モンスター管理課の執務室に、いつもより少しだけ緊張した空気が漂っていた。
「さて、いよいよこの日がやって来た。紹介しよう。今日からモンスター管理課に配属される新人だ」
カルロスさんの声がいつも以上に張っているのは、緊張を隠すためか、それともただの演出か。執務室の中心で紹介される青年は、制服の襟元をぎこちなく整え、落ち着かない視線を周囲にさまよわせていた。年齢は僕と同じくらいか、少し下かもしれない。
「えっと、アーノルドといいます。今日からよろしくお願いいたします!」
彼の声はよく通っていたが、わずかに震えていた。それは緊張から来るものだと一目でわかる。
「まったく、カルロスが仰々しいから萎縮してるじゃない」
エミリーさんがくすくすと笑いながら、いつもの軽やかな調子で口を開いた。そんな彼女の態度が場を少し和ませたのは言うまでもない。彼女は何気ない一言で空気を変える天才だ。
しかし、緊張していたのはアーノルドくんだけではない。実は僕も同じだった。というのも、今日から彼は“僕の”部下になるのだ。上司として、どのように接すればよいのか分からない。右も左も分からなかった新人時代を思い出して、思わず肩に力が入ってしまう。
昨日カルロスさんに相談した時のことが頭をよぎった。
「どうやって新人と接すればいいんでしょうか?」
僕が真剣な表情で尋ねると、彼はおおげさに笑って肩をすくめながらこう言ったのだ。
「勢いだよ、勢い! シモン、お前は真面目すぎるんだって!」
まったく参考にならない。けれど、あのカルロスさんが現場を何年も仕切ってきたのは事実だ。その“勢い”も、案外バカにできないのかもしれない。
「僕はシモン。君の上司だ」
改めて“上司”という言葉を口にすると、ぐっと実感が湧いてくる。新しい責任と、新しい一歩の始まり。
「よろしくお願いいたします!」
アーノルドくんは、ぱっと表情を明るくして、力強く僕と握手を交わした。彼の手は少し汗ばんでいたけれど、その中にはしっかりとした意志が感じられた。
「いやー、シモンに部下ができるなんてな。俺の指導の賜物に違いない」
そう言って、カルロスさんが豪快に僕の背中をバシンと叩いてきた。見た目以上に力が強いから、思わず前につんのめりそうになる。
「さて、早速だが業務の時間だぞ。今日は――」
カルロスさんが口を開いた瞬間、執務室の扉が勢いよく開かれた。いつもの光景だった。けれど、アーノルドくんには衝撃的だったようだ。
そこには、金貨の詰まった麻袋を肩に担いだジャスミンさんが立っていた。冒険者ギルド所属、そして僕たちの“裏の協力者”でもある。
「え、ちょっと待ってください! 彼女は冒険者ギルドの方ですよね? なんでここに……?」
驚きのあまり、アーノルドくんの目が泳いでいる。口をぱくぱくさせて、言葉を探している姿は、まるで昔の僕を見ているようだった。
「ここだけの秘密だけど、ギルドとは裏でつながっているんだ。そして、ジャスミンさんはギルドから報酬の一部を持ってくる。これが、ここの日常なんだ」
驚きのあまり硬直したままのアーノルドくんに、ジャスミンさんがにこやかに笑いかける。
「なるほど、この人が新人さんですか。初々しいですね」
彼女の言葉に、僕は思わず小さく頷いた。そう、まさに初々しい。過去の自分を重ねずにはいられない。
ジャスミンさんはいつものようにカウンターに麻袋をドンと置く。中の金貨が、ジャラジャラと小気味よい音を立てた。どうやら、今日は相当な量のようだ。
「私はギルドで仕事が待ってますから、このへんで失礼しますね」
あくまで軽やかに、彼女は部屋を後にした。扉が閉まる音が、場の雰囲気を次の段階へと導いていく。
「さて、業務開始だ! シモン、あとは頼むぞ」
宣言のようにカルロスさんが声を張り上げる。と思ったら、次の瞬間にはソファーにドカッと腰を落ち着けていた。
「え、カルロスさん? まさか、仕事をしないつもりじゃ……」
さすがに唖然として問いかけると、カルロスさんは胸を張って言い放った。
「シモン、人聞きが悪いな。俺は、お前の成長を思って任せてるんだよ」
そう言いながら、隣のエミリーさんが「サボる気満々ね」と小声で突っ込む。そっと、それに頷いてしまう。
でも、こういうやり取りも含めて、これが僕たちの日常だ。
