「いよいよね」
ステマは、手を握りしめる。圧倒的な存在感を放つ森を前に、気持ちを落ち着かせることに必死だった。
リンの言葉に従い、こっそりとアキの家を抜け出してきたステマたちは、明け方には『静寂の森』に辿り着いていた。書置きを残しただけで出てきてしまったことに罪悪感を覚えていたステマだったが、もうここまで来てしまったら仕方がないと、気持ちを切り替えることにする。
(無事に魔石を見つけたら、ちゃんとお礼を言いに行こう)
ステマは心に誓った。
「あ、リン、待ちなさい」
シゲが慌てたように言う。リンは、ステマたちを置いてさっさと森に入って行ってしまっていた。森の奥は、暗くて見通せない。空気も陰のものが集まって淀んでいる気がする。
ニャア。
木々の影から、リンの鳴き声が聞こえてくる。
(行くしかない)
ステマとシゲは頷き合う。
二人は『静寂の森』へ一歩を踏み出した。
森の中に入ると、ステマは視界が急に暗くなったように感じた。木々が鬱蒼と茂り、太陽の光はわずかしか届かない。そして、妙に静かだ。でも、決して無音というわけではない。耳を澄ませば木葉が風で擦れる音や、虫の声などが聞こえる。でも、確かにここは『静寂の森』だ。寒々とした気配が、森全体に満ちているのを感じる。
「こんな深い森、迷ったら出られなくなりそう」
「方角だけは見失わないようにしないと」
ステマたちは、そんな会話をしながらリンを追いかける。必要なことは、全てこの猫が教えてくれるはず。リベロはそう言っていた。リンに付いて行けば、魔石を見つけられる。そんな気がしていた。
リンは、どんどん奥に向かって歩いて行く。それに付いて行きながら、ステマは自分の足が立てる音を聞く。落ちている小枝を踏む度に、パキッという乾いた音がした。
パキ、パキ、パキ。
ステマとシゲの足音が、一定のリズムで響く。
「リン、どこまで行くつもりなんだろう」
シゲが呟く。リンは、止まる様子がない。一直線にどこかを目指しているように、迷いのない足取りだ。
(やっぱり、リンは魔石の在り処を知ってる)
ステマはリンの様子を見て、リンに付いて行くという判断が間違っていなかったことを確信する。もう、行けるところまで行くつもりだ。
しばらく歩くと、少し開けた場所に出た。さっきよりも木の密集具合が少ないおかげで、見通しが良い。それなのに、陽の光が届かないせいで、暗いのは変わらないけれど。
パキ、パキ、パキ。
ステマたちは、まだ止まる気配のないリンを追いかけて、小枝を踏み鳴らす。
ステマとシゲは、しばらくその一定のリズムを刻んでいた。
ザッザッ。
小枝が折れる音の中に、微かな別の音が混ざるのを、ステマは聞き逃さなかった。地面に足を擦り付けながら歩いているような音だ。
ザッザッ、ザッザッ。
よく聞いてみると、その音は一つではなく、いくつも重なって聞こえる。
(誰かいる。それも、複数)
ステマの心臓が、激しく鼓動し始める。先を歩いていたリンも、ピタリと足を止めた。リンは、しっぽを立てて低く唸っている。
何かが、来る。
囲まれるまでは、一瞬だった。
それらは、いきなり茂みから飛び出してくると、ステマたちの周りに円を描くように並ぶ。そして、歯をむき出しにして大きな唸り声を上げた。
「魔物……! やっぱり出たわね」
ステマの掌に汗がにじむ。緑色の身体に、飛び出しそうなほど大きな目。指が長い手足。身体の形は猿を思わせた。魔物は、気味の悪い見た目をしているが、背丈はステマより頭一つ分低いくらいで、そんなに大きい方ではない。
ステマが正面にいる魔物の頭上に意識を集中させるのと、魔物たちが飛び掛かってくるのはほぼ同時だった。
「落ちろ」
ステマが言った途端、ドン! という大きな音と共に、周囲が明るくなる。魔物の上に、雷を落としたのだ。ステマが狙いを付けた三体の魔物は、地面に伸びている。
一方のシゲも、目の前の魔物と対峙していた。
「凍れ」
シゲは、次々と魔物の身体凍らせていく。氷に包まれた魔物は、成すすべもなく動きを封じられている。
魔物単体は、そんなに強くない。
でも。
「数が多すぎるな」
シゲが、倒しても倒しても湧き出てくる魔物を見て言う。ずっとこんな調子では、ステマたちの魔力が切れてしまう。何とか振り切って先に行きたいけれど、そんなことは不可能なほど、周囲は魔物で埋め尽くされていた。
(このままじゃ、まずい)
でも今、ステマたちにできるのは、目の前の魔物を地道に倒していくことだけ。
――『静寂の森』には入るな。君たちの手に負える場所じゃない。
今更ながら、アキの言葉を思い出す。
「さっさといなくなってよ……!」
ステマが、魔物に向かって叫んだ時だった。
ガンガンガン!
