パン屋に行って帰った翌日、私は色々な煩悩を振り払う為に一人で邸の近くの丘へと出かける事にした。
まだアレクはやって来ない早朝、馬に乗り、風を切って丘へと向かう。
今日は快晴だし、風がとても気持ちいい。
そんな私の腰には木刀が帯刀されていて、今日は丘の上で鍛錬をしようと考えていた。
前世の記憶がよみがえったもののリオーネとしての身体能力なので、剣を振る体力がない事に気付く。
いくら剣技を思い出しても体がついてこないというもの。
自分自身を守るという意味でも体力をつけ、剣を握れるようになっていた方がいいと思う。
それに木刀で素振りをすれば、心を無にする事が出来るから……部屋に一人でいるとアレクの事ばかり思い出して、どうにも落ち着かないのだった。
丘の上に到着し、馬の手綱を太めの枝に括り付け、丘から見える景色を見渡した。
「世界は広いなぁ。こんなに広い帝国を前世の私が治めていたというのが信じられない。ねぇ、そう思わない?」
馬に語りかけながら、私をここに連れて来てくれた事を感謝する。
今の私はしがない田舎貴族の令嬢だから、正直このままゆっくりのんびり過ごして年老いていきたい気持ちしかないけれど、自分が力を尽くしていた自国が廃れていく様を見ているしかないというのは、やはり心苦しく思ってしまう。
これは私の罪なのね。
愛する者の為に国を捨てたようなものなのだから。
このままでいいのかという気持ちもあるけれど、今の私にはどうする事も出来ないし、国の行く末を見届けるのは私の義務なのかもしれない。
そんな事を思いながら木刀を握り締め、素振りを始める事にしたのだった。
~・~・~・~・~
どれくらい素振りをしただろう…………200回を過ぎたあたりから、だんだんと腕が上がらなくなっていく。
アストリーシャの時は1000回など軽かったのに、やはり鍛錬をしてこなかった令嬢の体だと、このくらいが限界らしい。
でもとても有意義な時間だったな。
流れ落ちる汗を布で拭っていると、誰かが丘の下の方から駆けてくるのが見える。
「誰?…………アレク?!」
「リオーネ~~!!」
見慣れた姿だけれど今一番会いたくない人物かもしれない張本人が、私の名前を呼びながら駆け上ってくる。
なぜここに?そして邸から走ってきたの?
この丘は邸から近いとは言え徒歩だと少し距離があるので、歩きは大変だというのに。
息を切らしながら私のいる丘の頂上にたどりついたアレクは、相変わらず髪の毛で目は見えないけれど、満面の笑みで笑いかけてくる。
「リオーネ、ここにいたんだね!邸にいないから行先を聞いて、走ってきたんだ」
「バカね、邸からどれくらい距離があると思ってるのよ……」
「このくらい、なんともないよ。リオーネのいるところにたどり着けるなら」
この男はまたしても恥ずかし気もなくそんな事を…………私が喜ぶだけじゃない。
もし私が前世で悪の女帝だと知ったら、アレクはどう思うかな。
もう邸に来なくなるだろうか。
本当はアレクの事を考えないようにする為に、木刀を振りに来たというのに。
時々アレクとレイノルドが重なってしまうのが、私の大きな悩みでもあった。
生まれ変わり、違う人生を歩みながらレイノルドと全く違う男性と知り合ったのに、なぜか重なってしまうなんて自分がいかに前世に囚われているのかを思い知らされる。
でもこうしてアレクに会ってしまうと、すぐに嬉しい気持ちが溢れ出てしまうのだ。
観念するしかないわね……私は目の前のもさもさした男の事を好きになってきているのだという事を。
「アレクの髪、いつにも増してもっさりしちゃってる。ふふっ」
「え、本当だ。でもまぁいいや」
「どうして?」
「リオーネが笑ったから」
隙あらば私を甘やかすような事を言ってくる。
もしかして天然のたらしなのでは?