「じゃあ、今日は簡単な仕事から始めようか」
この日のために、初めてでも無理なくこなせる業務をいくつかピックアップしておいた。
「まずは、モンスターの育成だ。グリフォンを育てようか」
言いながら、エミリーさんと目を合わせる。彼女が微かに頷く。教育場へ連れて行く許可は、事前にしっかり取ってある。
「グリフォンの育成ですか? 初日にしてはハードルが高い気がするんですが……」
アーノルドくんの声が、少し上ずっている。無理もない。グリフォンは中級以上のモンスター。初仕事としては荷が重く見えるかもしれない。
だからこそ、フォローが重要だ。
「大丈夫、マニュアルがあるから簡単さ!」
頼れる先輩風に言ったつもりだったが、果たして通じただろうか。
教育場へと向かう道すがら、アーノルドくんは緊張を隠そうともしない様子で、何度も深呼吸していた。
「そんなに肩に力を入れなくていいよ。初日なんだから、失敗して当然くらいの気持ちでいい」
少しでも緊張をほぐそうと声をかけると、彼は恥ずかしそうに笑った。
「でも、どうしても……ちゃんとやりたいんです。配属されたからには、即戦力になりたいって……」
その言葉に、思わず感心してしまう。今どきの新人にしては、ずいぶんと真面目で前向きだ。僕が同じ頃は、ただただ要領よくサボる方法ばかり考えていた気がする。
教育場の扉を開けると、モンスターたちの活気が一気に飛び込んできた。
スライムたちは、ぴょんぴょんと弾むように跳ねながら、魔力コントロールの訓練をしている。サイクロプスは、丸太を担いでランニング。腕立て伏せをしている個体もいる。ゴブリンたちは、パートナー同士で戦術の確認中だ。カタコトの言葉を使いながら、懸命にジェスチャーを交えて意思疎通している姿が、なんとも微笑ましい。
「なるほど……こうやって、ちゃんと鍛えられてるんですね」
アーノルドくんが思わず感嘆の声をもらした。現場の空気に圧倒されているのが見て取れる。
「こっちにおいで。育成マニュアルはここだよ」
机の上には分厚いファイルが置かれていた。何年も改訂を重ねた実戦マニュアルで、グリフォンの育成に必要な素材や工程、注意点が細かく記載されている。
「ここにグリフォンの育成方法が載ってる。素材の準備、魔力の注入、整形、そして最後の生命気の吹き込みまで、全部マニュアル通りにやれば問題ない」
「はい、がんばってみます!」
机には、すでに必要な素材が整えられていた。二人で作業に取りかかろうとしたときだった。
地を揺るがすような咆哮が、教育場全体に響き渡った。振り返ると、ヤマタノオロチが柵をなぎ倒し、ゆっくりとこちらににじり寄ってきていた。
「うわ、まずい! エミリーさんを呼んでくるから、そのまま待ってて!」
事態を把握した瞬間、僕は踵を返して全力で駆け出した。後ろでは、スライムやゴブリンまでもが柵の隙間から抜け出そうとしている。まるで、「オロチが出るなら自分たちも!」と便乗するかのような様子だった。
「アーノルドくんが来た日に、こんなトラブルが起きるなんて……」
状況を呪いたくなるほどのタイミングだった。
「エミリーさん、大変です!」
執務室のドアを勢いよく開けると、カルロスさんとエミリーさんが紅茶を飲みながら雑談をしているところだった。どうやら完全にオフモードだったらしい。
「どうしたのよ、そんなに慌てて」
カップを置きながら立ち上がるエミリーさん。その瞬間、僕の焦りが伝わったのか、彼女の顔色がさっと変わった。
「教育場にきてください。ヤマタノオロチたちが逃げ出そうとしています!」
「本当!? あの子たち、やってくれたわね……」
エミリーさんがすぐさま準備を整え、走り出す。
「おい、シモン! アーノルドはどうした?」
カルロスさんの鋭い問いが飛んできた。
「え、教育場ですけど」
「それ、まずくないか? モンスターがうろうろしてるんだろ?」
言われてハッとした。そうだ。僕は、アーノルドくんを教育場に一人残したままだった。
「あいつが食われてなきゃいいが……」
カルロスさんの一言に、背筋がゾワッとした。
教育場に戻ると、エミリーさんが先に到着していた。彼女は毅然とした表情で、モンスターたちの前に立ちはだかっている。