頭に響くような金属音が鳴った。魔物たちの動きが急に止まる。魔物たちは、耳を塞ぎながら、苦しそうに頭を振り始めた。
ガンガンガン! ガンガンガン!
金属音は、途切れることなく鳴り続けている。
「あぁ……!」
ついに魔物たちは、悲鳴を上げ始めた。そして、一斉にステマたちに背を向けると、次々と茂みの奥に消えて行く。ステマたちは、呆然とその様を見ていることしかできなかった。
最後の一体が茂みに消えてしばらくして、ようやく金属音が鳴りやんだ。
ステマは周りを見回す。近くに魔物が潜んでいそうな気配は感じない。
「助かった……」
ステマがほっと息を吐いた時、「大馬鹿者!」という怒鳴り声と共に、アキがするすると木から降りてきた。その手には、鍋の蓋とお玉が握られている。金属音の正体はこれだったのだ。
「どうして……」
ステマは、アキを前にぽかんとする。
「放っておけなかったんだよ!」
アキは声を荒げる。
「物音がした気がして、君たちの部屋に行ってみればもぬけの殻で、残されてるのは『ごめんなさい』という書置きだけ。二人で森に行ったんだ――。そう思った時の俺の気持ちがわかるか?」
ステマとシゲは、ただアキを見つめることしかできなかった。
「もう誰も、兄さんみたいになってほしくないんだ」
アキは、ぽつりぽつりと語り始める。
「兄さんは、優しくて、家族思いな尊敬できる人間だった。俺も大好きだったよ。最高の兄貴だった」
アキには、サンという兄がいた。
サンはアキより十歳上で、真面目な働き者だった。幼かったアキは、そんな兄のことを慕っていたが、サンは自分に満足していなかったようだ。年齢を重ねるにつれ、サンは平凡な自分を厭うようになっていった。
「天才って、良いよな」
サンはよく、そう言っていたらしい。
「兄さんは、天才に憧れていた。一番になりたがった。だから、『無限の魔力』の言い伝えに飛びついてしまったんだと思う」
ポキト村には、今から三十年ほど前から『静寂の森』の中心に行けば、『無限の魔力』を得ることができるという言い伝えがある。『無限の魔力』を手に入れることができた者は、この世の魔法を思うがままに操れると伝えられていて、この言い伝えを信じて力を欲する者も多く現れた。
言い伝えが誕生したと言われる三十年前は、たくさんの人間が勇んで静寂の森へと入って行ったと言われている。
しかし、誰一人として、戻ってくる者はいなかったそうだ。
そういう経緯があったから、年々、魔力目当てに森に入る人間は減っていった。
でも、サンは危険など目に入っていなかった。
今から十二年前、つまり言い伝えが生まれてから十八年経った日、サンは一人、森に入って行った。
そして、現在もその行方はわかっていない。
「兄さんの後に、森に入った人間はいない。もう、森に行く人が増えないように、無限の魔力の話をしてはいけないというのが、村での暗黙の了解だ。だから、子供たちはこの言い伝えを知らないんだ。コウもね……。村は人の出入りが少ないし、このまま言い伝えは忘れられていくものだと思ってたんだ。それなのに、まさか村の外にまで広がっていたなんて……」
