「僕は先輩のことを……殺し、ました」
その一言を皮切りに、僕は先輩に話した。聞くにも堪え難く、語るにも悍ましい、その話を。
全て、先輩は聞いてくれていた。憤慨して責め立てることもなければ、悲嘆し泣き咽ぶこともなく。ただ黙って、僕の赦されざる罪の告白を、その全てを聞いてくれたのだった。
「なるほどな」
そうして僕が十数分という時間を費やし、話を終えた後。先輩は至って平然とした面持ちでそう呟き────
「
────と、先輩は僕に対して、そう訊ねた。
「…………」
何も言えず、固まる他ない僕に。先輩は真剣な表情を浮かべ、そして当然のことのように告げる。
「舐めんな。十年の付き合いだろうが、俺たち。……お前がそうやって、やたら面倒な話を引っ張り出す時は、大抵俺に話したくないことがある時だ」
──……やっぱり、先輩には敵わない。
ずばりと先輩に、ものの見事に図星を突かれてしまって。堪らず、僕は心の中で苦い笑いと共に、その言葉を溢す。
「いきなりこんな話を聞かされて、何も思わないんですか。先輩」
そして口を開いて、僕は先輩にそう言うのだった。
「別に」
実に先輩らしい即答に、僕は乾いた笑いを微かに、漏らさずにはいられなかった。
「そうですか」
と、一言呟き────
ドサッ──そして一切の遠慮なく、何の躊躇いもなく。僕は先輩に迫って肩を掴み、そのままの勢いで。有無を言わせず、先輩を
青白く冷たい月明かりだけが、儚げに頼りなく寝室を照らす最中。一つの寝台の上にて、僕は先輩を見下ろし、先輩は僕を見上げる。
突如として僕に押し倒され、組み伏せられた先輩は。やはりというべきか、至って平然とした表情のままで、至って毅然とした眼差しのままで。僅かな動揺も、微かな狼狽も見られなかった。
その凜とした姿が。その澄ました顔が。更に、
「怖く、ないんですか?」
「ちっとも」
みっともない荒い吐息混じりの僕の問いに対しても、先輩はまるで大したことでもないかのように返す。
そのまるで変わらない、あくまでも強気な態度が。僕にとって、生意気なことこの上ない挑発としか思えなくて。
「そうです、か……っ」
だからこそ、無茶苦茶に。俄然、滅茶苦茶に────そんな厚かましく下劣な欲望に背を押されて、ようやっと僕は動き出す。
まるで軽く、ほんの一瞬触れただけで。それだけで、割れて砕けて崩れて壊れてしまいそうな。それ程までに脆く儚く、弱々しい
そっと────僕は先輩の首に、手をかけた。
「……」
先輩は顔色一つとして変えはしない。その意固地さが、
元々ボタンで留められていなかったことに加え、やや力任せに押し倒された所為で、先輩が着る僕のシャツは乱れてしまっていて。不健康には感じない程度に白く、
上半身を起こしている時はやや窮屈そうにシャツを押し伸ばしていたが、仰向けになって倒れている今は左右それぞれに、流れるように少し潰れて。わざわざ触れずとも、その柔らかさをこれでもかと自信を以て自慢げに主張する、二つばかり実った、剥き出しの果実。
別に言及することではないが、
そして極めつけは下腹部の更に、その下。先輩といえど上はともかく、流石にそこまで外気に晒そうとは思わなかったのか。或いは以前、僕が穿いてくれと惨めながらに懇願したおかげなのか。
まあどちらにせよ、先輩は
レース等の凝った意匠が施されている訳ではない。使われている生地も至って普通。何の飾り気もない、無地の白。
……ただ、
──穿くんですね、そういうの。
そうして一通り、先輩のことを眺め終えた僕は、最後にそう呟き────頭の隅へと追いやって、瞬く間に掻き消し去って。
今この手と指で触れている、先輩の首の感触に囚われた。
「……」
華奢で細く、可愛らしい先輩の首。僕の指先に伝わる、しっとりとした肌触り。僕の指先を打つ、整った軽やかな脈動。
