その時手に持っていたカップを、辛うじて落とさなかった僕を、僕は褒めてやりたい。
「…………え……」
と、だいぶ遅れて、
「……それ、本当なんですか?……すみません。冗談では言わないですよね、こんなこと」
そしてまた沈黙を挟んで、僕はそう言うのだった。
「ああ。打ち明けるのがここまで遅くなって、すまん。……本当に申し訳なかった」
そしてそんな僕に対して、目の前に座るその人────今日この喫茶店、『ヴィヴェレーシェ』に僕を呼び出した当人たる、ロックス=ガンヴィルさんはそう言い。僕に向かって、深々とその頭を下げるのだった。
「……」
普段の僕であれば、即座に止めていた。だが、今だけは止める気にはなれないでいて、その気になれなくて。
そのまま、手に持つカップを口元にまで運び。
カタン──そうして、僕はようやっとそのカップをテーブルに置くのだった。
「正直に言えば、思うところはあります。とりあえず、頭を上げてください、ロックスさん」
この間、頭を下げていたままだったロックスさんが、僕に言われてようやく、再び顔を上げる。
これまでの最中で初めて目にする、これ以上にない程の、真剣な表情のロックスさんに。僕は数秒の沈黙を挟んでから、訊ねる。
「先輩にはもう、打ち明けてるんですか?」
数秒が過ぎた。それから十数秒も過ぎた。けれどそれでも、ロックスさんがその口を開くことはなかった。
──……貴方という人は……ッ!。
と、僕は堪らず心の中で吐き捨て。腹の底から沸々とするこの憤りを抑えるよう、テーブルの下の手で拳を握る。
……だが、だからといって、そんなロックスさんのことを。僕は責める気にはなれなかった────否、責められなかった。
何故なら、僕だってロックスさんと同じ立場だったら。きっと、そう簡単には打ち明けられないだろうから。こんなことは、特に。
「……ただ、
「でしょうね」
そうしてようやっと、ロックスさんが閉ざしていたその口を開かせ。それに対して、僕は短くそう返す。
……そう。ロックスさんの言う通り、恐らく先輩は先輩で察しているだろう────
『なら、他の奴……ジョニィも今帰って来てんのか』
『そうか』
『…………』
────今思い返せば、思い当たる節が幾つもある。
……察しが悪い自分の鈍感さに、心底腹が立つ。
「……とにかく。話はこれで全部ですか?ロックスさん。まだ何か、僕や先輩に言ってないこと……隠していることはありませんか」
と、意識せずとも少し、棘を含んだキツい声音や口調になってしまう自分に、半ば呆れてしまう。
今朝先輩にも子供だと言われてしまったが……なるほど確かに、我ながら全く以て本当にその通りだ。
「ない。話していないことも、隠していることも。これで全部さ」
「わかりました」
そう言うと同時に、僕はカップを持ち、口元に運び、縁を口につけ────一気に傾け、すぐさま珈琲を飲み干す。
「僕はこれで失礼します。先輩との待ち合わせがあるので」
「ああ。時間を取らせて悪かった。詫びって訳じゃないが、その珈琲は奢る」
「ありがとうございます」
言い終えた僕は椅子から立ち上がり、踵を返し、ロックスさんに背を向け。そうして、その場から歩き出す。
「……クラハ」
少しして、不意にロックスさんが口を開いた。
「
「……肝に銘じます」
という、少々唐突なロックスさんからの、親切な忠告に対して。僕は少しの沈黙を挟んでから、淡々と返し。
そうして、僕は喫茶店『ヴィヴェレーシェ』を後にした。
やはり、僕はロックスさん────否、ロックス=ガンヴィルという人間のことが、よくわからない。
──人は死ぬ。遅かれ早かれ必ず、いつかは。誰だって、誰隔てなく、人は死ぬ。
そんなことは当たり前だ。今更こうして、改めて考えるまでもない、世界に
『……先程の我が魔力の爆発は我自身を巻き込んで、ここに在る全てを吹き飛ばし、消し去る威力だった。そのはずだ。そのはずだった……そうだった、はずだ』
『何が起こった?いや、
『ぐっ……おのれ、おのれおのれおのれッ!この、