アキが悔しそうに言う。
「あの……! 私たちは、『無限の魔力』がほしくて森に来たんじゃないんです」
「え?」
アキは、ステマの言葉に驚いた顔をして「じゃあ、どうして森に?」と尋ねる。
「私たちは、ゼドを封印するために魔石を探す旅をしているんです」
ステマは、全てを話す。ゼドの封印には、三つの魔石が必要なこと。そのうちの一つが、ここ『静寂の森』にあること。
アキは、ステマの話を聞くと、「ごめん」と謝る。
「勝手に魔力目当てだと思って、色々酷いこと言った」
ステマとシゲは首を振る。
「危険だから言ってくれてたのは、わかってます」
ステマは言う。出会ったばかりの自分たちを心配してくれるアキの気持ちが、温かかった。
「本当に、ごめんなさい……! そして、ありがとうございました」
ステマはアキの目を見つめて言う。アキの表情が、少し柔らかくなる。その瞳は冷たい気配が漂う森の中にある、灯火みたいだった。
「あのさ」
アキは、真剣な眼差しをステマたちに向けて切り出す。
「――魔石探し、俺にも手伝わせてくれないか?」
ステマとシゲは、驚きのあまり言葉を失う。まさか、そんなことを言われるなんて。
でも、アキの目は本気だ。真っ直ぐな視線からは、偽りを感じ取れない。
「それはダメです。アキさんを巻き込むわけには……!」
ステマは反対する。シゲも「気持ちだけで嬉しいです」と言っている。これでは、今までと立場が逆転してしまう。
でも、アキは譲ろうとはしなかった。
「ここまで来たんだ。俺だって、最後まで見届けたい。それに先に進んだら、兄さんに何があったのかがわかるかもしれない。頼む……」
頭を下げるアキを前に、ステマとシゲは顔を見合わせる。手伝ってもらえるのはありがたい。得体の知れないこの森の奥に行くのであれば、人数が多い方が心強くはある。
でも、危険に巻き込んでしまっても良いものだろうか。
(いや……。でも、この人は危険だってことは私たち以上に理解してる)
あれだけ、ステマたちを森から遠ざけようとしていたのだ。それなのに、先に進もうとする覚悟はどれほど強いだろう。
(これはもう、私たちは止めたらいけない)
ステマは、アキに手を差し出す。
「よろしく頼みますね、アキさん」
「アキでいいよ」
アキは、ステマの手を握り返す。温かく、力強い手だった。
リンも、アキの足の周りをくるくる歩き回っている。
「必ず魔石を見つけ出そう」
シゲの言葉を合図に、三人は一歩を踏み出した。
ステマ、シゲ、アキの三人は、リンの後に続いて森の奥を目指して歩く。
森は奥に行くにつれて、暗さを増していった。森全体が、影の中に沈んでいるように感じる。そのせいなのか、どうにも居心地が悪い。まるで、森から入るのを拒まれているような気がした。
ガンガンガン!