この手にほんの少しの力を込めただけで。それだけできっと、小さな音を奏でて先輩の首はあらぬ方向へと曲がり、先輩の脈動も止まってしまう。
そのことにえも言われぬ、堪らないものが。沸々と心の奥底から込み上げてくるのを、如実に感じ取りながら。
その傍らで、先程からずっと
先輩の右頬の傷痕に、僕の指先が触れてしまった。
触れたと同時に、引き攣った吐息を僕は漏らし。そのざらざらと乾いた感触を確かめるように、指先をなぞらせ、指先を往復させ。
それで少し擽ったいと思いながら、僕は────
「どうせなら僕が傷をつけたかった」
────ぽつりと、その一言を静かに零した。その時の声は自分でもはっきりとわかる程、滑稽なくらいに上擦っていた。
数秒の沈黙を経てから、改めて僕は口を開く。
「酷いですよ、先輩。僕の目の前で、よりにもよって、ライザーの剣で。あんな折れた、お粗末な短小なんかで、そんな」
側からすれば、まるで意味不明な僕の世迷言。僕はそれを先輩に対して、遠慮なくぶつけ続ける。
「僕のだったら満足させられたのに。僕だったら、もっと上手にできたのに。なのに、それなのに……
と、一方的にぶち撒けた後。僕は肩を揺らし、震わせ、笑う。調子の外れた僕の笑い声が、寝室に響き渡る。
「……ええ、そうです。僕はこんな奴です。こんな奴なんですよ、僕なんて」
程なくして、笑い声混じりに、僕は先輩に言う。先輩に続ける。
「目の前で先輩が傷をつけているのに、先輩が傷ついているのに。その姿に目を奪われて、興奮を覚えて、劣情を抱いて。止めようともしないで、一部始終の全てを見届けずにはいられなかった……こんなにも最低で、こんなにも最悪な奴だったんですよ、僕って」
先輩は何も言わなかった。何も言わずにその口を閉ざしたまま、僕のことを見上げていた。
「やり直せると思います?こんな奴とまたもう一度、やり直せると思えるんですか?」
その瞳の中に映り込む、壊れた笑みを浮かべる男の姿を目の当たりにしながら。
「先輩のことを殺したくて殺したくて殺したがってる、こんなどうしようもなく碌でもない僕と。やり直したいと、本気でそう思ってるんですか……ラグナ先輩」
そう、僕は鬱屈とした声音で、先輩に向かって吐き溢した。
……そうだ。僕は殺したい。やっぱりまだ未だに、殺したい。他の誰でもないラグナ先輩を、他の誰でもない僕が。
「……だから」
数秒の沈黙を経てから、今の今まで黙り込んでいた先輩は。徐に閉ざしていたその口を開かせると、辟易とした声音で。まるで駄々を捏ねる子供に言い聞かせるように、先輩が言う。
「もうそういう
瞬間、先輩の瞳に映り込んでいるその男が固まった。
「…………御託、なんかじゃ」
そうやって数秒の間は固まってしまっていた僕が、狭まった喉奥から、情けなく引き攣って掠れた声で、やっとのことでどうにか絞り出せたのが、その一言で。
「じゃあ殺せよ。今」
そんな無様極まりない僕とは違って、即座に先輩はそう返すのだった。
「殺したくて殺したくて、仕方がないってんなら。我慢するのが苦しくて、抑えるのが辛いってんならさ。俺の首を絞めるなり折るなり、お前の好きにしろ」
もはや何も言えないでいる僕に、先程までの沈黙ぶりが嘘だったかのように。流れるように淡々と、そう続ける先輩。まるで日常会話を嗜んでいるようなその自然さが、その言葉が決して嘘偽りなどではないことを、雄弁に物語る。
それ故に、僕は呆気に取られる他にない。そんな僕に対して、先輩が言う。
「それとも」
と、言うや否や。不意に先輩は、僕の左手を掴み────自らの胸元を押し退けさせ、鳩尾に置き。
「俺の心臓でも抉ってみるか?」
そして平気な顔で、そのような提案を僕に持ちかけた。
──……先輩の、心臓、を……?
それが何の冗談でもないことは、
先輩の心臓を抉り取る────この
──…………あぁ……ッ!
