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RESTART(その終)

「お前ってさ、意外なところでまだまだ子供ガキだよな」


 と、こちらとしては何気ない、会話の出だしにでもなればと思い、放ったその一言。無論揶揄ったつもりも、ましてや馬鹿にしたつもりなど、毛頭ない。


 しかしそれでも、どうやらこの一言は。目の前で食事に勤しむ後輩を盛大に咽せさせるに値する、十二分に有り余る威力を発揮したらしい。


 数回、大きく激しく咳き込んで。それから少しして、落ち着きを得た後、後輩────クラハ=ウインドアは口元を手で押さえたまま、こちらに非難の眼差しを浴びせながら、上擦って掠れた声で言う。


「い、いきなり何ですか。……すみませんね、まだまだ子供で」


「悪い悪い。そんな怒んなって」


一々いちいち怒りませんよ、こんなことで」


 その拗ねた風な態度と不貞腐れた声音が殊更ことさらに子供っぽさを感じさせてくれる。この十年で外身そとみも中身も、見違える程の成長を見せてくれたクラハだが、それでも根本的な部分は然程変わっていないことを再認識したラグナは、思わず顔を綻ばせてしまう。


「……僕が子供っぽいのが、そんなに面白いんですね」


 別に悪意を以てそうした訳ではないが、子供子供と言われたのが存外、長い尾を引いているらしい。クラハが卑屈になり始めてしまった。


 大切で大事な後輩の機嫌を、悪戯いたずらに損ねたところで良いことなど何一つもない。弁明しようとラグナが口を開く、その直前。


「そういう先輩だって、僕はまだ子供だと思いますよ」


 と、クラハに言われて。ラグナの口から出かけた弁明の言葉は、喉奥に引っ込んでしまった。


「は、はあっ?こっちは身体はともかく、中身は大人……」


 そして代わりに出た喧嘩腰の言葉で、ラグナがクラハに食ってかかろうとした瞬間。徐に彼は己の指で、自らの口元を指し示す。


 一見すると意味のわからない行動だったが、クラハがそんな意味のわからない行動を取るような、無駄な愚を犯す人間ではないことを、ラグナは重々承知している。


 クラハの行動の意味を把握する為に、ラグナもまた己の人差し指で自らの口元を指し示す────そうして初めて、ラグナは口元に何かが付着していることに気がついた。


 そのまま指先で拭い取って見てみれば。それは後輩の為にと今朝方作り、そして今し方食べ終えたばかりの。朝食の成れの果て────即ち、食べかすであった。


「…………」


 お互いの間で、なんとも居た堪れない静寂が流れる最中。実に気まずそうな表情を浮かべ、クラハから目を逸らしながら、ラグナが言う。


「まあ、お互い様ってことだな」






「それでは昼頃、広場で待ち合わせでいいんですね?先輩」


「おう。それで頼む」


 後片付けも含めた朝食の時間を終えて、それぞれ軽い身支度を済ませたラグナとクラハは、玄関にてそのような会話を交わす。


「わかりました。……あの、先輩」


「ん?」


「こんな朝早く……というにはちょっともう、微妙な時間ですが。一体どこに行くんですか?それも一人で」


「……んー」


 なんということのない、素朴なクラハの疑問に対し。少し勿体ぶるような、そんな似合わない沈黙をわざわざ挟んでから。


「内緒」


 と、ラグナは返した。


 ……しかし、流石のクラハもこれには何処か納得がいかないとでも言いたげな、訝しげな表情を浮かべて。


「……わかりました」


 けれど、それでもクラハは渋い顔のまま頷き。それ以上追求しようとはしなかった────否、のだった。


「よし、そんじゃあ行ってくるわ。また昼な、クラハ」


 靴に履き替え、玄関の扉を開き。そうして外に出る直前で、ラグナは背後を振り返り、クラハにそう言葉をかける。


「はい。転んで怪我とかしないように気をつけてくださいね、先輩」