そんな不気味な空気を消し飛ばすような勢いで、アキは鍋の蓋をお玉で叩き続けていた。
「それ、何か意味あるの?」
シゲは、金属音に顔をしかめながら問いかける。近くでこの音を聞き続けていると、頭が割れそうだ。
「さっき、君たちが囲まれてた魔物は、金属音が苦手なんだ」
確かに、あの魔物たちはこの音を聞いた途端に逃げて行った。これは、魔物避けのためにやっていることなのだと、ステマは理解した。
(でも、魔物の前に私の耳がやられちゃいそう)
内心ではそんなことを考えつつも、ステマはアキの知識に感心する。
「よくそんなこと知ってたわね」
「ポキト村は森と近いだろう? だから、森の手前に住む魔物が時々やってきてしまうことがあるんだ」
それで、魔物の対処法を知っているのか。ステマは納得する。
アキが音を鳴らしているお陰なのか、さっきの魔物が現れる様子はない。それでも、どんな森にどんな魔物が棲んでいるのかわからない以上、油断は禁物だ。
だけど、しばらく進んでも新たな魔物に遭遇することはなかった。
「思ったより、何も起こらないのね」
ステマは、少し明るい気分になって言う。音を鳴らしていれば魔物に襲われないのであれば、魔石を探すのに集中できそうだ。
「一つ目は意外と簡単にいきそうね」
ステマは、足取り軽く歩くリンを見る。相変わらず、迷いのない歩き方だ。確実に目的地に近付いている感じがする。
「そんな簡単なわけないわ」
「きっと、これから何かがある」
しかし、シゲとアキは揃って言った。二人の表情はどこか曇っている。
「さっきの魔物だけなら、こんなに恐れられる場所になんてならなかったはず」
「ああ。いなくなった人たちも兄さんも、あの魔物が金属音に弱いことは知ってる。村の常識だからね。それなのに、帰って来られなかったということは、この先に何か恐ろしいものがあるはずなんだ」
言われてみればそうだ。
どうして、彼らは戻って来なかったのだろう。
ステマは、魔物に囲まれた時のことを思い出す。倒しても倒しても、湧き出てくる魔物。あのままだったら、確実に魔力切れでやられていた。地道に対処していては、どうにもならない相手を、アキはいとも簡単に追い払ってしまった。それだけの知識があった。
その、アキと同じ知識を持った人たちが負けた相手とは、一体どんな存在なのだろう。
そう考えると、ステマは背筋が冷えていくような気がした。
その時だった。
ピイ!
シエルが、空から舞い降りて来た。ずっと、空中からステマたちの様子を見ていたのだろう。
「どうした?」
アキは腕に留まらせたシエルに問いかける。
ピピッ!
シエルは、笛のようなさえずりで、一生懸命何かをアキに伝えようとしているようだ。シエルの話を聞いていたアキの表情が、段々強張っていく。
何かあったのだろうか。
「止まって!」
アキの声に、ステマとシゲは慌てて足を止める。
三人は、もう森の奥深くまで来ていた。周りには、木木木。それ以外のものは、何もない。完全に外の世界と隔たれてしまっているような感覚になった。
「どうしたの?」
ステマが問いかけるのと、「何かが来る!」とアキが叫んだのは、ほぼ同時だった。
「……!」
アキの声を聞いたステマは、咄嗟に頬を掠める刃を避けた。動きが速い。
ステマは、攻撃を仕掛けてきた相手を見る。
その相手は、黒い仮面を付け、黒い服を着ていた。模様も装飾も何もない。ただ、布を纏っているような恰好だ。まるで、森の闇から生まれたような見た目だった。手にしている剣だけが、白銀に輝いて浮かび上がって見えるほどだ。
(――人間?)
てっきりこの森には魔物しかいないものだと思っていたが、そうではなかったようだ。それにしても、あの気配の消し方はすごい。近付かれるまで、全く気が付かなかった。アキに教えてもらえなかったら攻撃を食らっていたところだ。
「誰?」
ステマは、できるだけ相手と距離を取りながら訊く。シゲも、こっそりと作った大きな氷柱を握りしめている。
「私は森の番人だ。ここは、森の中心。花の精様以外は、立ち入ることを許されない聖域だ」
真っ黒人間――番人は、剣の先をステマに向けて言う。
「『無限の魔力』を人間に渡すわけにはいかない」
『無限の魔力』という言葉に、アキが反応する。番人が何か重要なことを知っているのは間違いなさそうだ。
「私たちは、『無限の魔力』には興味がない。魔石がほしいの」
ステマは言った。リンはステマの足元で、少し先をじっと見ている。きっと、魔石はこの先にあるのだ。
何としてでも、先に進まなければならない。
「帰る気はないみたいだな」
番人は剣を構え直す。
「忠告したというのに、残念だ」
『無限の魔力』に興味がないと言っているのに、番人は話を聞く気もないようだ。面倒なことになった。話が通じない相手ほど、厄介なものはない。
番人が剣を振り上げるのと、シゲが氷柱を投げつけるのは同時だった。氷柱は、空気を割いて勢いよく飛んで行く。大きく振りかぶった番人の身体に、硬く鋭い氷柱の先端が刺さる。
しかし、氷柱はそのまま、番人の身体の中に消えていった。そしてその背後で、氷の破片が散らばる。氷柱は、番人の身体を通り抜けたのだ。
「どうして……?」
シゲは呟いたが、疑問に思っている暇などなかった。番人の剣がシゲのすぐ近くを掠める。アキは、番人の背後に回ると、鍋の蓋を思い切り番人の頭に振り下ろす。でも、鍋の蓋は何の手応えもなく、頭に沈み込んでしまう。まるで、蜃気楼を相手にしているみたいだ。
「二人とも離れて! ――落ちろ!」
ステマは、番人の頭の上に雷を落とす。
それでも、番人は何事も無かったかのように立っている。
(人間じゃない……!)
