「くそ、頭いてぇ」
カルロスさんがデスクに突っ伏すようにして、低く唸った。
その声には重みがあった。長年現場で鍛えられてきた彼が弱音を吐くのは、よほどのことだ。
「僕もですよ」
僕もつられてこめかみに指を添えた。グッと押し込むようにして揉みほぐすが、鈍い痛みは居座り続けていた。
ここ最近、季節の変わり目がやたらと激しい。暑かったかと思えば急に冷え込む日がある。天候の変化に身体がついていかないのか、頭痛がひどくなってきた。
僕たちだけじゃない。エミリーさんも、同じく体調を崩していた。彼女に至っては症状が重く、すでに三日間も休んでいる。普段なら多少の無理もしてくれる人なのに、これはよほどのことだ。
「こんな状況じゃ、仕事にならないな。よし、今日の仕事はここまでだ!」
カルロスさんは、どこか自棄になったように言い放ち、椅子の背にもたれかかった。
「ちょっと待ってください。まだ、一時間しか経ってませんよ?」
反射的に突っ込んだものの、僕の声に力はない。仕事を切り上げたい気持ちは僕も同じだった。でも、現実問題として、給料は働いた分しか出ない。
今月は家具の修理費や食料の買い込みで出費が嵩んだばかり。財布はすでに軽く、これ以上の余裕はない。頭が痛くても働くしかないのだ。
「そうは言ってもやることないぞ? モンスターたちは元気だし、上層部から無茶振りも来てない」
カルロスさんは立ち上がると、大きく伸びをした。骨の鳴る音が静かな執務室に響く。
その時だった。重たい扉がゆっくりと開き、一人の男が姿を見せた。
「あれ、珍しいですね」
思わず口から言葉が漏れた。現れたのは、モンスター管理課のトップ――ライルさんだった。スーツの上に軽く羽織ったローブが、朝の光を受けて揺れている。
ライルさんが執務室に足を運ぶのは、月に数回程度。基本的には現場の判断に任せるスタンスで、余計な口出しはしない。だからこそ、その登場には何かあると察せざるを得ない。
「二人とも、重要な話がある」
ライルさんは部屋の中央まで歩み出ると、窓辺に立った。背後から差し込む朝日が彼の輪郭を際立たせ、まるで後光を背負ったような佇まいになる。
いつも冷静沈着な彼だが、今日はどこか張り詰めた空気を纏っていた。
「カルロスは『モンスターは元気だ』と言っていたが、それは頭痛を除けば、だ。実のところ、彼らも同じように頭痛に苦しんでいる」
一拍置いて、ライルさんはゆっくりと続けた。
「もちろん、時間が経てば症状は収まる。しかし、今はその『今』が問題だ。冒険者たちはそれを利用して、ダンジョン攻略を急激に進めている」
その言葉に、カルロスさんの表情が険しくなる。僕も胸の内にざわりと不安が広がった。
確かに、最近になって討伐数や進捗の報告が増えている気がしていた。だが、モンスターたちが頭痛に苦しんでいるとは思わなかった。
「幸い、頭痛に悩まされていない冒険者はごく一部だ。だが、彼らがこのまま進めば、バランスが崩れるのも時間の問題だ」
ライルさんの声は落ち着いていたが、その奥にある危機感は痛いほど伝わってきた。
「そこで、二人には彼らの進撃を止めてもらいたい」
目を細めながら、ライルさんは僕たちを見据えた。
「どんな手を使っても構わん」
その言葉は、平時では絶対に聞けないものだった。
「それは、他の課と連携してもいいということですか?」
カルロスさんが慎重に尋ねる。
「もちろんだ。ただし、他の部門はアイテムの配置や環境整備が主な業務だ。戦力としての期待は薄い。私からは以上だ」
言い終えると、ライルさんは静かに踵を返した。その背中は普段よりも重たく、どこか疲れを感じさせた。
扉に手をかけたその時、彼はふと立ち止まり、こちらを振り返る。
「君には期待してるよ、シモン」
名前を呼ばれた瞬間、鼓動がひとつ大きく跳ねた。
その言葉には、ただの激励以上の何かが込められているようだった。
