「最近、ヤマタノオロチの調子が悪いのよ。何か心当たりない?」
エミリーさんは、深いため息とともにテーブルに書類をバサリと置いた。分厚いファイルの角が机に当たり、鈍い音が室内に響く。彼女の眉間にはしわが寄り、いつものキリッとした表情が曇っていた。口調は落ち着いていたが、その様子からただ事ではない空気がひしひしと伝わってくる。
「そう言われてもな……。俺たちよりもエミリーの方がモンスターに詳しいはずだろ。専門家がお手上げなのに、俺たちに聞かれても体調不良の理由は分からないぞ」
カルロスさんは肩をすくめながら、机の端に置いてあったマグカップを手に取った。中身はすでに空っぽ。だが、その手つきには無意識に逃げ場を探しているような気配があった。静かな沈黙が、室内にじわじわと広がっていく。
「でも、彼らの不調は少し前からでしたよね? 確か、薬を飲んで調整中だったはずでは?」
僕の記憶が正しければ、そのころからヤマタノオロチの餌の量も微妙に減っていた気がする。食欲の変化は、モンスターにとっても重要なサインの一つだったはずだ。
「そうよ。でも、体調は悪化する一方なのよ。何かがおかしいわ……。二人とも、変なエサあげてないわよね?」
エミリーさんの声に、ピリッとした鋭さが宿る。その視線がこちらを射抜くように向けられ、空気がさらに重たくなった。まるで、嘘を見破る探偵のような眼差しだ。僕は思わず背筋を正してしまう。
「人聞きが悪いな。そんなことするわけないだろ。なあ、シモン?」
カルロスさんが僕の方に顔を向け、こっそりと目配せをしてきた。まるで「ここは足並みそろえようぜ」とでも言いたげな表情だ。僕は、うなずくべきか悩んだ。
「ええ、もちろんです。たとえば、ヤマタノオロチにはお酒をあげたり、彼らの要望通りに食事はあげてます!」
言ってから、しまった、と思った。発言のヤバさが、じわじわと脳内に波紋のように広がっていく。なのに、口は止まらなかった。完全に墓穴を掘った音が聞こえた気がする。
案の定、エミリーさんの眉がピクッと動く。そのわずかな変化が、これから嵐がやってくることを示していた。
「あのね、最近、ヤマタノオロチには睡眠剤を与えているの。隣のマンドレイクがうるさいって。で、そんな彼らにお酒なんか与えたら、飲み合わせが悪くなっちゃうでしょ」
……飲み合わせ!? 完全に盲点だった。そもそも、モンスターだって薬と酒の相性を考えなければならないなんて、あまりにも人間っぽすぎて想像すらしていなかった。
「失敗は誰にでもあるさ。シモンを責めるなよ」
カルロスさんが横からさらっと口を挟んでくれる。何気ない一言なのに、ありがたみが骨身にしみた。こういうところ、本当に頼れる上司だ。
「しょうがないわね。今回は許してあげるわ」
エミリーさんの声には、呆れ半分、優しさ半分が混ざっていた。救われた思いで、僕は小さく頭を下げた。
――ほんと、心が広くてよかった。いや、運がよかっただけかもしれないけど。
エミリーさんが部屋を出て行った後、しんと静まり返った空気の中で、カルロスさんがニヤリと笑って僕の方へ歩み寄ってきた。さっきまでの緊張感がウソのように、空気が緩む。
「なあ、シモン。ヤマタノオロチにあげる予定だった酒、俺にくれ」
「へ?」
不意を突かれたその言葉に、反射的に間抜けな声が出てしまった。
「ほら、フードロス対策だよ」
カルロスさんは悪びれる様子もなく、片目をつむってウインクを飛ばしてくる。その仕草が妙に板についていて、逆に腹が立たないのがまた悔しい。
――ああ、これが狙いだったのか。最初からこうなることを見越して、あの場で助けてくれたのだとしたら、さすがというべきか。
でもまあ、借りを返すという意味でも、これくらいは渡しておこう。お礼の一環ってやつだ。
「待てよ……。奴らのために用意した酒は、どうやって調達した?」
「もちろん、モンスター管理課の経費ですよ」
きちんと申請してたし、正式な経費処理もしていた。けど――。
「経費が少ないほど、俺らの給料は上がる。つまり、この酒の分……」
「僕たちの給料が減ると?」
「ああ、その通り。こりゃ、エミリーが気づいたら、とんでもないことになるな。バレた時は……。まあ、頑張れよ」
肩をすくめながら、カルロスさんは軽い足取りで部屋を出て行く。その背中からは、どこか軽快な口笛でも聞こえてきそうな雰囲気があった。
反対に、僕の心にはずっしりと重たい何かがのしかかっていた。
給料が減るなんて聞いてないぞ。それ、先に言ってほしかった――。