目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

崩壊(その四十八)

 いや、それはない。そんなことはあり得ない。そうだと、わかってはいるが。しかし、それでも何か……やはり頭の片隅で、無視できない引っかかりを感じている。


 思い出せそうで思い出せない、このなんとも言えない歯痒い感覚に。カイエルは眉をやや顰めながらも、やがて仕方なさそうに嘆息した。


 ──まあ、いい。恐らく、私の気の所為だろう。


 と、思い直して。カイエルは再び、窓から机上へと顔を戻し。未だ多く残っている、目を通さなければならない書類の数々に、少し辟易する。とにかく今日中にはなんとか終わらせたいものだが……如何いかんせん、気力が足りない。


「……クライド……」


 そしてその度に息子の名を呟くばかり。……認めるしかない。自分はもう一度、話をしたい。顔を合わせて、きちんと話し合いたい。


『話は以上だ。く去れ、息子よ。そして二度と、この屋敷の敷居を跨ぐな……クライド』


 ……本当はそんなことを言う気など、カイエルにはなかった。彼には全くなかったのだ。ただ気がついた時には既にもう、そう言ってしまっていた。


 ああ言ってしまった手前、すぐ呼び戻しては些か親としての面子メンツが立たない。……いや、この期に及んでそんなことを気にしてしまうから、駄目なのだとは自覚しているのだが……。


 ──どうしたものか……。


 と、しばし。またも仕事を放って、考え込むカイエル。その時、不意に彼はそれを目に留めた。


「……手紙」


 そう、手紙である。一体いつの日からそこに放置していたのか、忘れてはしまったが、机上の端に一枚の手紙が置いてあり。それを見やったカイエルの脳裏に、一筋の閃きが駆け抜ける。


「手紙、か。なるほど、それならば」


 そう呟くや否や、カイエルは机の引き出しを開き、すぐさま便箋を手に取った。


 続けて流れるようにペンを手に取り、ペン先を紙に当て────カイエルはそこで止まってしまう。


 ──書こうと決めたのはいいものの、さてどう書いたものか……。


 別に内容が思いつかないという訳ではない。むしろ、その逆だ。書きたい内容が多過ぎて、伝えたいことがあり過ぎて。果たしてどれから、どうやって始めたらいいのか、カイエルはわからないでいた。


「…………まあ、とにもかくにも。まず書かなければ何も始められん」


 ので、とりあえず。カイエルはそう書き出す。


『親愛なる我が息子、クライドへ────











 ギィ──その時、唐突に。静かに、ゆっくりと。執務室の扉が開かれた。


「む……?」


 扉はきちんと閉めた。中途半端でもない限り、この執務室の扉はそんな風には、勝手には開いたりなどしない。


 そう思いながら、扉の方へと顔を向けるカイエル。直後、その姿を視界に捉えて。堪らず、呆然とカイエルが呟く。


「クライド……?」


 そして次に、カイエルが目にしたのは──────────筆舌に尽くし難い程に凄絶極まる、あまりにも悍ましい嗤顔えがおを浮かべるクライドと。


 そしてこちらの目と鼻の先にまで迫る、血に塗れ、薄桃色の肉片がこびりついた、刺突剣レイピアの鋭い切先であった。



















「あなた?何か凄い物音がしたようだけれど、大丈夫?それとジョーンズを知らないかしら。彼の姿を今朝から一度も見てないの……?」


 何か重く巨大な物が落ちたような音を聴きつけ、カイエルの執務室に近づくその女性────エマリー=シエスタ。彼女はカイエルの妻であり、クライドの母である。


 普段であれば仕事に取り掛かっているカイエルの執務室には近寄らないエマリーだが、先程耳にした物音と。そして今し方目にした、至極珍しいことに半開きとなっている執務室の扉を見やって。彼女はそのことに物珍しさ半分、不可解な疑問半分を持ちながら。恐る恐る、執務室へと近づき。そして、その中を覗いた。


「あなた……?一体どうしたの?何をしてるの……?」


 部屋の中のカイエルは、椅子に座っている。椅子に座り、背を向け、窓の方を見ている。そして────静かだった。ただひたすらに静かで、不気味な程に静かだったのだ。


 不可解極まるその様子と状況に、声をかけたエマリーだが。しかし、聞こえていないのかカイエルは返事をしない。それどころか、こちらの方に振り向くこともせず、反応らしい反応を何一つとして見せない。


 ──仕事中でもないのに……。


 と、そんなカイエルのことを胡乱げに思い、訝しみながら。エマリーは部屋の中へと足を踏み入れ、ゆっくりと彼に近づく────その途中で、気づいた。


「……え……?」


 眼下の床。そこに小さな、赤い一点がある。見た最初こそはそれが何なのか、わからないでいたエマリーだったが。少し遅れて、まるで信じられないように彼女がそう呟く。


「血…………?」


 瞬間、こちらに背を向けていたカイエルが。彼の身体が椅子から倒れて、その拍子にエマリーの方へと顔が向く。


「…………ぃ、いやあぁぁぁぁああああッ!?」


 直後、屋敷全体に響く程の、絹を裂くような絶叫を上げるエマリー。だが、それも無理はない。


 何故ならば────こちらに向いたカイエルの、、夥しい鮮血を目の当たりにしてしまったのだから。


「あっ、あなたぁ!?あなたっ!あなたぁぁぁッ!!??」


 鈍い音を立て、床に倒れて。そのまま力なく横たわる夫の、その姿を見て。エマリーはたちまち半狂乱になって叫び散らし、堪らずその場に腰を落とす。


 否が応でもわかる。理解させられる。もはや、カイエルが死体となったことを。何者かによって殺されたのだろう彼が、今や物言わぬただの死体になってしまったことを。それがわかり、理解できたエマリーは。依然泣き叫びながらも、床の上を這って執務室の外を目指す。


「誰かぁぁぁぁッ!助けてッ!夫が、殺されてッ!誰か、誰か助け






 ドスッ──そうして外を目前に。必死に助けを求めて叫ぶエマリーの額から、血濡れた刺突剣の切先が突き出した。






 一瞬にして、その場が静寂に包まれる。つい今し方まで、悲痛な叫びを上げていたエマリーは沈黙し、その目から光が失われ。直後、彼女の額から突き出ていた刺突剣の切先が素早く動き、そして彼女の脳天を突き抜ける。


 少し遅れて、エマリーの頭の、右上半分がズレて────そのまま床に滑り落ちた。


 ベシャ──粘ついた水音を立てると共に、ゆっくりと執務室の床に血溜まりが広がり。


 ズリュン──それに続くようにして、傾いたエマリーの欠けた頭の中から、そこに収まっていた彼女の脳髄が零れ。






 グチャッ──そして零れ出したエマリーの脳髄を、遠慮なく、躊躇なく、その足が踏み潰した。


「……はは、ぁは」


 そうして、微かな嗤い声を漏らして────クライドは。彼はそのまま、靴底にエマリーの脳髄だった薄桃色の柔らかな肉片をこびりつかせたままに、静寂を取り戻した執務室を後にするのだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?