ステマは気付いた。番人に実体が無いということに。
「全く。人間は無駄な抵抗ばかりする」
番人は右手を挙げる。すると、地面から次から次へと、黒い仮面を付けた顔が出てきた。そして、胴体、足も地上に出てきて、自立し始める。
その全員が、番人と同じ格好をしていた。
「森の番人総出で倒してしまうことにしよう。時間の無駄だ」
最初からいた番人が、残りの番人に声をかける。数十人はいるであろう番人たちの視線が、一斉に三人に集まった。
(どうしたら……)
ステマは必死で考える。実体の無い相手に勝つ方法なんて、あるのだろうか。物理攻撃が効かない以上、相手の動きを封じるのは難しい。
頭の中が焦りでいっぱいになりかけた時、ステマは足の辺りに気配を感じた。
リンだ。
さっきまで木の下で大人しくしていたリンは、ステマのことをじっと見つめていた。ステマに何かを伝えようとしているようだ。
(もしかして、リンはこの状況を切り抜ける方法を伝えようとしてくれてるの?)
ステマは、はっとする。
――必要なことは、全てこの猫が教えてくれるはずだ。
リベロの言葉が、ステマの頭の中で木霊する。
「リン、どうしたらいいの?」
ニャア。
ステマに応えるように、リンが一声鳴く。その途端、聞き覚えのある歌が頭の中に流れ込んでくる。そう、聞こえるのではない。まさに、流れ込んでくる感覚だった。
『一つ目、風に揺れる葉の色
静かな森のその奥で
化け物たちが囲んでる
化け物たちの命はどこに?
見抜けた者こそ、魔石の主だ』
あの、不思議な夢で聞く歌だ!
きっと、この歌詞にヒントが隠されているということだろう。ステマは、心の中で歌を反復する。そして、ある歌詞に引っ掛かった。
――化け物たちの命はどこに?
見抜けた者こそ、魔石の主だ。
(もしかして、番人には別のところに実体がある……?)
この考えに至ったステマは、番人たちを必死に観察する。きっとどこかに、本当の身体があるはずだ。
シゲとアキは、諦めずに番人たちに攻撃し続けている。番人の剣とシゲの氷柱が、交わって音を立てる。その様子を見ていて、ステマは違和感を覚えた。
(何かがおかしい気がする)
きっと、その違和感こそ、番人を破る鍵となる。ステマはそう信じて観察を続ける。番人の頭から足まで、全てを隈なく見ているうち、ステマは違和感の正体に気が付いた。
(身体よりも、先に影が動いてる……!)
