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第37話 トレントは動かない

「ジャスミンからの報告によると、トレントが攻撃しないらしい。たぶん、冬で寒いから機嫌が悪いんだろう。エミリー、なんとかならないか?」


 カルロスさんは、手にしていた報告書をパサッと無造作に机の上へ投げた。乾いた紙の音が、室内に響く。


 攻撃してこないモンスター。それは一見、冒険者にとっては好都合のようにも思える。だが、こちら側からすれば重大な問題だ。ダンジョンの威圧感が薄れれば、難易度のバランスも崩れかねない。


「そう言われてもね。あの子は貴重な樹木モンスターだから、配置を外すわけにもいかないし……。春になれば元気になるのよ、たぶん」


 エミリーさんが言葉を選びながら呟いた。彼女が「たぶん」と濁すなんて珍しい。いつもなら「絶対大丈夫!」と自信満々なのに。


「焚火すると、トレントまで燃えちまう。エミリーの言う通りかもしれないな」


 カルロスさんが腕を組んで唸る。冗談っぽく言ったつもりかもしれないが、どこか真剣さがにじんでいた。


 僕は黙って話を聞きながら、どうにかならないものかと頭をひねった。けれど、いい案は浮かばない。無力感だけが、じわじわと胸の内に染みていった。





 数日後。報告はさらに深刻なものになっていた。


「ねえ、二人とも聞いて! 『動かないから普通の木だと思って、冒険者が枝を折って薪にしようとしてた』って話がジャスミンからあったの! このままじゃ、あの子ダメになっちゃう」


 執務室に飛び込んできたエミリーさんは、目を真っ赤に腫らしながら声を荒らげた。興奮しすぎて、呼吸も浅くなっている。


 見慣れない彼女の姿に、カルロスさんは一瞬言葉を失ったが、すぐに低い声でなだめるように言った。


「落ち着けよ。お前がそんなんじゃ、トレントを助けられないぞ」


 とはいえ、カルロスさんの声にも焦りが混じっていた。普段は肝が据わっている彼も、モンスターの命がかかっているとなれば話は別らしい。


 僕も何をすべきか分からず、とりあえずティッシュを差し出す。エミリーさんはそれを受け取ると、ぐしゅぐしゅと鼻をかんだ。


「しかし、春になっても元気になるとは限らないし、どうするか考える必要があるな」


 カルロスさんが、珍しく真面目なトーンで言う。空調の唸り音がやけに耳に残るほど、室内が静まりかえった。


「トレントの機嫌がよくなればいいんですよね? たとえば、香りでリラックスさせるのはどうでしょうか?」


 ふと思いついた案を口にすると、二人の視線が一斉に僕に向いた。言った瞬間、軽率だったかと後悔しかけたが――。


「なるほど、試す価値はある。どんな香りにするかが問題だな。シモン、何か案はあるか?」


 カルロスさんがうなずいた。


「定番ですけど、花ですかね」


 答えると、カルロスさんはパンと手を打った。


「よし、それで決まりだ。エミリー、トレントのところへ行くぞ!」


 視線を向けると、エミリーさんはまだ立ち上がれず、ティッシュを握りしめていた。


「エミリーなしでダンジョンに行ったら、俺たちが痛い目にあうだけだ。こりゃ、エミリーの気分を戻すのも課題だな」


 カルロスさんが肩をすくめて、半ば本気、半ば冗談のように言った。





 さらに数日後。


 空気の肌ざわりが少し変わってきた。日差しも心なしか柔らかく、春の気配が漂い始めている。


「もう少しでトレントも元に戻る……はずなんだが」


 カルロスさんが、くしゃみとともにぼやいた。


「なんか最近、鼻がむずむずしないか?」


「やっぱりそうですよね?」


 僕も同じ症状を感じていた。けれど、風邪ではないと分かっていた。今朝、念のため体温を測ったのだ。


 ちょうどその時、扉が開き、エミリーさんが上気した顔で入ってきた。


「トレントの様子を見てきたんだけど、芽吹いてきて僅かに揺れてたわ!」


 声は弾み、笑顔には自信が戻っている。どうやら、ようやく春が本格的に訪れたようだ。


 エミリーさんが近づいてくるたび、くしゃみが止まらなくなる。僕は目をしばたたきながら、口元を押さえた。


「もしかしてですけど、花が咲いたことでトレントは花粉をまき散らしているのでは?」


 言いながら、鼻水をすする。論理より体が先に答えを出しているような気がした。


「なるほど。トレントが元気になると、今度は俺たちの機嫌が悪くなるわけだ」


 カルロスさんも、盛大なくしゃみをひとつ。鼻をかむ音が、なんだかトレントの復活を祝うファンファーレのようにも聞こえてきた。





 数日後。


 ジャスミンさんが、書類を手にして嬉しそうに現れた。


「皆さん、冒険者たちはトレントに苦戦しています。彼がまき散らす花粉によって、近づく前に全滅しているのです!」


「そりゃ面白い。蔓で攻撃するまでもないわけだ。立っているだけで妨害できるのは効率がいい。今なら他のモンスター育成に注力できそうだ」


 カルロスさんが満足げに椅子に寄りかかり、伸びをした。


「はあ、ずっと春なら楽なんだけどな」


「カルロスさん、それだと僕たちが困りますよ」


 僕は鼻をすすりながら、苦笑いを浮かべる。


 モンスター管理課の仕事は、今日もいつも通りに慌ただしく、そしてユニークだ。


 次はどんな問題が起こるのか、今はまだ分からない。だが、どんな季節が来ても、きっと乗り越えていける――花粉症を除けば、だけど。


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