「ジャスミンからの報告によると、トレントが攻撃しないらしい。たぶん、冬で寒いから機嫌が悪いんだろう。エミリー、なんとかならないか?」
カルロスさんは、手にしていた報告書をパサッと無造作に机の上へ投げた。乾いた紙の音が、室内に響く。
攻撃してこないモンスター。それは一見、冒険者にとっては好都合のようにも思える。だが、こちら側からすれば重大な問題だ。ダンジョンの威圧感が薄れれば、難易度のバランスも崩れかねない。
「そう言われてもね。あの子は貴重な樹木モンスターだから、配置を外すわけにもいかないし……。春になれば元気になるのよ、たぶん」
エミリーさんが言葉を選びながら呟いた。彼女が「たぶん」と濁すなんて珍しい。いつもなら「絶対大丈夫!」と自信満々なのに。
「焚火すると、トレントまで燃えちまう。エミリーの言う通りかもしれないな」
カルロスさんが腕を組んで唸る。冗談っぽく言ったつもりかもしれないが、どこか真剣さがにじんでいた。
僕は黙って話を聞きながら、どうにかならないものかと頭をひねった。けれど、いい案は浮かばない。無力感だけが、じわじわと胸の内に染みていった。
数日後。報告はさらに深刻なものになっていた。
「ねえ、二人とも聞いて! 『動かないから普通の木だと思って、冒険者が枝を折って薪にしようとしてた』って話がジャスミンからあったの! このままじゃ、あの子ダメになっちゃう」
執務室に飛び込んできたエミリーさんは、目を真っ赤に腫らしながら声を荒らげた。興奮しすぎて、呼吸も浅くなっている。
見慣れない彼女の姿に、カルロスさんは一瞬言葉を失ったが、すぐに低い声でなだめるように言った。
「落ち着けよ。お前がそんなんじゃ、トレントを助けられないぞ」
とはいえ、カルロスさんの声にも焦りが混じっていた。普段は肝が据わっている彼も、モンスターの命がかかっているとなれば話は別らしい。
僕も何をすべきか分からず、とりあえずティッシュを差し出す。エミリーさんはそれを受け取ると、ぐしゅぐしゅと鼻をかんだ。
「しかし、春になっても元気になるとは限らないし、どうするか考える必要があるな」
カルロスさんが、珍しく真面目なトーンで言う。空調の唸り音がやけに耳に残るほど、室内が静まりかえった。
「トレントの機嫌がよくなればいいんですよね? たとえば、香りでリラックスさせるのはどうでしょうか?」
ふと思いついた案を口にすると、二人の視線が一斉に僕に向いた。言った瞬間、軽率だったかと後悔しかけたが――。
「なるほど、試す価値はある。どんな香りにするかが問題だな。シモン、何か案はあるか?」
カルロスさんがうなずいた。
「定番ですけど、花ですかね」
答えると、カルロスさんはパンと手を打った。
「よし、それで決まりだ。エミリー、トレントのところへ行くぞ!」
視線を向けると、エミリーさんはまだ立ち上がれず、ティッシュを握りしめていた。
「エミリーなしでダンジョンに行ったら、俺たちが痛い目にあうだけだ。こりゃ、エミリーの気分を戻すのも課題だな」
カルロスさんが肩をすくめて、半ば本気、半ば冗談のように言った。
さらに数日後。
空気の肌ざわりが少し変わってきた。日差しも心なしか柔らかく、春の気配が漂い始めている。
「もう少しでトレントも元に戻る……はずなんだが」
カルロスさんが、くしゃみとともにぼやいた。
「なんか最近、鼻がむずむずしないか?」
「やっぱりそうですよね?」
僕も同じ症状を感じていた。けれど、風邪ではないと分かっていた。今朝、念のため体温を測ったのだ。
ちょうどその時、扉が開き、エミリーさんが上気した顔で入ってきた。
「トレントの様子を見てきたんだけど、芽吹いてきて僅かに揺れてたわ!」
声は弾み、笑顔には自信が戻っている。どうやら、ようやく春が本格的に訪れたようだ。
エミリーさんが近づいてくるたび、くしゃみが止まらなくなる。僕は目をしばたたきながら、口元を押さえた。
「もしかしてですけど、花が咲いたことでトレントは花粉をまき散らしているのでは?」
言いながら、鼻水をすする。論理より体が先に答えを出しているような気がした。
「なるほど。トレントが元気になると、今度は俺たちの機嫌が悪くなるわけだ」
カルロスさんも、盛大なくしゃみをひとつ。鼻をかむ音が、なんだかトレントの復活を祝うファンファーレのようにも聞こえてきた。
数日後。
ジャスミンさんが、書類を手にして嬉しそうに現れた。
「皆さん、冒険者たちはトレントに苦戦しています。彼がまき散らす花粉によって、近づく前に全滅しているのです!」
「そりゃ面白い。蔓で攻撃するまでもないわけだ。立っているだけで妨害できるのは効率がいい。今なら他のモンスター育成に注力できそうだ」
カルロスさんが満足げに椅子に寄りかかり、伸びをした。
「はあ、ずっと春なら楽なんだけどな」
「カルロスさん、それだと僕たちが困りますよ」
僕は鼻をすすりながら、苦笑いを浮かべる。
モンスター管理課の仕事は、今日もいつも通りに慌ただしく、そしてユニークだ。
次はどんな問題が起こるのか、今はまだ分からない。だが、どんな季節が来ても、きっと乗り越えていける――花粉症を除けば、だけど。