「その手には乗りません」
「え、どういう事?!」
私がピシャリと言うと、酷く混乱した様子のアレクが可愛い。
「とにかく、お腹も空いたし、そろそろ邸に戻りましょう」
私は終始混乱するアレクをスルーするかのように帰り支度を始め、今度は2人で馬に跨り、邸へと帰邸したのだった。
その夜、初めて剣を握り疲れてくたくただった私は、いつもの数倍は早く眠りに落ちたと思う。
とても気持ちの良い眠りで、前世の記憶なども見ずにぐっすりと眠る事が出来た。
やはり適度な運動は必要ね。
そうしてスッキリと目覚めた朝、邸ではとんでもない人物の訪問で皆がひっくり返る事態が起こるのだった。
~・~・~・~・~
「ふわぁ~~~ぁあ。よく眠れた」
少し遅い時間になってしまったけれど、スッキリと目覚める事が出来たので、今日はとても良い事が起こるような気がしてウキウキしながら起き上がる。
邸には数人の侍女しかいないので(その数人も邸の掃除などをしてもらう為なので)自分の身支度は自分でするのが我が家のルールだった。
貴族とは思えない暮らしだけれど私は好きだったし、特に不満だと思った事もない。
「さぁ、準備しますか!」
今日もいつアレクが来るか分からないし、早めに身支度を整えなくては。
時々早朝の馬のお世話をする時に来る事もあるので、本当に神出鬼没……ちゃんと寝ているのだろうかと心配になる時もある。
そんな事を考えつつも頬が緩んでいる自分に気付いてしまうのだった。
「ゴホンッ、まだ本人には気付かれないようにしなきゃ」
気持ちに気付いたところで、まだ想いを告げる気はなかった。
どうしても前世の記憶がチラつき、レイノルドに裏切られた事、何より私といる事が苦痛だったと言われた事が私をことさら臆病にしていたのだった。
私は一番そばにいながら、レイノルドの辛い気持ちを察してあげる事が出来ず、ずっと苦しめてしまっていたのだ。
その事を考えると、自分の気持ちを告げるのを躊躇ってしまう。
誰だって愛する者には幸せでいてほしい。
自分勝手な気持ちを吐露するのは簡単だけれど、私がそれで幸せにしてあげられるのかが自信がない……もう少し過去の呪縛から解き放たれてから気持ちを伝えたい。
そう思っていたのに、そんな私の気持ちは見事に打ち砕かれる事になるのだった。
――――コンコン――――
「はい?」
「リオーネ……!着替えは終わった?」
お母様が何やら忙しない様子で声をかけてきたので、嫌な予感がしてくる。
「ええ、着替えは終わってるけど……何かあった?」
「ちょっと……あなたに会いたいと言っているお方がいるの。なるべく早く下におりて来てほしくて」
私に会いたいと言っているお方?
お母様が随分へりくだった言い方をするので、どれほど高貴な身分の方が我が邸に来たのかと思っていたら――――エントランスホールに下りていくと、シトリンのような薄い黄色のツヤツヤした髪に柔らかい笑みをたたえ、いかにも高位貴族といった装いの男性が部下を連れて立っているのが目に入ってくる。
誰?
全く見覚えのない人物に足が止まってしまい、階段を下り切ったところでその人物を凝視してしまう。
そんな私の姿に気付いたのか、その人物が私のもとへ足早に歩いて来て手を取り、スマートに手の甲にキスを落としていく。
「リオーネ嬢。突然の訪問、ご無礼をお許しください。私は隣国アルサーシス王国の第三王子、アレクサンダー・フォン・アルサーシスと申します。お目にかかれて大変光栄です」
二コリと優しい笑みをたたえながら自己紹介をしてくれる目の前の男性は、なんと隣国の王子で、なぜか私を知っている様子にただただ驚き立ち尽くすしかなかったのだった。