最近、海のダンジョンで遭難が増えているらしい。ギルドからの情報では、どうやらセイレーンが原因だという。
「だから言っただろ? セイレーンを投入したら、結果は見えてるって」
カルロスさんが言う。いつものようにふざけているのかと思いきや、今回は妙に真面目だ。眉間に皺まで寄せている。
「そうだったかもね。実験中にセイレーンの歌声に夢中で海に沈みそうになった人がいますからね」
エミリーさんは、ゆっくりとカルロスさんに視線を向けた。無言のまま、じーっと。まるで「それ誰だったか覚えてます?」とでも言いたげに。
「……そんなこともあったかもな」
カルロスさんがごまかすように笑った。あからさまな動揺を隠すには、あまりに表情が緩んでいた。
「でも、シモンには効果がなかったわね」
「耳栓をしていたので」
そもそも歌声を聞かなければ何も起きない。誘惑だって、届かなければただの風――と、教科書には書いてあった。
「ギルドに伝えてはどうでしょうか。『セイレーンには耳栓が有効だ』と噂を流すように」
提案しながら、少しだけ胸が高鳴った。役に立つ発言ができたかもしれない、という期待が心をくすぐる。
「シモン、それだ! 早速ギルドに行ってこい!」
カルロスさんの声がひときわ大きくなる。食いつきの良さは、自分の過去の失敗を払拭したい一心か。こういうところは、相変わらず分かりやすい。
ギルドから戻ると、すぐにカルロスさんが近づいてきた。待ち構えていたように。
「それで、ジャスミンはなんて言ってた?」
「これなら、海のダンジョンにも人が戻るって大喜びでした!」
ジャスミンさんの笑顔がまぶしかったのは――まあ、ここだけの話だ。つい、会話が長引いてしまったのも、偶然ではない。
「よーし、セイレーン問題解決! さっ、別の問題に取りかかるぞ」
「そんな単純にいくかしら?」
エミリーさんの言葉には、疑念がにじむ。でも、その声にはどこか安心感も混じっていた。油断じゃない、信頼だ。たぶん。
――数日後。
ギルドから、「セイレーンの調子がおかしい」との依頼が届いた。まさか、またトラブルになるとは。
「調子がおかしい? どこにも問題は見当たらないぞ?」
カルロスさんがセイレーンを見ながら首をかしげる。海辺の水槽の中、セイレーンはゆらゆらと漂っていたが、どこか精彩を欠いているようにも見えた。
「僕も同意見です」
だが、報告書に気になる一文があった。「耳栓が不要になった」と。あれだけ効果があったはずの耳栓が、なぜ今になって無意味になったのか。
「セイレーン、魅惑の歌声で、この二人を魅了してちょうだい」
エミリーさんの言葉に、セイレーンはうつむいて黙り込んでしまった。返事もなく、動作もどこかぎこちない。いつもの妖艶さが、まるで見えない。
「おかしいわ。ちょっと、口の中を見るわね」
そう言って、エミリーさんは慣れた手つきでセイレーンの顎を支え、喉をのぞき込んだ。
「この子、喉が真っ赤よ」
顔をしかめて、ぽつりとつぶやく。その声には、モンスターに対する純粋な憂いすら感じられた。
「セイレーンだって、風邪をひくさ。時間が経てば元通りになるに違いない」
カルロスさんは楽観的に言った。たいていの問題は寝て直す。彼の持論らしい。
「もしかしてですけど、いつもより大きな声を出そうとしたのでは?」
僕は、ふと思いついたことを口にした。セイレーンの異変が、ただの風邪じゃなく、冒険者の行動に対する“対抗策”なのだとしたら。
「シモン、何が言いたい?」
「つまり、冒険者が耳栓をしているので、それを無効化しようと声を張り上げたのかと」
一瞬の沈黙のあと、カルロスさんがうなずいた。
「なるほどな……」
真剣な表情で思案を巡らせるその顔に、上司としての一面を見た気がした。
「じゃあ、こうしよう。防音性が低い耳栓をギルドが売る。そして、こういう噂を流す。『セイレーンが強力になったらしい』と。これなら、万事解決だ」
商売としては見事な手口だ。ギルドも儲かるし、難度も上がる。すべてが“うまく”いく――そう見える、表面上は。
「私は反対。セイレーンが嘘つきになっちゃう」
エミリーさんの一言が、空気を変えた。その言葉には、揺るがない芯があった。責任感、そして優しさ。それが、彼女の魅力なのだと思う。
「じゃあ、なにか案を出せよ!」
カルロスさんの声が少しだけ荒くなる。照れ隠しなのか、本気の苛立ちか。おそらく、両方だろう。
「えーと、セイレーンは魅惑の歌声が特徴で、船を難破させる。歌声で冒険者が困ればいいんですよね?」
「シモンの認識で間違いないわ」
「じゃあ、こうしてはどうでしょうか」
――さらに数日後。
ギルドから「セイレーン問題」についての指摘は一切なくなった。
「どうやら、シモンのおかげでうまくいったみたいね」
「僕だって、たまには役に立ちますよ!」
少しだけ胸を張る。カルロスさんの笑い声が返ってきた。
「たまに、じゃあ困るんだがな」
冗談交じりの言葉には、どこか信頼がにじんでいた。そう思えたのが、ちょっとだけ嬉しかった。
「でも、不思議ね。セイレーンの声を聴きたい冒険者が現れたなんて」
エミリーさんが不思議そうに首をかしげる。あの知的な横顔に、僕の視線が一瞬、止まった。
「セイレーンが子守唄を歌うんだ。徹夜明けの冒険者にとっては、ありがたいだろうよ」
カルロスさんが、飄々と答える。
その言葉のあと、少しの間があった。
そして――エミリーさんが、吹き出した。
セイレーンが、癒し系になったらしい。悪名高き海の魔女は今や、疲れた冒険者のためのナチュラル睡眠導入装置である。