「気を付けてね」
メルが心細そうな視線をステマに投げかける。こんな表情を見るのは初めてだ。メルはステマには、強い母親という一面しか見せてこなかった。何が起きようと、「大丈夫」と言ってどんと構えていた。そんなメルが不安になっている。ステマは、こっそり拳を握りしめる。
「お土産は期待しないでよね」
ステマは、おどけて言ってみる。大丈夫。ちゃんと笑えた。たぶん。
リベロは何か言いたそうな顔をして立ちすくんでいた。ステマは、ただ黙って頷いてみせた。生まれて初めて、何日間か一緒に過ごしてみてわかったことは、ステマはどうもリベロと話がはずまない。だからきっと、今は頷くだけで十分だ。リベロの方も、ただ頷き返してきただけだから、それで間違っていないのだと思う。
ステマは、見慣れた家を見回した。まさか、ここをこんな風に離れることになるとは思わなかった。いつもは何も感じないのに、いざ離れるとなると急に愛おしくなるのが不思議だった。
深呼吸をすると、ステマはドアを開ける。
これでもかというほどに晴れた空がステマを待ち受けている。
申し分ない出発日和だ。
「行ってきます」
必ず帰ることを誓い、ステマは声を張り上げた。
「……で、何で付いてくるのよ」
家を出て少し歩いたところで、ステマは足を止めて言った。
「だって、ステマだけじゃ、心許ないんだもん」
しっかりと旅の装備をしているシゲがさらっと言う。
ステマは不満だった。もともと、シゲを連れて行く気はなかったのだ。この旅を通して、ステマはリベロに対する気持ちをはっきりさせたかった。それなのに、シゲも一緒にいるのでは気が散りそうだ。それに、シゲを危険な旅に巻き込みたくないというのもある。
「危険な旅になるのよ」
「それなら、尚更一人では行かせられないよ。だって、私ステマより魔法できるし」
「うぅ……」
それを言われてしまうと、正直言葉に詰まる。いい加減なステマとは違い、シゲは生真面目で勉強熱心なところがある。ステマが大して使いもせずに積み上げている学校の教科書を見ながら、空き時間に勉強しては、一人実践練習もしていた。そりゃあ、半分寝ぼけながら授業を受けること以外何もしていないステマより、実力が付くわけだ。
「リンもそう思うよねぇ」
シゲは、ステマたちの少し前を歩いている白猫――リンに話しかけた。
リンは、寝室でリベロと話していたあの日に、家にやってきた猫だ。あの日、話が終わったステマが寝室から出ようとドアを開けると、廊下にリンがステマを待っていたかのように座っていたのだ。どこから入って来たのか、結局わからず終いになってしまった。
ステマは野良猫だと思って、リンを外に出そうとしたけれど、なぜかリベロがそれを許さなかった。それどころか、今回の旅に連れて行けとまで言うのだ。
「必要なことは、全てこの猫が教えてくれるはずだ」
リベロはそう言って譲らなかった。
そういうわけで、ステマたちはリンに導かれるままに歩いている。何だか変な気分だ。
純白の毛並みに、宝石のような青い瞳。リンという名前の由来にもなった、鈴を転がしたような可愛らしい鳴き声。
リンは愛くるしい見た目をしている。だけど、ステマはリンを見ても癒されることはない。どこか、他の猫とは違う圧のようなものを感じる。それに、ステマのことを全て見透かしているような目付きをしているから、見つめられると落ち着かない。そういえば、リベロも初めてリンを見た時、とても驚いた顔をしていた。やっぱり、普通の猫とは違うのだろう。
リンのことといい、わからないことが多過ぎる。
そもそも、封印したはずのゼドがどうやって復活したのかもわからない。
魔石に何かがあったのかと思ったけれど、魔石は無事だとリベロは言っていた。彼がどうしてそう言い切れるのかはわからないけれど、今はその言葉を信じるしかない。
(とにかく、進むしかないな)
ステマは、目の前でゆらゆら揺れるリンのしっぽを見つめながら思った。
「リンは、北の方角に向かって歩いてるな。ということは、最初の行先は『静寂の森』か」
シゲが何でもないことのように言う。どうせどこから行ったって危険なのだから、行先に関してはこだわっていないのだろう。それはステマも同じだった。
ステマは地図を見てみる。この距離感だと静寂の森までは、一日歩けば着くだろう。この国はそんなに大きくはないのだ。
「この距離なら、瞬間移動魔法で一気に行っちゃおうよ。そしたらすぐに魔石探せるし」
最低限とはいえ、旅の装備を背負って歩くのは疲れる。静寂の森なんていう得体の知れない場所で魔石を探さなければいけないことを考えると、移動で体力を消耗したくない。そう思って、ステマは提案してみる。
「ダメ。徒歩一択」
「え、どうして? 魔法使った方が速いじゃない」
ステマは、納得できずに頬を膨らませる。
「そんな顔したってダメだからね。瞬間移動魔法を使えば、魔力を消耗するでしょう。その状態で森に入るわけにはいかない」
「一日休んでから入ればいいよ。それより一日歩き続ける方が辛いって。一晩寝たくらいじゃ、足の疲れは取れないよ」
「宿を取れなかったら、魔力ない状態で野宿だけどいいの?」
そう言われてしまうと、ステマは何も言い返せない。外には、動物や物取りがたくさんいる。万全に魔法を使えない時にそれらに遭遇してしまえば、自分たちにはどうしようもない。それに比べたら、体力を消耗する方がマシだ。
大人しく歩き始めたステマを見て、シゲは楽しそうに笑う。
「旅は余裕が大事だよ。急がず行こう、若者よ」
「……五つしか歳変わらないじゃない」
それで大人ぶられても困る。ステマは、ぶつぶつと口の中で、子供扱いされたことへの不満を呟いた。
ニャーン。
少し先から、黙って歩けとでも言うようなリンの鳴き声が聞こえる。シゲも明るく言う。
「さあ、旅は始まったばかりだよ。焦らず、進めるところまで行こう」
何はともあれ、旅の方針が決まった。