「ロックスも。メルネも。
今し方まで、馬鹿みたいに昂っていた頭と胸の内が、瞬く間に冷めていく。
何も言えずに黙り込むしかない、そんな僕に対して。先輩は淡白な声音で、淡々とこう続ける。
「憶えてない────ていうか、そもそも
そう言いながら、僕のことを見下ろす先輩は神妙な面持ちでいて。その声には何処かに悲しみと寂しさがあるような、ないような────とにかくそれが曖昧で、不明瞭で。少なくとも、その判断が僕には難しい。
「名簿。GMに言ってさ、見せてもらったんだけどな」
と、そのように迷っている僕に、先輩は言う。
「三回……いや、四回だったか。まあそうやって何度か見返しもした」
そこで少しの沈黙を挟んでから、先輩が再び口を開いた。
「あいつの名前なんか、どこにも載ってなかった」
その先輩の言葉は、
沈黙から成る静寂が、僕の寝室に満ちる。それは数秒続き、そして十数秒過ぎた直後。
「それでも、僕らは憶えている────ライザー=アシュヴァツグフという、一人の男のことを」
この静寂を、僕が最初に破るのだった。先輩もまた、その口を開かせる。
「……ああ、そうだな」
先輩はそう言うと、徐に振り上げた手を自らの頬に近づけて、そっと。まだ生々しく薄ら赤い傷を、指先で撫でやる。
──…………。
それを間近で目の当たりにした僕は、途端に己が心の内が騒つくのを如実に感じ取りながら。そうして瞬く間に、仄
そうして再び黙り込んでしまう僕と先輩。相も変わらず、この静寂が少しばかり、気まずい。
「悪い。変な空気にしちまった」
さて今度ばかりはどんな言葉で切り出すべきかと、僕が言い
「い、いえ。気にしないでください、先輩」
そんな表情をいきなりの不意打ちで見せられ、思わず息が詰まりそうになりながら。狼狽してしまって震える声音で、どうにか僕がそう返すと。先輩は表情に明るさを少し取り戻してくれた。
「ん、そう言ってくれると助かる。……あんがと」
それから先輩は僕から視線を逸らし、少しの間を置きつつ。再び僕と視線を合わせ、気恥ずかしそうに僕に言う。
「その、さ。時間も時間だし、そっちも起きたばっかりだし。だからまあ、クラハが嫌なら嫌で全然、別にいいんだけど」
「……?はい」
「俺たち色々……本当に色々、あったじゃん。だ、だから……だから、な?」
「えっと、はい。そうですね」
中々煮え切らず、歯切れの悪い先輩の言葉に、僕もまた困惑の声音で以て返事をする。
すると観念したように先輩は小さく嘆息し、僕にこう言う。
「話さないか?俺とお前、離れ離れになってからの、色々なこと」
それから僕と先輩は話し合った。今が夜だということも気にせず、過ぎる時間を忘れ去って。
これまでにあった全てのことを────お互いが離れていた間の、ことを。
こうして話し合うことで、こうすることで。お互いが離れてしまった為に生じてしまった、隙間を埋め合うように。
そうしてある程度話も進み、僕は
「それで道すがら、ちょっとした経緯で。僕はユアという少女の護衛を引き受けて、少しの間共に過ごした訳なんですけど」
「……おう」
──?あれ、先輩……?
それまでとは打って変わって、その時の先輩の返事は何故か、何処か不機嫌そうで。そのことについて多少の疑問を覚え、引っかかりながらも。話し出してしまった手前、僕はそのままこの話を続けることにする。
「……本当ならあまり言いたくはないんですが。僕が先輩に会う為の覚悟と決意の一押しをしてくれたのが、ユアなんです」
……もはや手遅れだとは思う。いや確実にそうなのだろうが。これはきっと、先輩には言うべきではなかった。だが、それでも僕は言わずにはいられなかった。これだけは言わなければ、ならなかったのだ。
「……」
案の定、先輩の表情は芳しいものではなくなっており。そのことに僕は後ろめたい罪悪感を抱き、目を伏せて。けれど、口を開いて続ける。
「情けない後輩ですみません。ですが、彼女が発破をかけてくれなかったら、僕はたぶん……先輩に会いに「その話、もう終わりな」
不意に、そうやって先輩が僕の言葉を途中で遮った。そのことに少し驚いて、見てみれば。
頬を膨らませ、拗ねたような表情を浮かべながら。先輩は鋭い眼差しで以て、僕のことを責めるように睨めつけていた。
「えっ?あ、いや、でも」
「終わりったら終わりだ!終わり終わり終わりっ!」
「……わ、わかりました……」
この話をして、先輩が心中穏やかではなくなることは予期していたが。しかし、だからといって、まさかこんな反応をされるとは思っていなかった。
そう、こんな────まるで、嫉妬しているような。
──いや、もしかして……そうなのか?