番人の身体は、影の動きを追うように動いている。それはおかしい。普通、身体と影は同時に動くものだ。
「シゲ、番人の影に氷柱を刺して!」
ステマは声を張り上げる。ステマが真剣なのがわかったのだろう。シゲは怪訝な顔をしながらも、番人の影に氷柱を突き立てる。
「うっ!」
その途端、番人の身体は消えて、剣だけが地面に残る。やはり、実体は影の方だったのだ。
「番人の実体は、影の方よ!」
ステマの声に、シゲは次々と番人の影を狙って氷柱を投げ始めた。アキも、消えた番人が残した剣を拾い上げ、影を切りつけている。
番人たちは、どんどん消えていく。
そして、ステマが最後の一人の影に剣を刺した時、辺りに透き通った美しい声が響いた。
「よく、真実を見抜きましたね」
三人が振り返ると、そこには美しい女性が立っていた。
陽だまり色の、煌びやかなドレスを身に纏い、腰まである若草色の髪を揺らした彼女の頭には、大きな花が咲いていた。四枚の花弁が付いた薄桃色の花は、今までステマが見てきたどの花よりも瑞々しく美しい。
「あなたは、花の精ですね」
ステマは問いかける。さっき、番人がここは、花の精以外立ち入ることが許されない聖域だと言っていた。
「ええ」
花の精は、目を伏せる。長い睫毛が、彼女に儚い印象を与えていた。
「『無限の魔力』に興味がないというのは、本当ですね?」
ステマは頷く。花の精は「あぁ」と声を漏らした。
「ごめんなさい。私、あなたたちに酷いことを……。怖かったんです。人間を信じるのが。人間に、強い魔力を与えるのが――」
花の精は顔を上げる。そして、真っ直ぐにステマたちを見た。
「あなたたちには全てをお話しします」
花の精は、凛とした声で言った。
話は三十年前に遡る。
その頃はまだ、『静寂の森』はそこまで恐れられていなかったらしい。当時もステマたちが遭遇した魔物はいたが、金属音さえ立てておけば襲われることはなかったようだ。
だから、今よりも気軽に森に入る人が多かった。
ある日、花の精は一人の少年と出会ったそうだ。
少年は西の方にある村に住んでいて、当時十歳。大人しいが魔法の才能に溢れた子供だったらしい。子供ながら、独学で瞬間移動魔法も使いこなしていたようだ。
初めて森に訪れた時、少年は一人泣いていたらしい。通常、精霊は人間に姿を見せないが、花の精はなぜか少年が放っておけなくて、話しかけた。
「今思えば、私は彼に、自分と同じ空気を感じたのだと思います」
花の精は、細い声で言った。
「僕、友達がいないんだ。人と上手くやっていけなくて」
話しているうち、少年は花の精にこう言ったそうだ。居場所がないから、こうして一人で森に来ているのだとも。
一方で、花の精も孤独だった。
話し相手もいない中、自らの使命に心を悩ませていたのだ。
「花の精には、『無限の魔力』を信頼できる人間に授けるという使命があります。そして、その使命を果たすと、次の花の精霊に代替わりするのです」
花の精は、静かな口調で〝使命〟について話し始める。
『無限の魔力』は、花の精の頭の花弁を全て食べることで得られるらしい。花弁は全部で五枚。その全てを誰かに与えた時、花の精の世代交代が行われる。
『無限の魔力』を手に入れた人間は、どんな魔法でも使えるようになると言っても過言ではない。ありとあらゆるものを自由にし、この世を治める神にも成りえる力。限りない可能性を秘めた力だからこそ、『無限の魔力』と呼ばれるのだ。
「この大きな力を、誰に授けるのかというのは重大な問題です。力を人のために使える人に授けなければならない—―。先代は、代替わりの時、私にそう言いました。私は、力を授ける相手を適切に選べるのか、不安で仕方なかったのです」
花の精と少年は、すぐに心を通わせた。毎日のように、静かな森で語らう日々。それは、二人にとってかけがえのない時間だったそうだ。
少年は、とても優しく、温かな心を持っていた。自然を慈しみ、平和な穏やかな暮らしを望んだ。そんな少年に、花の精は惹かれていった。
だから、花の精は少年に『無限の魔力』を与えることにした。少年の人生が、より豊かになれば良い。その一心だったそうだ。