なんと、それのなんと甘美で素敵なことだろうか。想像しただけで身震いしてしまう。ぐらりと、理性が根本から揺さぶられ、あっという間に持っていかれそうになってしまう。
きっと先輩の心臓だ。まだ男だった時は強靭で強大で、途轍もなく雄々しいものだったに違いない。
そして可憐にして美麗たる少女となった今は、それはもう可愛らしい心臓となっているはずだ。落ち着きを払った、品のあるこの鼓動が、僕にそれを確信させる。
「駄目、ですよ……先輩……!」
その提案は────否、誘惑は。僕にとってどの誘い文句よりも強烈に印象的で、あまりにも逆らい難く。みっともなく盛って荒いでしまう吐息と共に、説得力が皆無な拒否の言葉を僕は口にする。
「何が?俺を殺したいんだろ?ならさっさと殺せよ、クラハ」
「先輩……ッ!」
無意識の内に、僕の手に力が入っていく。僕の指先が先輩の首に沈んでいき、鳩尾を圧迫していく。
「僕は、僕は…………ッ!!」
そして僕は──────────
「…………すみません、でした…………」
こちらを見上げる先輩の顔に、数滴の涙を落としながら。震える声で、僕は力なくそう言った。
僕には十歳以前の記憶がない。十歳から前の記憶だけが、頭の中からすっぽりと抜け落ちていて、空っぽだった。
辛うじて、覚えていることは────
「ねえ、大丈夫?」
────と、声をかけられたその直後だけ。
わからなかった。この世界の全てが、何もかもが。だが、一番わからなかったのは────
故にだからこそ、怖かった。ただひたすらに、怖かった。嘘でも偽りでもなんでもなく、本当に怖くて、どうしようもない程に怖くて。
けれどそれは、心の仄
僕が心から恐れているのは。真に怖かったのは──────────
「そんなに自分が怖いのか?」
────僕の頭上から、先輩の声が降ってくる。
「……悪いですか」
少しの沈黙を挟んでから、先輩に返せたのはそんな反抗的な言葉くらいもので。しかしそれに先輩が腹を立てることはなくて、ただ黙って僕の頭を撫でるのであった。
自分よりもずっと小さく、華奢な先輩に、恥ずかしげもなく己が身体を預けている僕。しかもそれだけに留まらず、恥知らずにも先輩の胸元には顔を埋め、枕の代わりにしてしまっている始末。
成人を迎えた大の男が、恥も外聞もかなぐり捨てて、少女に泣きついてる────軽く想像するだけでも、顔を顰めたくなるようなこの図。
きっとこの場を目の当たりにした誰もが少女に同情を抱き、そして男を心底軽蔑するだろう。
しかし、そうだとしても男は────僕は構わなかった。僕はこうせずには、いられなかった。
「……先輩」
「どうして、何も訊かないんですか」
無言で以て続きを促された僕は、呆然とした声音で先輩に訊ねる。
「お前、答えられんのか?」
そうしてようやっと開かれた口から、紡がれたその言葉には。まるで手がかかって仕方のない子供をあやすような、そんな慈しみに溢れた、温かな響きが含まれていて。それが僕の鼓膜を心地良く震わせてくれる。
「……いえ」
少しの沈黙を経た上で、僕が返せたのは、そんな情けない一言。
しかし先輩はそれを貶すこともしなければ、呆れることもせず────
「だから訊かない。訊いても無駄だし」
────何処までも優しげで、穏やかな声でそう言うだけだった。
「……あの時、僕は死んだ。確かに死んだんです」
『そうかそうか。では死なすか』
『
『はい、お疲れ』
そう言った瞬間、次から次へと、止め処なく溢れ出す記憶────死の直前の記憶。
そうだ。僕は死んだ。あの時確かに、言い逃れようもない、免れぬ絶対的な死を迎えた────そのはずだった。
「でも、僕は生きている。今こうして、生きていられている」
「ならそれでいいだろ。生きてんのに、生きることができてんのに……それの何が気に入らないんだよ」
「そうじゃない。そういう話じゃ、ないんです。先輩」
未だに先輩の胸元から顔を上げることもできないまま、僕は続ける。
「僕は
──故に汝破滅を
「……僕は」
僕には十歳以前の記憶がない。十歳から前の記憶だけが、頭の中からすっぽりと抜け落ちていて、空っぽだった。
けれど、もし。仮に、それが関係しているのだとしたら。二十年という年月を費やしても、未だに断片的にすら思い出せない、記憶の喪失に。
自分ですらもわからない、あの得体の知れない、およそ人の域からは遥か遠く彼方まで、何処までも離れた────あの時見せた力が起因しているのだとしたら。
そして、そんな力を振るってしまった僕は、果たして────
「一体、何なんですか……?」
────人間なのだろうか?
「…………」
先輩は何も言わなかった。何も言わず、相も変わらず僕の頭を撫でやりながら。
「あの時の私は今の俺だし、今の俺だってあの時の私です」
突然口を開いたと思えば、いきなりそんなことを言い出し。
「どっちも同じ。同じ、ラグナ=アルティ=ブレイズ」
そうして先輩は僕に、こう言う。
「だからお前だってそうだ。妙な力を持っていても、持ってなくても。記憶があろうが、なかろうが。それでもお前はお前なんだよ、クラハ=ウインドア」
──答えになってないですよ、それ。
と、思わず口を衝いて出そうになったその言葉を、僕は飲み込んで。
「……そう、ですね。そうだと、いいですね……」
代わりに、そう呟くのだった。
そうして訪れる、もう数えるのが億劫となった、何度目かの静寂。
「…………あの、先輩」
僕はそれを静かに破り裂いて、先輩に懇願する。
「今夜だけは……僕の傍に、いてください」
そんな男としてあまりにも情けない、女々しい僕の懇願に対して、先輩が言葉を返すことはなく。
無言のまま、その手で僕の頭を撫で続けてくれた。