「おう」


「あと知らない人について行っちゃいけませんよ?くれぐれも、お菓子とかで釣られないように」


「わぁってるよ。てか、誰が菓子なんかで釣られるか」


「それとハンカチは忘れずに。それから……」


「……さてはお前、俺に子供って言われたこと根に持ってんな?」


「いえいえ。そんなまさか。ははは」


 と、実に白々しい態度と声音で、わざとらしい口調で返し、駄目押しとばかりに全く抑揚のない笑いで締め括るクラハ。


 そんなクラハの挑戦的な姿勢と意思を目の前で見せつけられ、悪い意味で彼のことを見直し、無視できない怒りで以て。意気揚々に正々堂々、真っ向からクラハの相手をしようとしたラグナであったが。口惜しいことに、今日ばかりはそのような余裕はない。


「そういうお前もさっさと準備して『ヴィヴェレーシェ』に行くんだぞ。……んじゃ、これでもう俺は行くからな」


 ──後で覚えとけよこの野郎。


 口ではそう言いつつも、心の中で怒りの言葉を呟くラグナ。そうして踵を返し、クラハに背を向けて。ラグナは一歩、扉の外へと踏み出し。そのまま、元気で軽々とした足取りで、日差しを浴びながら駆け出す。


 その小さな背中が遠去かっていくにつれて、開いていた扉は閉まっていき、そうして静かに閉ざされた後。


「……さてと。先輩の言う通り、僕も早く準備して『ヴィウェレーシェ』に向かうとしよう」


 と、クラハは玄関にて独り言ちるのであった。











「……ここ、だよな……?」


 クラハの家をったラグナは今、オールティアの西側に訪れていた。


 交易街として栄えているオールティアは、日中はどこも、其処彼処そこかしこが人々の活気で賑わい、騒めき立っている────唯一、この西側を除いて。


 商店の類はある。あるにはあるが、他と比べればその数は雲泥の差で。その上に西側で暮らす大体の住民が高齢で、故に他のような喧騒が少ない────というか、起きようがない。


 ラグナも西側を訪れるのはこれが初めてという訳ではないが……朧げで曖昧に尽きる、不確かな己の記憶によれば。確か、これで三度目となる。


 ……まあ一度目と二度目の際、一体どんな用事があってここに来たのかは、すっかり忘れてしまったが。


 それはさておき。今、ラグナは街道の真ん中に突っ立ち、一軒の空き家を見上げている。


「……」


 そうして目の前の空き家を眺めているラグナ────




『……西の方。今は空き家ですが、昔そこで薬屋を営んでいた女性がいました』




 ────そうしている最中、ラグナの頭の中で浮かび上がるその記憶と共に、その言葉が響き渡り。ラグナはやるせない表情で、小さく嘆息する。


 ──本当だった……別に疑ってた訳じゃねえけど。


 こうして件の空き家を確認したラグナは、次にどうしたものかと小首を傾げ、思い悩む。


 ──……とりあえず、ここら辺に住んでる奴から話を聞いてみるとするか。


 と、ラグナが次にそうすることを決めた、その直後。


「あの、どうかなされたのですか……?」


 不意に背後から、そんなおどおどとした気弱そうな声で、こちらの身を案じるように言葉をかけられて。ラグナは今自分が街道の真ん中に突っ立っていることを思い出す。


「ああ、悪い。邪魔だったか?今退く…………」


 と、言いながら背後を振り返ったラグナは────




『シャーロット=ウィーチェという名前の、白金色の髪と瞳をした女性です』




 ────堪らず、言葉を失った。


「いえそういう訳ではないのです。その、何やら悩んでいるようでしたので。私で良ければお力になるのですよ?」


 と、初対面である赤の他人のラグナに対して、たおやかな声音で以て親身な言葉をかける────ゆったりとしたワンピースを着た、お淑やかという表現がこれ以上になくしっくりとくる、白金色の髪と瞳が印象的なその女性。


