(アレク、またいつでも来てね)
私の耳元でそう囁くリオーネは、この世の何よりも可愛く、実に帰りがたい気持ちを押し殺し、帰邸の途に着いた。
そして子爵邸からの帰り道、ティンバール伯爵として現れた男から声をかけられる。
「あのリオーネというご令嬢が探していたお方ですよね?」
男の言葉に私はまたリオーネの事を思い出し、口元が緩んでしまう。
「……そうだ。やっと見つけて仲良くなる事が出来た」
「頑張っておられる様子を見る事が出来て、私としましても安心いたしましたよ。殿下」
私はリオーネ達の前では冴えない伯爵家の侍従に扮しているけれど、本来の身分はカナハーン帝国の隣国アルサーシス王国の第三王子、本当の名はアレクサンダー・フォン・アルサーシスという。
そしてティンバール伯爵として現れた男は私の側近で、我が国のリュッヒメル伯爵家の二男ラムゼンだった。
「ラムゼン、いきなり来るとは本当に心臓に悪いから止めてくれ」
「ふふっ、あなた様の浮かれているご様子をどうしても拝みたくて来てしまいました」
「悪趣味だな」
ラムゼンは私よりも一回り年上なので年の離れた兄のような存在……私が幼少期からずっと仕えてくれている彼には、事の経緯を全て話している。
「だって前世から追いかけてきたなんて、とっても重い愛をどうやってぶつけていくのか、興味深々でしたので」
「そういうのが悪趣味だと言っているのに!」
「最初は挨拶するのも緊張して出来ないほどでしたが……それで私に身分を隠す手伝いをしてくれだなんて言ってきた時は、どうなる事かと思いました」
ラムゼンは間違いなく、今の私の状況を楽しんでいた。
私はリオーネが警戒しないようにあえて身分を隠し、側近には伯爵になってもらい、私は彼女より下の身分の侍従として近づいたのだった。
しかし、頼む相手を間違えたかもしれない。
「仕方ないだろう。前世で彼女の中での私は、とてつもない裏切者になっている。それに前世とは違う気ままな人生を楽しんでいる彼女に、王子の身分で近づきたくはなかったんだ」
「……難儀なものですね、前世の記憶とは。リオーネ様がアストリーシャ皇帝陛下であったという事も驚きですし。ねぇ、レイノルド様?」
「その名で呼ばないでくれ」
その名で呼んでほしい人はただ一人――――けれど今はそれは叶わない。
「陛下……」
私の言葉は風の中に溶けて消えていった。
~・~・~・~・~
レイノルド・リバーメルトが私の前世の名だ。
レイノルドは物心ついた時には孤児で、帝都の片隅で物乞いとして生きていた。
そしてその頃には自分に聖力がある事に気付き、千里眼を使って未来を読んだりもしていると周りから気味悪がられ、8歳になる頃には誰も私に近付かなくなっていった。
未来を読んでも誰も信じてはくれないし、聖力を使っても人は離れていく。
持っていても何の役に立たないこの力は、何の為に授かったのか?