「とはいえ、まだ彼は子供だったので、力の全てを与えるとなると不安でした。大き過ぎる力は、扱いが難しいですから。だから、私は一枚だけ彼に花弁を与えたのです。魔法の才能に溢れた彼なら、力を使いこなせると信じて……」
「素晴らしい力をあげるわ」
花の精がこう言った時、少年は戸惑いと喜びが入り混じったような表情をしていたという。
花弁を食べた少年は、問題なく力をその身に宿らせたように見えた。
それから数日間、少年は力を暴走させることもなく、今までと同じように暮らしていたそうだ。
しかし、魔力を授かってから一週間ほど経ったある日、少年が泣きながら森にやってきたというのだ。
少年は、いじめてきた相手に怒りを爆発させ、思わず魔法で火を放ってしまったそうだ。決して相手を傷つける気はなかったという。しかし、力を手に入れた少年の魔法の威力は、本人の想定を遥かに超える威力を持っていたのだ。少年が放った火は、いじめっ子もろとも、近くにあった家三軒を全て焼き尽くした。
少年は、自らの力を酷く恐れ、花の精の前で取り乱したそうだ。それでも、花の精になすすべはなかった。一度与えた力は、取り除くことができないのだ。
少年からは、笑顔いや、表情が消えた。すぐに森にも来なくなり、花の精もあの少年がどうなったのか、わからないという。
「彼の、あの光のない目が今でも忘れられません。大きな力は――一人の人間の心を壊してしまうことがあるのだと、知った時には全てが手遅れでした。私は浅はかだったのです」
花の精の声が震える。
しかし、事態はそれで終わらなかった。
ポキト村の村人の一人が、花の精の元にやって来たのだ。
彼は、花の精に一枚で良いから花弁がほしいと要求したそうだ。彼は花の精が少年に力を与える一部始終を見ていたのだ。あの頃は、まだ森に入って食料や木材を得る村人がいたらしく、彼もきのこを取りに森に入ったそうだ。そこで、花の精と少年のやり取りを見たという。
もちろん、花の精は断った。魔力の危険性も説明した。
しかし、彼は諦めなかったのだ。
それどころか、無理やり花の精から花弁を奪おうとした。
「それで、私は彼に魔法をかけ、『森の番人』に仕立て上げました。彼は、村で魔力のことを話したのでしょう。それから数人、立て続けに私の元へやって来る人々がいました。私はその人たちも皆、番人にしました。もう、誰にも魔力を渡してはいけない。そう思ったのです」
それから花の精は、やって来る人たちを番人に変え、花弁を守ってきた。そうしているうちに三十年という月日が流れ、村では「森にいる花の精の花弁を食べると『無限の魔力』を得られる」という話が「森に行くと『無限の魔力』が得られる」というものに変化していった。
「――これが、私がお話しできる全てです」
「じゃあ……兄さんは、番人に……」
アキが、話し終えた花の精の肩を掴む。
「兄さんを、よくも……」
アキは言葉にならない声を上げる。それはやがて、押し殺したような嗚咽に変わっていった。
ステマは、胸が締め付けられる気がした。番人たちは、三人の攻撃で消えてしまった。その中には、きっとアキの兄も――。
「番人たちにかけた魔法は、あなたたちが解いて下さいました。きっと今頃、彼らが一番帰りたいと思う場所に戻っているはずです」
アキはしばらく魂を抜かれたような顔をしていたが、状況を理解できると地面にへたり込んだ。
「良かった……」
アキが顔を覆う。彼もまた、森の呪縛から解放された一人なのかもしれない。
「あなたたちは、魔石がほしいのでしたね」
花の精に言われて、ステマは我に返る。ほっとして、本来の目的を忘れかけていた。リンが、呆れた目でステマを見ている。
(私って、本当にこういうところダメね)
ステマは、一人苦笑いする。
「これをあなたに……」
花の精は、服の袖から魔石を取り出す。
森が、柔らかな緑色の光に照らされる。その光の中にいると、森の木々に優しく抱き留められているかのような感覚になる。
ステマは、花の精から魔石を受け取る。まるで森の雫のようなそれを、ステマは大切に握りしめる。冷ややかな石の感触が、清々しい。
「この魔石は、先代がソルディアス様に託されたものなのです。次の魔石の主が現れるまで、しっかりと守ってほしいと」
「先代はソルディアス様とお知り合いなんですか?」