「……い、いや大丈夫。ちょっと考え事してただけだからさ」


 不覚にも固まってしまっていたラグナは、ハッと我に返り、慌ててそう返事をする。しかし、それでも尚目の前の女性は心配そうな表情を浮かべる。


「遠慮せずともいいのですよ?私に何かできることがあれば、是非」


「いや本当に大丈夫だから。変に心配させて悪かったな」


 最初に聴いた気弱な声音とは裏腹に、存外押しが強い女性に。ラグナはいささか面食らいながらも、そう返す。


「そうなのですか……?なら、わかりました」


 ラグナがそこまで言うと、流石に女性の方も引いてくれた。


 ──……。


 そうしてお互いの間で沈黙による静寂が少し流れた後。ラグナは一呼吸置いて、口を開く。


「なあ、お前……ひょっとしてシャーロット=ウィーチェって名前だったり、する……?」


 と、若干の躊躇いが含まれたラグナの問いかけに。その女性は目を丸くして、一瞬の間を挟んでから彼女もまた口を開かせる。


「はい。そうなのです。私はシャーロット=ウィーチェと申します」


「……そう、か」


 偶然、なのだろう。幾つもの偶々たまたまが重なった末の、ただの偶然────だとしても、ラグナはこう思わざるを得ない。


 これはきっと、の意思、或いは意地のような。そういった何かが引き寄せ、手繰り寄せた、その末の結果────否、成果なのだと。


 たとえそれが自分にとって都合の良い妄想だとしても。所詮は陳腐な妄想だったとしても。そんなものに過ぎないとわかっていても、それでもラグナはそう思いたかった。


 だからラグナは、今だけはそう思うことにした。


「……あの、ご、ごめんなさいっ!」


 と、そんな時。突如として、何故か目の前の女性は────シャーロットはラグナに謝った。そしてラグナが驚きと困惑の声を上げるよりも早く、彼女が言葉を続ける。


「もしかして私と貴女、以前どこかでお会いになっていたのですかっ?だとしたら本当にごめんなさい!私、貴女のことを……その、全然思い出せなくて……っ」


 こちらが黙り込んでしまった為に、どうやらシャーロットはそのような誤解を抱いてしまったらしい。そうして彼女は白金色の瞳を潤ませ、今にでも涙を零して泣き出しそうになり。その様子を目の当たりにしたラグナは堪らず、慌てて返事をする。


「ち、違う違う!俺たちこれが初対面だから!」


「……そ、そうなのですか?でしたら、何故私の名前を知っているので……?」


「え?あっ、あー……それは、そのー……」


 どうにかシャーロットを泣かせずには済んだものの、当然の疑問を直球ストレートに彼女からぶつけられ、ラグナは答えに窮し、どもった末に。


「……知り合い。そうだ、知り合い知り合い。知り合いの奴から聞いたんだよ。この薬屋のことを教えてもらうついでに、さ。あは、ははは……」


 という、如何に甘く見積もっても苦しい、その場凌ぎにすらならないラグナの返答────


「……そうでしたか」


 ────それをシャーロットは特に疑うこともなく、どころか嬉しそうにその顔を綻ばせて、素直に受け入れるのだった。


「お、おう」


 会って数分。話して二言三言。たったそれだけの間でも、シャーロットの人の好さ、彼女の純真無垢さを。己が身を以て体感したラグナは、たとえ一時いっときの為の嘘であったとしても、罪悪感を抱かずにはいられなかった。