いっそこんな力などない方が皆と打ち解け、助け合って生きられたかもしれないと思うと、自分自身に絶望し、生きる意味を失っていった。
そんな私の前に現れたのが、アストリーシャ様だった。
「ねえ、あなたキラキラしてる。とってもキレイ」
「……君には見えるの?なのに僕が怖くない?」
「こわい?こんなにキレイなのに?」
大きな瞳を輝かせ、私をとても綺麗なもののように言う彼女の存在に、初めてこの世界に受け入れられたような気がした。
自分の存在を知ってほしいと、一生懸命名を告げたのを覚えている。
「………………ありがとう。そんな事を言ってくれるのは君くらいだよ。僕、レイノルド……君は?」
「わたしはアストリーシャ!いっしょにあそぼう?」
久しく誰かと一緒に行動をしていなかった私は、人の温もりがこんなに温かくて離れがたいものだと感じ、皇帝陛下にも臆する事なく彼女のそばにいたいと進言してしまう。
聖人として生を受けた私は、直感的に悟っていたのかもしれない。
アストリーシャ様が私の運命で、彼女の為に存在しているのだと。
彼女の望みを叶え、導き、幸せにする事。
それが私の使命だと信じて疑わなかった。
アストリーシャ様が皇帝になりたいのならば、不要な人間、邪魔をする人間は容赦なく排除した。
彼女が望むなら他国を滅ぼす事も進んでやる。
それでアストリーシャ様が悪の女帝と言われようとも……逆に誰も寄り付かない事が、私のちっぽけな独占欲を満たしていたのかもしれない。
周りから孤立し、どんどん私だけの陛下になっていくのだから。
しかしそんなくだらない独占欲は、彼女に舞い込んできた一つの縁談によって、打ち砕かれていくのだった。
「アストリーシャ皇帝陛下、陛下に縁談がきております。リビエーリュ王国の第二王子になりますが……いかがいたしますか」
どこで目をつけたのか、他国の王家からの縁談が舞い込んでくる。
ダメだ。
誰にも渡したくはない。
そう言う事が出来ればどんなに良かったか。もともと表情筋が死んでいた事もあり、感情を顔に出さなくて済んだのは幸いだったが。
今まではどんな縁談が来ても断ってくれと言っていた。
「…………そなたはどう思う?」
まさか私の意見を聞かれるとは思わず、言葉に詰まる。
選択を間違いない為にも一瞬だけ未来視を使う事にした結果――――
「受けるべきかと存じます」
一瞬、陛下の瞳が揺れたように見えたのは、私の願望が見せていたのだろうか。
縁談などしたくない、とひと言だけでも言ってくれたら……淡い期待をしつつも彼女の答えは未来視で分かっていた。
「ではそのように返事をしてくれ」
私の未来視は外れた事はない。
先読み出来るのもせいぜい1年以内に起こる事だったが、それでも彼女を守るのに実に便利な能力だった。
視ようと思って未来視する場合と、ふとした瞬間に視てしまう事もあり、後者の場合気を付けなくてはならない場合に視る事が多い。
自ら視たにも関わらず、激しく後悔する事となった……アストリーシャ様が誰かのものになる?
その時、私は耐えられるのか?
そしてその夜、私たちの運命とも言える出来事を先読みしてしまう。
陛下の寝所を護衛しながらふと激しい眩暈に襲われた私の頭の中に、今までで一番鮮明な映像が流れてきたのだった。
<陛下が敵国ダグマニノフの兵によって殺され、カナハーン帝国にダグマニノフ兵が押し寄せてくる未来――――>
「…………っ陛下!!」
すぐに意識は戻り、はっ、はっ、と浅い息を繰り返す。
落ち着け、まだダグマニノフとは戦が起きてはいない。でも未来視で視たという事は一年以内には起きる未来という事。
私の心臓の音が、まるで耳から聞こえるかのようにうるさくなっていく。
陛下の血が滴る剣、血しぶき、彼女の血だまり……私の手は真っ赤に染まりながら嘆いていて、陛下を助ける事が出来なかったのだという事だけは分かった。
このまま彼女のそばにいても守り切れないという事だろうか?
「どうすれば……」
天を仰ぐとその日は新月で月はなく、暗闇の中で星の光りがだけが煌めいていた。
私が願うのは彼女の幸せだけ――――
どんな形でも命さえあれば……そんな私に、和平協議に来ていたダグマニノフの王女が近付いてきて、悪魔のような取引を持ち掛けてきたのだった。
今思えば、あの時の私は正常な判断を失っていたと思う。
そうでなければ、あのような心の醜い王女の言葉など受け入れたりはしなかっただろう。
しかし陛下の死を未来視で視てしまった以上、藁にも縋る気持ちで受け入れてしまい……その選択があのような悲劇に繋がるとは、思ってもいなかったのだった。