「なあ、シモン。最近、ヒュドラの討伐報告、ぱったり止まってるんだが。どういうことだ?」
執務室に響いたカルロスさんの声は、いつもの怒鳴り声ではなかった。むしろ低く、押し殺したようなトーンだった。机の上に広げた討伐報告書の束を、無言で指先で叩いている。無意識の癖だろう。だがそのリズムはどこか落ち着かず、彼の内心が静かにざわついているのが伝わってきた。
「え? ヒュドラって、あの……首がいくつもあるやつですよね? 配置場所の調整とか、特に変えてないはずですけど」
僕は立ったまま机に近づき、報告書の行間を目で追った。ページには確かに、数日前からヒュドラに関する討伐報告が途絶えていることが記されていた。討伐数はゼロ。だが、被害報告――つまり、冒険者が倒されたという記録すらない。
「数日前までは、普通に討伐されてたんだ。それが突然、何の前触れもなくゼロだ。しかも、全滅報告も行方不明報告も来ていない」
「……何か、異変が起きてるんでしょうか?」
カルロスさんは一度だけ深く息を吐くと、椅子から腰を上げ、窓の外に目をやった。夕焼けが窓ガラスに淡く映り込んでいる。彼はそれを見つめるでもなく、ただ背後の景色を背負ったまま、ぽつりと命じた。
「エミリーと一緒に、現地を見てこい。お前の目で確かめてこい」
「……了解です」
ああ、またこのパターンだ。変な予感しかしない――というか、カルロスさんがああいう顔をしてるときは、だいたいロクなことにならない。
というわけで、僕たちは今、ヒュドラが配置されている湿地帯の奥深くに足を踏み入れていた。
湿地特有のねっとりとした空気が、肌にまとわりつく。足元のぬかるみは、一歩踏み込むごとに重たい音を立て、靴が泥に引っ張られる。辺りには靄のような霧が漂い、木々の輪郭がぼやけて見える。葉の表面には水滴が宿り、時折、ぽたりと静かな音を立てて地面に落ちた。
冒険者にとっては、視界が開けすぎず閉じすぎず、モンスターが潜みやすい絶妙な地形。緊張感が走る……はずだった。
けれど――。
「なんか、明るくないですか?」
僕がそう口にしたのは、まったく別の気配を感じたからだった。空気が緩い。湿地にあるはずの緊迫感が、妙に薄い。直後、霧の向こうから聞こえてきたのは、まさかの歓声だった。
「じゃんけんぽんっ!」
「勝った! はい、あっち向いて――ホイ!」
「うわ、全員バラバラの方向行った! そっちじゃねーよ右上!」
「ちょ、真上とか反則じゃね?」
……聞き間違いじゃなかった。どう聞いても、笑い声と、ゲームの掛け声だ。
霧が薄くなり、視界が開けた瞬間、僕は言葉を失った。
湿地の中央、やや開けた地面に、数人の冒険者たちが円を作って立っていた。その輪の中心――そこに、いた。ヒュドラ。鋭い爪も、鱗に覆われた巨大な体も健在だ。けれど、威圧感は皆無。むしろ、その無数の首たちは、冒険者の指差しに合わせて、きょろきょろと方向を変えている。
一本は右、一本は左、一本はなぜか真上。さらに一本は、後ろ向いたまま、ウトウトしている始末。
――完全に、“あっち向いてホイ”の真っ最中だった。
シュールを通り越して、もはや平和そのもの。戦場ではなく、ちょっとしたピクニックのような空気感すらあった。
「……なんだこれ」
思わず漏れた僕の声に、近くにいた冒険者が気づき、軽く手を挙げて振り返った。
「見ての通りさ。戦うより遊んだ方が楽しいんだよ、こいつら」
「討伐……してないんですか?」
「やろうと思えばできるよ? でもさ、首が多い分、毎回“えー、また?”って顔されるのがきついんだって。倒されるたびに、ほんとにがっかりした目で見てくるんだよ。罪悪感すごいって」
そう言って彼が顎で指した先では、ヒュドラの一体が、まるで会話に参加しているかのように、小さくコクリとうなずいていた。たぶん、理解している。……いや、あれ、絶対に理解してるよな?
隣に立つエミリーが腕を組みながら、やや申し訳なさそうに口を開いた。
「知能、ちょっとだけ上げたんだけど……まさか“あっち向いてホイ”覚えるとは思わなかったなあ。動きのトレースが得意だから、遊びのルールもすぐ覚えちゃうみたい」
「遊びたいから討伐されないって、そんな理由ある……?」
僕が呆れ混じりに問いかけると、ヒュドラの一本の首が、こちらに向かってニコッと――いや、多分笑ってるように――首を傾けた。
……かわいいって思ってしまった自分が悔しい。
「……なるほど、そういうことか」
ギルドに戻り、報告を終えた僕たちの前で、カルロスさんは額を押さえていた。しばらくの沈黙のあと、報告書を見つめる彼の指が、またトントンと紙を叩く。
「で? つまり冒険者たちは、ヒュドラと“あっち向いてホイ”していたと?」
「はい。討伐より、そっちの方が楽らしくて。モンスターの方も……かなり楽しんでるようでした」
「討伐数ゼロの原因が、それって……」
カルロスさんは報告書を静かに巻き、無言でそれをくるりと丸めて、机の端にぽんと投げた。音は軽かったが、どこか深い溜め息が重く響いた気がした。
「エミリーに、知能を上げすぎるなって言っとけ」
「わかりました」
ちなみにその後、エミリーに伝えたところ――
「でもまあ、いいじゃない。可愛いし」
とのことだった。
……ほんとに、いいのか、それで?