 ──ごめん……。


 と、心の中で謝るラグナのことを他所に。徐に、シャーロットはその場から歩き出し、ゆっくりと空き家の方へと歩み寄っていく。


「……懐かしいです」


 そっと、空き家の壁に触れながら。そう呟いた通りに、懐かしむ微笑みを浮かべるシャーロット。


「本当に、懐かしいのです……」


 その時、何気なく壁に触れているシャーロットの手を見やったラグナは、そこで初めて気づく────彼女の薬指に嵌められている、銀の指輪に。


 ──…………。


 ラグナとて理解している。それが一体、どういう意味なのか。それくらいのことは、わかっている。


「シャーロット、さん。一つ訊いてもいいか……ですか?」


「敬語を使う必要はないのですよ。私は気にしないのです」


「……悪い、助かる。それでさ、どうして今日ここに、一体何の用があって来たんだ?いやまあ、俺が訊くことじゃないってのはわかってんだけど……」


 そのラグナの問いかけに対して、シャーロットがすぐに答えることはなかった。彼女は何も言わず、空き家を見上げ────唐突に、ゆっくりとラグナの方を振り返る。


「もうここに帰って来れるのは、これで最後になりそうだから」


 と、答えるシャーロットの顔には依然として微笑みが浮かんでいたが、先程とは違って淋しげな翳りが差し込んでいた。


「本当なら昨日……『出品祭オークションフェスタ』の開催日には帰れようにしたかったのですけど。今日しか、時間が取れなくて」


 そう言いながら、空き家────嘗ての自分の店の壁に、指先を愛おしそうになぞらせるシャーロット。そんな彼女の姿を見やりながら、ラグナは安堵していた。


 気の毒ではある。しかし、結果的にはこれで正解だった。そう、これで良かったはずだ。


 未曾有の事態に陥り、大混乱の大騒ぎとなった今回の『出品祭』。シャーロットはそれに巻き込まれずに済んだのだし。そして何よりも、彼女は。それが一番大きい。


 ……たとえ、


 ──いや、シャーロットならもしかして……。


 が、その時ラグナは淡く仄かな期待を抱く。シャーロットに対して────否、他の誰でもない彼女だからこそ。その期待を抱いてしまう。抱かずにはいられない。


 確かめることは簡単だ。先程と同じように、名前を確かめたように。ただ、訊いてみればいい。


 だがしかし、先程以上に憚られる。シャーロットの左手の薬指にて輝く、その銀の指輪が。ラグナですらも、躊躇わせる────が、それも一瞬のこと。


 ──……始末ケジメはつけねえと、な。


 と、心の中で呟き、一呼吸置いてから。


「ついでにも一つ、いいか?シャーロット」


 シャーロットのことを真っ直ぐに見据えながら、口を開き、ラグナはとうとう切り出す。


「……は、はい」


 そんなただならぬ、尋常ではないラグナの物々しい雰囲気に。シャーロットは気圧され、緊張し、畏まった風に頷いた。


 そうして、遂に────






「…………ライザー=アシュヴァツグフって名前に、聞き覚えはないか……?」






 ────と、その名を口に出して、ラグナはシャーロットに訊ねた。


 シャーロットはすぐに答えず。先程ラグナに自分の名前を言われた時と同じように、目を丸くさせ。少ししてから、彼女はようやっとその口を開かせて、ラグナに告げる。


「貴女ご存知なのですか?」


 今度はシャーロットの言葉を聞いた、ラグナが目を丸くさせる番であった。


「……っは?」


 そしてまたしてもシャーロットと同じように、少しの間を置いてから、そんな素っ頓狂な声を漏らすラグナ。けれど、それも無理はない。


 シャーロットは言った。彼女は確かにこう言った────貴女ご存知なのですか、と。も、ということは、つまり。


「し、知ってるのか?覚えてんのかっ!?忘れてないのかッ!?」


 今し方、それもこちらが勝手に抱いたその期待。それがよもや、応えられようとは。ラグナは露とも思っていなかった。何かの間違いか、或いはありきたりな奇跡でも起きない限り、あり得ないことと思っていた。そう思っていた、矢先のことで。


 堪らずその場から慌てて駆け出し、そして危うく転びそうになりながらも。ラグナはシャーロットの元に駆け寄り、その勢いのまま彼女の肩を掴んで、そうして詰め寄ってしまう。


