「カルロスさん、大変です!」
僕はカウンターの奥へ駆け込むと、思わず声を張り上げた。息は切れ、額には汗がにじんでいる。
「シモン、どうした。そんなに慌てて」
カルロスさんはというと、相変わらずカウンター裏で本を開き、肘をついて読書中。まるで火事場の猫のように、のんびりとした態度だ。
「ご、ゴブリンが……ストライキ中です!」
その瞬間、パタン、と本が閉じられる。空気が一変するのが分かった。カルロスさんはゆっくりと姿勢を起こし、冷静な瞳でこちらを見据えた。
滅多にない本気の視線に、思わず背筋が伸びる。
「……なに?」
声は低く、短く、重い。
「奴ら、『理不尽だ』って言うんです。『待遇を改善しろ』って」
自分で言いながら、どこか信じられない気持ちだった。ゴブリンが待遇を? でも、実際に掲げていた手書きのプラカード――「雑魚呼ばわり反対!」 「俺たちにもプライドがある!」――は、確かに見た。たぶん一番右端のは「モンスターにも労基法を!」とか書いてあった気がする。
「待遇改善……。具体的には何を要求してる?」
カルロスさんは、顎に手を添えて考え込む。その横顔には、やや神妙な色も混じっていた。
「一層目への固定配置が不満みたいです。『俺らは雑魚モンスターじゃない』って」
言われてみれば、確かに彼らはずっと一層目だ。冒険者にとって最初に戦う相手として、やられ役の定番。それが誇りを傷つけていたとしても……無理はないのかもしれない。
でも、ゴブリンを外せば、新米冒険者の練習台がいなくなる。そうなれば、彼らは成長できず、冒険者としてスタートも切れない。ギルドの評価が下がり、ダンジョンに人が来なくなる。ひいては、僕たちモンスター管理課にもしわ寄せが来るのだ。
この職場、見た目以上に繊細なバランスの上に成り立っている。
「そうだな……」
カルロスさんは指をトントンと机に当て、短い思考の末に結論を出した。
「奴らの配置を変えよう。三層目に置く。代わりに、オークを一層目に」
「了解です! さっそくダンジョンに――」
「お前、死にたいのか?」
ズバッと一刀両断。
「……えっ」
唖然とする僕に、カルロスさんは片眉を上げる。
「オークだぞ? 今のお前じゃ、武器を持つ前に潰されて終わりだ。担当はモンスター教育係のエミリーだ。あの人なら、オークだろうがゴブリンだろうが手綱を握れる」
「あ……確かに」
ダンジョンに行っても、自分にできることなんてない。むしろ余計な被害を増やすだけだ。頭の中で、自分の死亡報告書が出来上がるところだった。
「では、エミリーさんに報告してきます!」
くるっと踵を返し、僕は早足で控室へ向かった。
数日後。
問題は解決したように見えた。三層目でのゴブリンの配置も順調、オークたちも新しい環境に慣れた――かに思えた。
「カ、カルロスさん!」
今度はもっと深刻な表情で、カウンターに飛び込む。
カルロスさんは読書の最中だったが、すぐに目を上げた。すでに、ただ事ではないと察したようだ。
「またか。今度は何があった?」
「今度は……オークが『冒険者が弱すぎて張り合いがない』って文句を言ってきました」
「……は?」
カルロスさんはしばし沈黙した後、手のひらで額を押さえた。困惑と疲労が入り混じった表情だ。
「彼ら、今まで三層目にいたせいで、上級者とばかり戦ってたから、『一層は退屈だ』って。全然やりがいがないらしいです。自分たちの戦意が下がるって」
オークが“やりがい”を口にする日が来るとは思わなかった。確かに彼らは、筋骨隆々で戦闘好き。格下の相手とばかり戦っていれば、退屈なのも分からなくはない。
「しかも……」
僕は少し声を落とした。
「さっき、三層目に送ったはずのゴブリンたちが、『冒険者が強すぎて無理』って言って戻ってきたみたいです」
もはや収拾がついていない。
「……奴ら、結局どこにいても不満なんだな」
カルロスさんは、机に肘をついて天井を見上げる。天井に答えが書いてあるわけでもないが、そうしたくなる気持ちはよく分かる。
「分かった。配置を元に戻そう。ゴブリンは一層目、オークは三層目」
「……それで、解決しますかね」
「するさ。お互い“自分の居場所”に戻ったと感じれば、案外満足するものだ。ゴブリンだってきっとこう言うよ――『やっぱ俺たち、雑魚で良かった』ってな」
苦笑しながらカルロスさんは席を立ち、次の業務へ向かう。
この職場では、最も厄介なのはモンスターの強さではなく、彼らの自尊心なのかもしれない。