「緊急事態よ!」
ドアが勢いよく開いたかと思うと、バンッと音を立てて壁にぶつかる。エミリーさんが肩で息をしながら、管理課の部屋に飛び込んできた。
彼女のこういう姿は珍しい。普段は理知的で冷静そのものの女性だ。そんな彼女が感情を露わにしているとなると――これは、ただ事ではない。
「あるベテラン冒険者が『モンスター弱点一覧』なんていう本を出したのよ!」
そう叫ぶやいなや、彼女は分厚い本を机に叩きつけた。表紙には大げさな装飾があり、いかにも「これは役に立ちますよ」と言いたげなタイトルが踊っている。
「ちょっと、読んでみますね」
僕は恐る恐るページを開いた。内容は驚くべきものだった。「ゴブリンの弱点は胴体」「スライムには硬化薬を使え」……どれも確かに正しい。正しすぎる。
胃のあたりが冷たくなる。こんな本が広まれば、冒険者の効率が飛躍的に上がるだろう。それだけならいい。問題は、モンスターの弱点がバレてしまえば、こちらの調整が追いつかなくなるということだ。モンスター管理課の業務が、今より何倍にも膨れ上がるのは避けられない。
「さすがに看過できないな。これは、俺たちへの挑戦状だ」
カルロスさんが本を一瞥し、低く呟いた。その目は、普段のどこか飄々とした雰囲気とは打って変わって鋭い。敵意が滲んでいる。どうやら、彼も本気らしい。
「あのー、全モンスターの弱点変更には、どれくらいの時間がかかりますか?」
僕はおそるおそる問いかけた。弱点の書き換え作業には時間がかかる。少しでも目安が知りたかった。
「かなり時間が必要よ。一週間じゃ足りないわ。まずは、低層のモンスターから手をつけるべきね。ひとまず、新米冒険者の足止め優先よ」
エミリーさんの答えは冷静だったが、その表情には焦りが見えた。無理もない。これは時間との勝負だ。
それから二週間――
「さて、弱点を変えて二週間たったわけだが……。ベテラン冒険者め、すぐに攻略本を更新しやがった!」
カルロスさんが天を仰いで嘆いた。彼の手には、改訂版と銘打たれた新たな「弱点一覧」があった。
ページをめくるたびに、新しく書き加えられた情報が目に飛び込んでくる。更新速度が異常だ。まさか、現場で検証してすぐ反映しているのか?
これでは、まるでイタチごっこだ。いくらこちらが弱点を変更しても、すぐに見抜かれてしまう。
「いっそ、ギルド側にこう提案しましょ。『不正をしたから、冒険者証をはく奪するように』って」
エミリーさんの口調は、ややヤケ気味だった。けれど、それではただの八つ当たりだ。ギルドにそんな要望を出したところで、相手にされるはずもない。
「強いからベテランなんですよね?」
僕はふと、疑問を口にした。
「シモン、それは当たり前だろ!」
カルロスさんが即座に突っ込んでくる。だが、僕の考えは別のところにあった。
「じゃあ、そのベテランの強さが否定されれば、攻略本の価値も落ちます。彼にだけ強力なモンスターをぶつけましょう」
提案を口にする。だが、二人はすぐに首を横に振った。
「それじゃあ、今度は他の冒険者へぶつける適切なモンスターがいなくなるわ。あぁ、誰か救世主はいないのかしら……」
エミリーさんが、頭を抱える。空気が重く沈んだそのとき、らせん階段の奥から、足音が響いてきた。
トン……トン……トン……
そのリズムに合わせて、姿を見せたのは――ライルさん。管理課のトップにして、ふだんは滅多に現場に顔を出さない人物だ。
「三人とも、よく聞け。ベテランの鼻をへし折る作戦がある。それは――」
彼の声には、いつになく力がこもっていた。
――数日後。
「数日でベテラン冒険者の権威は地に落ちたわね。さすが、ライルさん。うちのトップはここが違うわね」
エミリーさんが、感心したようにこめかみをトントンと指で叩く。
彼女の前では、例の攻略本が無残にも破られ、山積みにされていた。噂では、本の作者が自ら回収したらしい。ベテラン冒険者のプライドがズタズタにされた証だ。
「しかし、あれでよかったのか?」
カルロスさんが腕を組み、渋い顔をする。
「いいのよ、たまには。ウサギ型モンスターの強さがドラゴン級でも。外見で判断する方が悪いのよ。冒険者たちのためにもなるわ。『ダンジョンでは、一つの判断ミスが命にかかわる』って教訓を得られるんだから」
エミリーさんの声には、どこか清々しさがあった。理不尽なようで、実は筋の通った決着。誰よりも現場を知る彼女の言葉に、僕は深く頷いた。
ダンジョンのモンスターは、今日もどこかで姿を変えている。そして、僕たち管理課の仕事もまた――終わることはない。