「ちょ、ちょっと……落ち着いて、ください……!?」


 なので当然、シャーロットもそのような反応をして。そう言葉をかけて、どうにかラグナのことを落ち着かせて、冷静さを取り戻させようとする。


「あ、わ、悪い……つい」


「いえ、気にしないでください。……それで、はい。覚えてもいますし、忘れてもいないのです」


 という、シャーロットの言葉を聞いて。ラグナは歓喜と安堵、その両方が入り乱れた思いを胸の内に広げて。それと同時に肩の荷が下りたような虚脱感に襲われ、膝が崩れそうになり。


 しかしその直前で彼女の指輪のことを思い出して、そう素直に喜べない状況には変わりないことを改めて認識する。


「少し待ってくださいね。えっと確か……」


 そんなラグナの複雑な心境を知ってか知らでか、シャーロットはそう言うと、徐にバッグの中に手を入れ、覗き込みながら探り始める。


 一体どうしたのかとラグナが思った、その時。


「ありました。これなのです」


 と、言いながら。シャーロットがバッグから取り出し、ラグナに見せたのは────一枚の冒険者証明書ランカーパス






『ライザー=アシュヴァツグフ』────その名前が、それには記されていた。






 ──……ああ。


 シャーロットが手に持つ、その冒険者証明書を見て。ラグナは全てを察した。つまり、要はそういうことだ。


 あんなにも浮き足立っていた自分が馬鹿らしい。間抜けにも程がある。


 そして今更ながらに、ラグナは思い出した────











で、だよ」











 ────この世界の奇跡や運命の根源は、余程のろくでなしなのだということを。


「実を言うと、これも今日私がこの街に帰って来た理由で。何故私がこのような、冒険者証明書ランカーパスを持っているのかはわかりませんが……とりあえず、『大翼の不死鳥フェニシオン』のGMギルドマスター様に届けないとなのです」


 別にシャーロットが嘘を言っていた訳ではない。確かに彼女はライザーの名前を知っていたし、忘れずに覚えていた。


 そう、知っていたで。忘れずに、覚えて────、謎の所有物に記された、の名前を。


 であればここはシャーロットに。こうしてわざわざ律儀にも、冒険者証明書を届けにこの街へ帰って来た、そんな彼女に。そう、感謝すべきだ────そんなことくらい、ラグナとてわかっている。


「……そうだったんだな。なら丁度いいや、それ俺に預けてくれよ」


 至極、この上ないやるせない気持ちを誤魔化すように、笑顔を浮かべながら。ラグナはそう言って、シャーロットに手を差し出す。


「俺、『大翼の不死鳥』の冒険者ランカーだからさ」


「え?貴女のような女の子が、冒険者……」


 だが当然というべきか、シャーロットの反応はかんばしいものではない。戸惑いの表情で半信半疑に呟く彼女を見やり、ラグナは歯痒さにやきもきとしてしまう。


 ──やっぱ俺の冒険者証明書を見せなきゃ駄目か。


 と、ラグナが思った矢先。


「……わかりました」


 そう言って、シャーロットは特に躊躇うことなく、ライザーの冒険者証明書をラグナに差し出すのだった。


「ちょっと待ってろ。今俺のも見せ……は?え、いや……あ、預かってもいいのか?俺が?」


 こんな十代半ばの少女(あくまでも見た目はだが)でも、『大翼の不死鳥フェニシオン』に所属する冒険者であることを証明する為に、自分の冒険者証明書を取り出そうとしたラグナだったが。そう言ったシャーロットと、言った通りに差し出された冒険者証明書を交互に見ながら。今度はラグナが驚愕と困惑の声を上げる番だった。


「はい。貴女が嘘を口にするような、そんな悪い子だとは思えません。だから、私は信じます。貴女を信じて、渡します」


「……おう。そういうことなら、じゃあ遠慮なく」


 そうして、ラグナはシャーロットから受け取った。己が顔に残したこの傷痕以外に、と言っても過言ではない、ライザー=アシュヴァツグフが。確かに、この世界に存在した、文字通りのその証────彼の冒険者証明書ランカーパスを。


