることしかできない。ぐったりと動かない私を、通りかかる村人たちは化け物を見るような視線を投げかけていく。
「なに、あれ……人間か?」
「ここで野垂れ死んだら溜まらないな。山奥にでも行ってくれないかな」
村人たちのそんな声を聞きながら、ふと思う。
――私には生きている資格がないんだ。
その瞬間、なぜか心が軽くなる。まとわりついていた重い何かが、自分から離れて空気に溶け込んでいくような、そんな感覚になった。
(私はこの世にいてはいけないんだ。だから、皆に嫌がられる……)
もう全く動かないと思っていた身体が、動かせる気がしてくる。試しに立ち上がってみると、案外歩けそうだった。 さらさらと、水が流れる音が聞こえてくる。川が近いのだ。私は、吸い寄せられるように音の方向に歩いていく。透明な糸に引っ張られているような気分だった。
少し歩くと、川のほとりに出た。陽の光で照らされた水面が磨き上げられた玻璃のようにきらきらと輝いている。
あの下に行けば、解放される。
私は水の中を一歩一歩進んでいく。不思議と冷たいとは思わなかった。むしろ、全てを優しく包んでくれるような感覚さえあった。
(最期に、おいしいおにぎりが食べたかったな)
それだけが唯一の心残りだった。さっき見た、稲穂が風にそよぐ様を思い出しながら、更に進んで行こうとしたその時――。
私は彼に、抱きかかえられていた。
******
もう少しで洗濯が終わりそうだ。そう思った時、ふわりと肩のあたりが温かくなった。見てみると、私には大きい上掛けがかかっている。こんなことをしてくれるのは、一人しかいない。
「
私は、柔らかい微笑みを浮かべている彼――桔梗にお礼を言う。この桔梗こそが、五年前私を助けてくれた人だ。
桔梗は私を川で助けた後、そのまま家まで連れて帰り、手当をし、食事を与えてくれた。それだけではなく、しばらく泊まって良いとさえ言ってくれたのだ。私の命は彼のお陰で繋がったのだった。
私が回復すると、桔梗は「この家の奉公人として、住み込みで働くように」と言ってくれた。この時、桔梗が村一番の名家・
こうして、私は朝霞家の奉公人として働くようになり、今に至る。当時の私にはまだわからなかったけれど、桔梗は私をこの家に置くために相当頑張ってくれたはずだ。桔梗の父であり、朝霞家の当主の菊之助は厳格な性格だと聞く。私のような人間を屋敷に置くことに、抵抗がないわけない。それに、他の奉公人たちだって納得していないだろう。納得していれば、仕事を押し付けたりなどしないはずだ。私の見た目のことを考えれば、追い出されず住まわせてもらえているだけでも相当ありがたいことだろう。
「その仕事、一人でやる量じゃないだろう」
桔梗はしゃがみ込み、たらいの中に手を入れる。
「桔梗さま、これは私の仕事です!」
「僕だって、たまには洗濯をしたい日もある」
私の制止を無視し、桔梗は淡々と洗濯をする。「あともう少しで終わりますので、大丈夫です」と言ってみたものの、止める様子はない。
「長い時間ずっと外にいては、風邪を引いてしまう。もう部屋に入れ。残りは僕がやっておくから」
「でも……」
桔梗は優しく提案してくれるが、やはり洗濯などさせるわけにはいかない。桔梗はこの家の跡取り息子なのだ。家事をやる身分ではない。三歳年上の彼のことを内心兄のように慕ってはいるけれど、ここまで甘えるわけにはいかない。
「桔梗さま。お気持ちだけいただいておきます。私にも奉公人としての矜持があるのです」
桔梗の目を見ながら、あえて強めの口調で言ってみる。しばらくじっと、互いの目を覗き込む時間が流れ、ようやく桔梗が立ち上がった。
「わかった。瀬羅には負けたよ。その代わり、その上掛けは使いなさい」
「はい……! ありがとうございます。後でお返ししますね」
桔梗が微笑み、母屋の方へ歩いていく。しかし、数歩進んだところでまた、私の方に振り返った。
「瀬羅。僕は、何があっても君の味方だから」
真剣な顔でそう言うと、桔梗は足早に去っていった。頬が赤く染まる感覚がある。それは、吹き付けてくる冷たい風のせいばかりではないだろう。
(助けてくれたあの日……桔梗さまの腕の中は温かかった)
淡く美しい思い出に浸りながら、私は残りの洗濯を終わらせた。