「で、どうする? 他の部署と連携しても、冒険者を止められそうにないぞ」
ライルさんが出ていった直後、カルロスさんは肘をついたまま真剣な顔で僕を見た。普段の軽口はどこにもなく、眉間にはしわが刻まれている。
「レアアイテムを期間限定で設置するのはどうですか? 彼らの行動を変えるんです」
僕は提案しながらも、心の中で疑問を抱いていた。すでにこの手は使われていたような気がしてならない。
案の定、カルロスさんは首を横に振った。
「いや、それはダメだ。レアアイテムの倍増キャンペーンをこの前やったばかりだ。短期間で繰り返せば、ありがたみが薄れちまう。価値ってのは、希少性で保たれるもんだからな」
その通りだった。普段なら気づいていたはずだが、頭痛のせいで思考が鈍っている自覚がある。アイデアの鮮度も、いつもより落ちている気がした。
「……ダンジョンに罠を増やすのはどうですか?」
言葉を選びながら、慎重に出す。カルロスさんの反応が読めなかったが――
「ナイスアイデアだ。冒険者の足止めにはうってつけだな!」
彼の声に久々の明るさが戻った。すぐに手元の紙にペンを走らせ、配置図らしきメモを取り始める。
「トラップの配置はうまくやれば、心理的にも足止め効果がある。奴ら、どこに何があるか分からないと急ぎ足じゃ進めないからな」
その口ぶりからは、現場で培ってきた経験がにじみ出ていた。やっぱり、この人は頼りになる。
しかし、問題はまだ残っている。トラップだけで全体のバランスは取れない。
「あとは、モンスターの不調をどうするかだな……」
カルロスさんは、手元の空き瓶――頭痛薬のラベルが剥がれかけた小瓶――に目を落とした。
「頭痛薬を飲ませるのも手だが、エミリーがいない以上、下手に薬を与えたら逆に悪化しかねない。特に魔物は体格も違えば、体内構造もバラバラだ。人間の薬がそのまま通用すると思ったら、大間違いだ」
その言葉に、僕は何気なく思い出したことをつぶやいた。
「モンスターの中でも、ケルベロスやヤマタノオロチのように頭が多いものほど、症状は重いんですよね」
「ああ、連中はダメだな。三つも四つも頭があれば、そのぶん痛みも三倍、四倍だ。配置できる状態じゃねえ」
ならば、逆に考えるべきだ。
頭が多いと症状が重い。じゃあ、頭がないなら――?
「カルロスさん、リビングアーマーですよ!」
思わず立ち上がって声をあげた。
「は?」
一瞬ぽかんとしたカルロスさんだったが、すぐに理解したのか、目を見開いた。
「おお……なるほど、そうか! あいつは魔力や呪いで動くから、脳みそもなけりゃ頭もない。つまり、頭痛とは無縁ってわけだ!」
カルロスさんは感心したようにうなずき、すぐにメモに「リビングアーマー」と大きく書き込んだ。
「それだ、それでいこう! でも、一体だけじゃ心許ないな。もう一種くらい欲しいところだ」
「それなら……スフィンクスはどうでしょうか?」
「スフィンクス? おいおい、奴にはちゃんと頭があるぞ。さすがに選択ミスじゃねえか?」
カルロスさんの指摘はもっともだ。けれど、僕には狙いがあった。
「たしかに頭はあります。でも、スフィンクスは謎かけで冒険者を翻弄するモンスターです。つまり、体調が多少悪くても座って謎を出すだけですから、戦闘力に頼らなくていい」
「なるほど……謎かけなら頭痛でも対応できるってことか。頭は痛くても、喋るくらいはできるもんな。しかも、問題に正解されなければ動かなくて済む」
「はい。『動かずに冒険者を止める』という意味では、優秀だと思います」
「よし、それも採用だ。リビングアーマーとスフィンクス、頭痛組の救世主だな」
カルロスさんは満足げに腕を組んだ。
「あとは……『トラップ設置課』との調整だな。シモン、頼んだぞ」
「もちろんです。前みたいに喧嘩にはならないようにします」
あの時は、お互い意地を張って余計に事をこじらせてしまった。今回はうまく立ち回らなければ。