「……そろそろですね。短い間のことで、それも多くのことを話せた訳ではないですが。それでも、私なんかの話を聞いてくださって、ありがとうございました」


「ああ。俺も、その。シャーロットと会えて良かった。こうして話せて、本当に良かった」


「そ、そうなのですか?……そう言われるとなんだかちょっと、恥ずかしいのですが。でも、それ以上に嬉しいのですよ」


 そうして、ラグナとシャーロットの会話は終わりを告げ。彼女はラグナに別れの挨拶を送り、踵を返して背を向け、ゆっくりとその場から歩き出す。


 ──……。


 徐々に、だんだんと遠去かるシャーロットの背中。自分と同じくらいには小さいその背中を、ラグナは黙って見送る────




『もし、シャロに……彼女に会うことがあれば。会えたのなら、伝えてください』




「……シャーロット!」


 一体どうすることが正しいのか。この時、自分は一体どうするべきだったのか────それはもはや、ラグナにはわからない。


 だが、それでも。


「?はい、何でしょう?」


 責任は果たさなければならない。今やそれだけが、自分がライザーの為にしてやれることなのだから。


 呼び止められ、その場で立ち止まり、振り返ったシャーロット。そんな彼女のことを、ラグナは静かに見つめる。


 見つめて、少し。ラグナは目を閉じ、数秒の沈黙を経て────






『さようなら。今まで、ありがとう』






 ────はっきりと、確かに。他の誰でもないシャーロットへ、託されたその言葉を届けたのだった。


「……」


 シャーロット=ウィーチェにとって、ライザー=アシュヴァツグフは顔も知らない赤の他人でしかない。何故自分が持っていたのかもわからない、冒険者証明書ランカーパスに記されていた、名前でしかない。それ以上でも、以下でもない。


 この世界オヴィーリスける奇跡や運命には期待しない。あのようなろくでもない碌でなしなどに、人間の心を動かすような、感動的な結末を用意できるはずがない。できることといえば、お粗末な奇跡や悪趣味な運命で、人々を玩具おもちゃのように扱いながら、そうして好き勝手に弄ぶことくらいものだろう。