と、困惑しつつも
僕の情けなさや不甲斐なさに気分を害し、苛立つことはあっても、先輩はこんなことで
第一、さっきの話の一体どこに、先輩が嫉妬するような要素があったというのか。そうだ。たぶん、僕の思い違いだろう。
……それに、嫉妬しているのは先輩の方ではなく……。
「……先輩」
「あ?何?」
自分の見当違いも甚だしい疑問に結論を出し、早々に切り捨てて。そして己が抱え込むその気持ちを誤魔化すように。
ふと気にかかっていたことを、これを機に訊いてみようと、僕が声をかけると。先輩は未だ不機嫌そうな声で、
……気を憚られるが、しかし。訊いてしまった手前、もう後には退けない。それに先輩が自分で言っていたのだ────離れ離れになっていた間の、色々なことを話そうと。
だから僕にだって、訊く権利は……答えてもらえずとも駄目元で訊いてみるくらいの、
「実はちょっと……いえ、かなり気になっていて。できればで全然構わないんですけど」
と、自分でも少しばかり
そうしてようやっと、僕は────
「先輩が記憶喪失になっていた間のことを、話してほしいです」
────そのことについて、恐る恐る先輩に訊ねるのだった。
「……」
「あっ、い、嫌なら大丈夫です話さなくてもっ!」
表情が固まり、硬直した先輩の姿を目の当たりにして、僕は慌ててそう言う。
すると先輩は僕から顔を逸らし、少し遅れて僕にこう言う。
「別に嫌って訳じゃないけど……」
と、言い終えた後。先輩は再び黙り込み、数秒。まるで意を決したかのように、僕の方へと向き直り。
「……先輩?」
そうして改まった雰囲気を発しながら、僕のことを見つめていたかと思うと────
「あの日病院の
────唐突に、僕にそう言った。
出会ってから今日この時に至るまで、一度たりとて聴いたことがなく。この瞬間、初めて耳にする、その────
それから先輩はその声音のままに、自らが記憶喪失となっていた間のことを、事細やかに話してくれた。
親身になって寄り添ってくれたメルネさんの提案を受けて『
ある日突然訪れた、公爵という大貴族から直々に、『
そうして先輩は十数分に渡って僕に一通り話してくれた後、一息
「ってな感じだったんだ」
と、締めた。その時の声音は既に、十六歳の少女から元のラグナ先輩へと戻っていた。
「……な、なるほど。そうだったんですね」
「まあぶっちゃけ、俺も俺でよくわかってない。今でもなんか、俺が知らない俺を遠くから見たみたいな、そういう変な感じでさ。悪いけど、これ以上は上手く話せそうにねえよ」
「気にしないでください。寧ろ凄いですよ、先輩。僕がきっと同じ立場だったら、混乱しちゃって……とてもじゃありませんが、先輩みたいには話せないですから」
「そうか?……そっか」
僕の返事に対して先輩は不思議そうに首を傾げ、直後納得したように頷いた。
そうしてまた、僕の寝室は静まり返って。けれどすぐさま、先輩が口を開いた。
「俺たち、やり直せるよな。やり直して、いいんだよな……クラハ」
その言葉に対して、僕は何も言わなかった────言えなかった。
「……クラハ?」
当然、そんな僕のことを先輩は訝しみ、呼びかけてくる。こちらのことを見下ろすその眼差しには、不安が見え隠れしていた。
「先輩。そろそろ、起き上がってもいいですか」
「え、ぁ……おう」
「すみません」
僕にそう訊ねられた先輩は、最初と同じようにまた断ろうとしたのだろう。しかし、こちらのただならぬ雰囲気を感じ取って、先輩は渋々といった様子で了承し。
そうして僕は一言謝りながら、名残惜しそうな先輩の視線を浴びつつ、先輩の膝から頭を退かし、上半身を起こす。
──……。
先輩とやり直す。先輩との関係を修復する。その為に僕は、やはり告白しなければならないだろう────先程の、ユアについて話したように。
そして本来ならば、そこで言うべきだった。それはわかっていた。
わかっていて、わかっていながら────言わなかった。言えなかった。今さっきの、先輩の返事と全く同じように。
…………怖い。
『それでも、貴方はラグナに言うべきだった』
『ええ、そうね。知られたくないわよね。私だって、そんなこと知られたくない』
『それを聞いて、ラグナが貴方のことを嫌いになると思う?』
『ならないわよッ!ましてや、貴方なのよ!?クラハ!!』
『ラグナならきっと、それがどうしたんだって、そう言って。笑って、流してくれた……そして貴方のことを心の底から心配したはずよ』
そうであっても、やはり。怖いものは怖い。堪らなく、仕方なく、どうしようもなく……怖い。
「……」
先程からずっと震えが止まらない両手に、止め処なく汗が滲む。この土壇場の瀬戸際で、踏ん切りがつかない────決心ができない。
「クラハお前、まだ調子悪いんならもう大人しく休んどけよ。別に俺は構わねえし、遠慮もいらねえって。ほら」
当然、こんな体たらくの僕を先輩が放っておけるはずがなく。心配が入り混じる優しい声音でそう言い、ぽんぽんと自分の膝を叩いて、そこに頭を乗せるよう先輩は僕のことを催促する。
「……いえ」
僕だって先輩とやり直したい。僕はまたこの人と、
故にだからこそ、言うんだ。
「先輩」
そうして、
「僕は先輩のことを……殺し、ました」
────とうとう遂に、僕はラグナ先輩に、そのことを