翌日、僕はトラップ設置課の事務所を訪ねた。
「はあ? トラップの数が足りない? おいおい、うちは十分に設置してるぞ」
こちらの挨拶が終わるより早く、向こうの責任者が声を荒げた。年配の男で、眉間には常にしわが寄っている。トラップに人生を捧げてきた、とでも言いたげな面構えだった。
「ダンジョン攻略が進んでいるのは、そっちのモンスター不調が原因だ。こっちに協力を求めるのはお門違いだな」
まるで待ってましたと言わんばかりの勢いで責任を押し返される。こっちだって、好きで頭痛になってるわけじゃない。けれど、言い返せば余計に溝が深まるだけだ。
「その通りです。でも、同じダンジョン運営部内で言い争いをしても意味がありません。僕たちは、一心同体のはずです」
言いながら、自分の声がわずかに震えているのに気づいた。交渉の場で感情をぶつけたら負けだ。冷静に、論理で切り返すしかない。
しかし、相手は腕を組み、鼻を鳴らしているだけだった。このままでは埒が明かない。
「あれ、シモンさんじゃないですか?」
不意に聞き覚えのある声が背後から届いた。振り向くと、若い青年がこちらに手を振っていた。整った顔立ちと、控えめな笑顔が記憶を刺激する。
「ラルクくん……!」
少し前、インターンシップでうちの課に来ていた青年だ。まさか、彼がこの部署に就職していたとは。
「そうか、ここで働くことにしたんだ」
「ええ。やっぱり、ダンジョン運営に携わりたいと思って」
固い握手を交わし、懐かしさに少しだけ気持ちが緩む。でも、すぐに本題に戻らなければ。
「話は聞いていました。トラップの数が足りていないとか。でも、うちのボスが言う通り、設置数は限界に達しています」
ラルクくんの声は穏やかだが、内容ははっきりしている。つまり、これ以上の追加は無理ということだ。
「やっぱり、そうか……」
天井を仰ぐ。無理を通すにも限界がある。もし冒険者の進撃を止めるために新しい手が必要だとしたら、それは……トラップを使わない方法。
ふと、ある考えが頭に浮かんだ。
「分かりました。では、トラップの設置は不要です」
言った瞬間、部屋が静まり返った。責任者もラルクくんも目を見開いている。
「え、いいんですか? 一つもなくて」
ラルクくんが思わず声を漏らす。
「うちの負担が減るなら、問題ない。どう対応するか見ものだな」
責任者がニヤリと笑った。その目にはまだ軽蔑の色が残っていたが、挑発としてはちょうどいい。
「安心してください。こっちには策がありますから」
口元だけは自信ありげに笑ってみせた。ハッタリでも、こういうときは効く。
その足で、僕は次の目的地――ギルドへと向かった。
ギルドの受付には、ジャスミンさんがいた。今日も変わらぬ笑顔で迎えてくれる。
「やはり、ギルドにも助けを求めに来ましたか」
彼女はわざとらしく驚いた表情を作っている。おそらく、来ることを予期していたに違いない。
「それで、私は何をすればいいのでしょうか?」
「結論から言います。『トラップを見つけたら、モンスター討伐の倍の報酬を出す』というミッションを追加してください」
その瞬間、彼女の目が丸くなる。
「え、そんなことしたら、ギルド破産しますよ!?」
僕は、トラップ設置課でのやりとりを端的に説明する。すべては、冒険者の意識を「モンスター討伐」から「トラップ探し」に変えるため。トラップがなくても「ある」と思わせられれば、彼らは足を止める。心理的な足止めだ。
「なるほど、それなら大丈夫そうですね。レアアイテムのキャンペーンはやりましたが、別の方向で冒険者の行動を操るなんて、さすがです」
ジャスミンさんの目が一瞬だけ本気のものになる。こうして評価してくれると、なんだか背筋が伸びる。
「さて、早速ミッション追加ですね」
そう言って、彼女は慣れた手つきでギルドの掲示板に向かっていった。
よし、これで下準備はすべて整った。
あとは、モンスターたちの配置と、作戦の最終調整だけだ。