 だからこれは、紛れもなく、奇跡や運命に頼ることなく。ライザーが己の手で引き寄せ、そうして掴み取った結果に違いない。


「……あ、ぇ……?」


 と、困惑の声を漏らしながら。シャーロットは指先で拭う。けれど、少しもしない内に────彼女の瞳から新たな涙がまた零れて、頬を伝って流れていく。


「あ、あれ?す、すみません……どうやら、目にゴミ、が……」


 そう言っている間にも、次から次へと止め処なく、シャーロットの瞳からは涙が零れて、溢れて。やがて彼女はその場にゆっくりと、崩れ落ちるようにして座り込んでしまう。


「ちょ、大丈夫かっ?」


 これにはラグナも流石に焦り、慌ててシャーロットの元に駆け寄る。


「……すみまっ、せん……っ。じぶ、ん、でも、よく……わからない、のです……っ」


 と、嗚咽混じりにそう言って、シャーロットは徐にラグナの肩を掴み、そのまま倒れるようにしてラグナに寄りかかる。


「ごめん、なさい……!ごめんな、さい……っ!」


 そしてあっという間に、本格的に、シャーロットは泣き出した。まるで幼い子供のように、恥じることなく、遠慮することなく。思い切り声を上げて、思い切り泣き続ける。


 ──……なあ、ライザー。


 そんなシャーロットに寄り添い、優しい眼差しで以て見つめながら、ラグナは心の中で静かに呟く。


 ──こうしてお前の為に泣いてくれる奴がいて、良かったな。











「……その。先程はお見苦しい姿を見せてしまって、しかもご迷惑もおかけしてしまって。本当の本当にすみませんでした……」


「気にすんな。意味わかないこと言って、あんなに泣かせたのは俺なんだし。寧ろ俺の方が悪いっていうか……ごめんな」


「い、いいえ!悪いのは私ですっ!急に、しかもあそこまで泣いてしまった私、なのです……!」


「……んじゃ、お互い様ってことで」


 今朝方もこれと似たようなやり取りがあったことを思い出しながら、ラグナはそう言って。続けて、シャーロットに訊ねる。


「そういえば大丈夫なのか?時間」


 という、ラグナの指摘を受けて。シャーロットはハッとした表情を浮かべた。


「そうなのでした……今日は本当に、本当の本当にありがとうございました。えっと、貴女……ああ!いけません!」


 突如として悲鳴を上げたシャーロットは、すぐさまこう続ける。


「そういえばまだ貴女のお名前をお訊きしていないのです!私ったら、なんて失礼な……」


「ああ、いいっていいって。ラグナ。それが俺の名前」


「ラグナ様、ですね。この御恩と共に絶対に忘れないのです」


「ラグナでいい。俺もシャーロットのこと、こうやって呼び捨てにしてるし」


「ですが……いえ。わかりました、ラグナ」


 と、そこで一転、真剣な表情となり。シャーロットは改まった様子で、ラグナに言う。


「貴女に折り入って、お願いがあります」


「お願い……?まあ、俺にできることなら」


 安請け合い────という訳では、決してないが。ラグナとしては他でもないシャーロットの頼み事は、断れそうにない。一体彼女が自分にどんなことを頼むのか、恐れ半分、そして興味半分でラグナは構えて待つ。


 そんなラグナに対して、シャーロットがその頼み事を口に出す。


「先程受け取って頂いた冒険者証明書ランカーパス……ライザー=アシュヴァツグフ様の冒険者証明書。それは、ラグナが持っていてくれませんか」


 それを聞いたラグナは、一瞬目を大きく見開いて。それから口もまた開かせる。


「そりゃあ、別にいいけど……でも、何で俺に持っててほしいんだ?」


「……何で、でしょうね。実を言うと、私にもわからないのです。わからないのですが、ラグナだからこそ、持っていてほしいということだけはわかるのですよ。本当に、一体どうしてそう思うのかはわからないのですけど」


 そう言って、不思議そうにしながらも、シャーロットはころころと笑う。そんな彼女の笑顔を目の当たりにしたラグナは、なんだか救われた気分となるのだった。


「そういうことならわかった。大船に乗ったつもりで任せてくれ」


「あらあら、頼もしいのです。……そういえば、ラグナは少し変わっているのですね。自分のことを俺だなんて呼ぶ女の子、私初めて会いました」


「……あー……まあ、それには事情があるっていうか、なんていうか……うん。テキトーに流してくれ、そこは」


「……ふふっ。ええ、わかりました」


 そう言って、少しの静寂が流れた後。徐に、シャーロットがその口を開く。


「これで私は行きます」


「おう。気をつけてな」


「はい」


 そうして踵を返し、ラグナに背を向け。再び、その場から歩き出すシャーロット────が、その途中で。


「ねえ!ラグナ!」


 ラグナの方へと振り返って、シャーロットが言う。


「私、いつかまたきっと、この街に帰って来るのです!なので、その時はまた会いましょう!会って、そしてまた、その冒険者証明書ランカーパスを見せてほしいのですよ!」


 と、遥か頭上に広がる、雲一つとない晴天の如く。何処までも晴れ渡った満面の笑顔で言ったシャーロットに。


「……ああ!」


 ラグナは譲り受けた冒険者証明書を────他の誰でもない、ライザーの冒険者証明書を、はっきりと見えるように。


 もう何処にもいないのだとしても、シャーロットだけには見てもらえるように────そう願いながら、ラグナは目一杯めいっぱい、宙へと掲げるのだった。

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