「ほら、みんな落ち着いて。ちゃんと順番に出してあげるから」
その穏やかな声とは裏腹に、背中には静かな迫力があった。まるで母親がいたずら盛りの子どもたちを叱っているような雰囲気で、スライムもゴブリンも、しょんぼりと元の位置に戻っていった。
「エミリーさん、ありがとうございます」
「当然でしょ。で、アーノルドは?」
視線を教育場の奥へ移すと、そこには素材棚の前で何かを見せようと手を振っているアーノルドくんの姿があった。
「シモンさん、これ見てください!」
無邪気に笑って、出来上がったモンスターを指さしている。そこには、たしかに立派なモンスターが完成していた……が。
「え、これって……」
僕の声が思わず素になった。目の前の“それ”は、明らかにグリフォンじゃなかった。鋭い爪に覆われた前脚、蛇のようにうねる尻尾、そして――何よりも、頭がライオンだった。
「これ、キマイラだよ、アーノルドくん」
しばしの沈黙が落ちる。
彼の目がゆっくりとマニュアルに向かう。そこには確かに「キマイラの育成手順」が書かれていた。ただ、タイトルの文字が水に濡れたのか滲んでいて、はっきりと判読できない。
「え、嘘……。マニュアルの通りに作ったんです。グリフォンのページを……」
アーノルドくんは顔を真っ赤にしながらうつむいた。拳をぎゅっと握りしめている。
「気にすることはないさ。僕だって、新人の頃は大失敗をしたんだから」
「え?」
彼が顔を上げる。驚いたような目だった。
「昔さ、クラーケンの素材を間違えて、足を十本にしちゃったんだ。“触手多ければ強いだろう”って勝手に思って、結局それ、暴走して大変なことに……」
「……本当ですか?」
「嘘じゃないよ。エミリーさんにフォローしてもらったからなんとかなったけど、あの時は冷や汗が止まらなかったなあ」
と、言ったところで。
「その通りよ。あの時の後処理、私がどれだけ大変だったか……」
気がつけば、いつの間にか後ろにエミリーさんが立っていた。あの時のことを思い出したのか、肩をすくめながら苦笑している。
「でもね、アーノルドくん。シモンの時より、あなたの方がマシよ」
「えっ?」
「だって、マニュアル通りとはいえ、初日でキマイラを育成できたのよ? 難度的にはグリフォンより上。むしろ、優秀じゃない」
エミリーさんの言葉に、アーノルドくんの目がわずかに潤んだ。自信を取り戻すように、背筋を伸ばす。
「ありがとうございます……! 次こそは、間違えずに!」
その言葉に、思わず頷いていた。うん、やっぱりいい新人だ。
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「お、三人とも戻ったか。アーノルドは……生きてるな」
執務室のソファで体を横たえていたカルロスさんが、片目だけ開けて声をかけてきた。
口元には乾いたヨダレの跡。おそらく、さっきまでぐっすり寝ていたのだろう。
「で、グリフォンはうまく育成できたか?」
「それが間違って、キマイラを育てちゃって……」
僕の報告に、カルロスさんの目が見開かれる。
「マジか。それは……まあ、やっちまったな」
棒読み。わかりやすすぎるほどの棒読みだった。
「ま、でもな。初日から派手なミスをするやつほど、意外と伸びるもんさ。な、シモン?」
「……なんで僕を見るんですか」
「お前も昔、アホみたいなミスばっかりしてただろ? でも今じゃ立派な先輩だ。部下を持って、ちゃんとフォローして、こうして戻ってきてる。ほら、立派になったもんだ」
わざとらしい涙をぬぐうジェスチャーをしながら、カルロスさんはにやけている。完全に遊んでる。でも、その言葉にどこか本音が混じっているのも、わかっていた。
「まあ、何はともあれ――」
カルロスさんは腕をぐいと広げて、叫ぶ。
「歓迎会だ! 今日の主役はアーノルド、お前だ!」
「えっ、いいんですか!? 僕、キマイラ育てちゃったのに……」
「そんなの関係ないさ。ようこそ、俺たちのモンスター管理課へ!」
「お酒が飲みたいだけでしょ……」と、エミリーさんがぼそり。
でも、僕は少しだけ笑っていた。いつも通りのやりとり。だけど、そこに一人、新しい風が加わっている。
こうして、アーノルドくんの初日は、にぎやかに、そしてちょっとだけ特別に幕を閉じていった――。