「ほう、そういうことか。シモン、やるじゃないか。あとはリビングアーマーたちの配置だな。こればかりは、エミリーの復帰を待つしか――」
カルロスさんがそう言いかけたとき、執務室の扉がバンッと勢いよく開いた。
「誰を待つって?」
軽やかな声とともに姿を現したのは、エミリーさんだった。
「おいおい、大丈夫なのか?」
カルロスさんが目を丸くする。
「ええ、もちろん。まだ少し頭が痛いけどね。それは、二人も一緒でしょ?」
「まあな」と、カルロスさんが苦笑する。
僕も小さくうなずいた。季節の変わり目の偏頭痛はまだ続いているが、何よりエミリーさんが戻ってきてくれたのは心強い。
彼女がいるだけで、現場の士気はまったく違ってくる。
「さあ、冒険者の進撃を止めるわよ」
その言葉に、カルロスさんが肩をすくめた。
「そのセリフ、俺が言いたかったんだが……」
普段通りのやりとり。思わず口元がゆるんだ。
僕たちは再び一丸となって、リビングアーマーとスフィンクスの配置を完了させた。どちらも状態は良好。リビングアーマーは金属が軋むたびに低い唸りを上げ、スフィンクスはじっと前を見据えながら、謎かけの練習をしている。
そして冒険者たちはというと――
「これ、罠じゃね?」「ああ、明らかにありそうだけど……まさか見つければ報酬倍とはな」
罠の“存在しない”罠に翻弄され、警戒を強めて慎重な探索を強いられている。もともと大胆な行動力がウリの彼らだが、「報酬倍」の誘惑と「目に見えない危機」によって完全にペースを崩されていた。
まさに、こっちの思惑通り。
「すべてが終わったら、ボスに報告だな。その役目は、シモンに任せた」
カルロスさんが言った。
「え、僕ですか?」
「当然だ。今回のMVPはシモン、お前だ。俺が手柄を横取りするわけにはいかないからな」
少し照れくさいが、嬉しかった。やれるだけのことはやった。あとは、ライルさんに報告するだけだ。
執務室に入ると、ライルさんはすでに僕の訪問を察していたようで、書類に目を通しながら小さくうなずいた。
「なるほど、事態は収束したわけだな。さすがだ、シモン。給料アップだ」
思わず、声に出しそうになった。月末の支払いに悩んでいたこのタイミングで、その言葉は救い以外のなにものでもなかった。
「だが、それだけでは終わらない」
「と、言いますと……?」
ライルさんは静かに、机の引き出しを開けた。中から取り出されたのは一枚の用紙だった。写真付きの人事記録。写っていたのは、見覚えのない若者の顔だった。
「実はな、近いうちにモンスター管理課に新人がやってくる」
「え、この前のインターンシップは、その……」
言いよどんでしまう。あれは正直、成功とは言えなかった。誰よりも僕自身が痛感している。
「ああ、うまくいかなかった。だが、君と同じくインターンシップなしでうちに来るという変わり者がいてね」
この職場はクセのある人物ばかりだが、その中でもさらに異端のようだ。
「でも、この話はカルロスさんたちには言ってないんですよね?」
「ああ、その通りだ。この一件は、君に一番に知らせるべきだと思った。なぜなら――君の部下になるからだ」
ライルさんの言葉に、僕は思わず息を飲んだ。部屋の空気が一瞬で変わる。
「え、僕の部下ですか!?」
驚きすぎて、声が裏返りそうになるのを必死に抑える。
ライルさんは無言のまま、重々しくうなずいた。
「最初はカルロスに任せるつもりだった。だが、今回の問題解決にあたって様々な手を使うのを見て、君の成長を実感した。次のステップに進むべき時がきた。さあ、カルロスたちに報告してきなさい」
正直、いろんな感情が胸を駆け巡っていた。嬉しさ、責任、そして緊張。
でも、やってやろうじゃないか。
僕は背筋を伸ばし、執務室のドアを開けた。
長かった偏頭痛の季節も、どうやら終わりが近いようだ。
そして、新しい風が、モンスター管理課に吹こうとしていた。