「まさか、そんなマニアがいるなんてね……」
エミリーさんが苦笑しながら天井を見上げた。
モンスター攻略本を出した冒険者の次に現れたのは、なんと足跡マニアだという。モンスターの足跡を収集するなんて、常人には到底理解できない趣味だ。危険を顧みずダンジョンの中を歩き回るなんて、自殺行為に近い。モンスターに襲われるリスクを考えれば、まともな神経ではない。
「でも、今回は放っておいていいのでは? その人の趣味ですから」
僕が慎重に言葉を選びつつそう言うと、エミリーさんはすぐさま首を横に振った。
その仕草に、ただの趣味で済ませられない深刻さが滲んでいる。
「その冒険者、足跡集を出版するつもりよ。そして、それが出回れば足跡を見てモンスターを避けて三層目まで行くのも簡単になるわ」
思わず言葉を失った。
収集マニアが純粋な情熱で集めた資料を、他人が「攻略情報」として悪用する。そんな未来が待っているとは思いもしなかった。
「今日はカルロスはいないわ。出張中だから。つまり、私たち二人でなんとかする必要があるわ」
エミリーさんがぐっと拳を握る。
彼女も優秀だが、専門はモンスターの教育であって、戦略を練るのは本職じゃない。僕自身も新米を抜けつつあるとはいえ、まだまだ頼りない部分が多い。しかも、ここのトップであるライルさんも、別部署との打ち合わせで不在。まるで、ピンチの時に限って主力が欠けるRPGのようだ。
「さて、問題のマニアはゴブリンをはじめ、オーク、ドラゴンの足跡を集めているわ」
「ちょっと待ってください! ドラゴンも収集済みなんですか!?」
思わず声が上ずる。
その収集対象の幅広さに、ただただ驚くしかない。
「もちろん、F級よ。それでも、十分すごいわ。そこらの冒険者より腕は確かね」
舌を巻くレベルのマニアだ。
そんな相手をどう止めればいいのか。通常の方法では通用しそうにない。
「では、マンドレイクをぶつけては? つまり、彼らは引き抜けば悲鳴をあげます。その絶叫なら――」
「それじゃあ、止めることはできないわ。耳栓をすれば済んでしまうもの」
エミリーさんの肩が落ち、深いため息が部屋に響く。
小手先の策では、あのマニアには通用しない。こいつは完全に想定外の相手だ。
足跡のないモンスター……そんな存在がいれば。いや、いるじゃないか。
僕の脳裏に、ぬるりとしたあの影が浮かんだ。
「エミリーさん、スライムですよ、スライム。彼らは足がありません。ですから、収集不可能です!」
閃いたアイデアをぶつけると、エミリーさんの目が一気に輝いた。
「ナイスアイディアよ! さっそく、冒険者にスライムをぶつけるわよ」
「カルロスさん、どうでしたか出張は」
「ギルドの受付の研修はいつまでたっても慣れないな。ジャスミンの奴、よく毎日冒険者を相手できるな……」
カルロスさんはやや疲れた顔で、肩をぐるりと回す。
僕の頭には、以前ゴブリンを「鬼」と偽って報酬を水増ししようとした、あの厄介な冒険者の姿がよぎった。
「さて、状況は聞いている。マニア対策をしたらしいな。だが、さっきジャスミンから連絡があった。『スライムの跳ねた跡』を足跡として収集したらしい」
……嘘だろ。
たしかに「足」ではないかもしれないが、地面に残る痕跡を「足跡」と定義するのなら、スライムの跳ね跡だって立派なサンプルだ。
「お手上げよ。三層目まで突破されるのはしょうがないわ。四層目に強力なモンスターを配置して、マニアを止めるしかないわね」
エミリーさんが項垂れるのも無理はない。
カルロスさんも腕を組んで言った。
「一層目に強いのを配置すると、新米が減るからなぁ」
確かに、バランスの問題は難しい。簡単に配置を変えるわけにはいかない。
……だけど。僕は、もう少しだけ足掻いてみたいと思った。
そうだ、バジリスクの盾を売り捌いた時を思い出せ。
奇抜な発想と、逆転の発想こそが打開の鍵だった。バジリスク……?
「一つ提案です。バジリスクをぶつけましょう」
「何がしたい。マニアにとっちゃ、バジリスクを討伐するのも楽勝だろう」とカルロスさん。
「違います。マニアは足跡が目的です。でも、バジリスクには足がありません。彼は這いずって移動しますから。つまり、這いずった跡を『足跡』と言うのは無理です。どこまでも這いずり回りますから。どれが足か分かりませんし、足の数すら記録できません。マニアが求める『足跡コレクション』には向かないんです!」
少し早口になったけれど、言いたいことは全部言えた。
すると次の瞬間――
バシーン!
カルロスさんが僕の背中を思いっきり叩いた。
「それだ! バジリスクは相手にするのも厄介だ。これで、万事解決だ」
その声は、久々に本気の響きを持っていた。
「ほう、君たちも連携がよくなってきたじゃないか」
その声に全員が振り向くと、そこには他部署との打ち合わせを終えたライルさんの姿があった。
「少ししたら、他の部署との合同作業が続く。先に言っておくと冒険者より厄介かもしれん。だが、君たちなら完遂してくれると信じているぞ。幸運を祈る」
その笑顔は静かだが、確かな信頼に満ちていた。
僕たちは小さく頷いた。次なる戦場は、まだまだ続く。