ステマは驚いて尋ねる。シゲとアキも、あまりに大きな名前が出たため、あんぐりと口を開けて間抜けな顔になってしまっている。
「知り合いも何も……先代が『無限の魔力』を与えた相手は、ソルディアス様なのです。ソルディアス様は力を使い、神になられ、今も私たちを見守って下さっています」
花の精は、嬉しそうに目を細める。彼女の笑顔を見たのは、これが初めてだ。ステマは、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
ステマは、魔石を見つめる。かつて、ソルディアスが手にしていたものを手にしている。そう思うと気が引き締まった。
「あなたに、頼みたいことがあるのですが」
花の精がステマを真っ直ぐに見つめて言う。
「何でしょう」
花の精は、静かに深呼吸をする。それから意を決したように、歌い上げるように言う。
「あなたに、『無限の魔力』を受け取っていただきたいのです」
「え? 私が?」
ステマは、驚きのあまり裏返った声で言う。
「あなた以外にはいないのです」
花の精は、ステマの手を握る。思いのほか、力強い握り方だった。
(どうしよう……)
ステマは、気持ちが追い付かずに目を白黒させる。そんなステマの肩に、シゲが軽く手を乗せて言った。
「頼み、聞いてあげなよ。私もステマしかいないと思うよ」
「えぇ…・・」
困ったステマは、アキに視線を送る。でもアキも、笑って何度も頷くのだった。
(ええい、しょうがない)
ステマも、覚悟を決めることにする。その意思表示として、花の精の目を見つめ返す。
「わかりました。私が受け取りましょう」
花の精の顔が、輝く。
「ありがとうございます! では、これを……」
花の精は、頭の四枚の花弁を千切り、一枚一枚重ねていく。そしてそれを、ステマに手渡した。
ステマは、渡された花弁をしばらく見つめる。
薄桃色の花弁は、姫が纏う衣のようだ。思い切って口に放り込んでみると、意外なことに味はしなかった。じっくりと咀嚼して、飲み込む。
シゲとアキが心配そうに、ステマを見ている。ステマも、どんな変化があるのかと期待と不安が半分ずつ混ざったような気分で構えた。
しばらく、森に沈黙が生まれる。
ドク、ドク、ドクと自分の心臓の鼓動が頭に響くのを感じながら、ステマはじっと変化が訪れるのを待っていた。
しかし、いつまで経っても、ステマに変化は起きそうもない。
「何も変わらない……みたいなんですけど」
不安になって尋ねると、花の精は優しく微笑んで言う。
「きっと、まだ覚醒していないのでしょう。そのうち、魔法の才能が花開くはずです」
とりあえず、心配しなくて良さそうだ。
ステマは、胸を撫で下した。
「本当にありがとうございました。――旅の幸運を祈っています」
花の精が、両手を天に向かって大きく上げる。その途端、ステマの視界が揺れる。
『無限の魔力』の受け渡し後、花の精はステマたちを森の外まで送り届けると申し出てくれたので、三人は彼女の魔法に身を任せることにしたのだ。ステマは目を閉じる。目を開ければもう、そこは森の外のはずだ。ステマは、右手にある魔石を強く握りしめる。
「森の外だ」
シゲの声が聞こえる。ステマは、ゆっくりと目を開けた。目に飛び込んでくるのは、真っ赤に燃えた夕焼け空。
森の外に出たのだ。達成感やら安心感やらがごちゃ混ぜになった感情が、ステマの全身を駆け巡る。何だか、意味もなく叫び出したい気分だ。
「一つ目、見つけた!」
夕焼け空は、ステマの声を受け止めてくれる。
「一歩前進、だね」
シゲは歯を見せて笑う。
「これも、もらっちゃったし」
シゲは、琥珀色の蜜で満たされた瓶を掲げる。これは、花の精の頭から取れる蜜だ。塗っても良し、飲んでも良しの万能薬だと言う。
花の精曰く「これさえあれば、病気も怪我も怖くありません」というものらしい。
これは、花弁が一枚少ないことに対しての、彼女なりのお詫びなのだという。どうしてもと言うので、ありがたく受け取ることにした。
三人は、アキの家に向かって歩みを進める。シエルは前を歩くリンの周りを飛んで、ちょっかいを仕掛けている。リンは鬱陶しいと言いたげな様子で、シエルを手で払う。それでもめげずに、リンの周りを飛び続けるシエルがおかしかった。
夕暮れの道に、三人の笑い声が響いた。