──そのことについてはもう、考えないって決めただろ。
と、今となってしまっては思い悩むこと自体、もはや不毛となったそのことを、即座に頭の中から振り払い、消し去って。そうして、僕は己を律する。
それはさておき────
例えそれが
──……。
正直に言ってしまえば、ジョニィさんとの交流の機会は然程多くはない。
何故ならば────
『……認め、ねえ。俺は認めねえ……認めねぇえええええッ!』
『俺は認めねえ!こんな、こんなの俺は絶対に認めねえぞッ!!』
『覚えとけ……覚えとけよ!いつか必ず、俺がお前をぶちのめしてやるッ!』
『この借りは返す……絶対に、絶対にだッ!!』
『わかったな!?──────クラハァッ!!!』
────……そういうことがあった直後で、その時期の僕は『
そんな時、自ら進んで僕に話しかけ、接してくれた人が。他の誰でもない、ジョニィさんその人だった。
『まあ、あれだな。その
という、ジョニィさんなりの励ましの言葉を。僕は一度だって忘れたことはない────そして今後も、僕は忘れない。
「よっ。待たせたか?」
「いえ。僕も少し前に着いたばかりです」
人は死ぬ。遅かれ早かれ必ず、いつかは。誰だって、誰隔てなく、人は死ぬ。
そんなことは当たり前だ。今更こうして、改めて考えるまでもない、世界に
だからきっと、何かしらがあって。そうして、この人もいつかは……。
「……ん?なんだよ、クラハ。俺の顔にまた何か付いてんのか?」
「いや、そういう訳じゃないです。すみません、ちょっとぼんやりとしてました」
「ふーん。まあ別にいいけど。そんじゃあ、さっさと行こうぜ」
「はい。行きましょう」
約束されてはいない、いつか。確実に、絶対に訪れる、いつか。それは明日か、明後日か。数年後か、数十年後か。或いは、今日この時なのか。
そんな神のみぞ知る、彼方の刻に。あまりにも矮小な想いを馳せながら。その横顔に────一般的な美醜の観点からして、魅力を損なうことは明らかだろうその傷痕に、こちらの視界も意識も奪われながら。この不安に対して、無視できない危惧を抱く。
果たして僕は、この人の喪失に堪えられるのだろうか────
「…………」
────そんなの、考えるだけでも。背筋が凍って悪寒が駆け抜ける。あまりにも悍ましい怖気に全身が粟立つ。
「……」
「色々ありましたね。本当に、色々と」
と、心の底からしみじみと呟く僕に。心身共に疲弊し切りにし切った様子で、青々とした芝生の上に寝っ転がる先輩──既に髪や服に纏わりついていたスライムの死骸は魔力となって霧散し消え失せた──が、小さな声で弱々しく呟く。
「……確かにな……」
「実際には一ヶ月と少しの間の出来事ですが、僕にとっては三、四年のことのように思えますよ」
「……だな……」
「先輩。これに懲りたら、もう調子に乗ってスライムの大群に一人で突っ込むなんて無茶無謀な真似、しないでくださいね」
「…………」
という、僕の老婆心からの忠言に対して。先輩は何も言わず、むっつりとした不服げな表情を浮かべるだけで。そんな先輩に半ば呆れつつ、仕方なく思いながら、僕は先輩に手を差し伸べる。
僕の手を数秒見つめた後、先輩もまた己が手を自ら持ち上げ。そうして、僕の手を掴み、握り。僕のことを引っ張るようにして、芝生から立ち上がる。
「それじゃあ街に帰りましょうか」
「おう。帰ったらもうそのまま『
「いえ、その前にアルヴスの店に寄らせてください。
「あいよ」
『お前、ここ数日の間に死ぬかも』
──……あの不吉極まりない魔石を今すぐにでも捨てさせなければ。
と、アルヴスに対して少々理不尽な怒り──その自覚はしている──の矛先を向ける最中、僕と先輩は共に並び、共に歩く。
これといった根拠などない、漠然とした予感だが。恐らくきっと、今回のことは謂わば蝶の羽ばたきのようなものだろう。
そのどちらにせよ、今後は。もっとどうしようもない程に度し難い困難。または救い難く救われ難い試練。それらの
僕は面白半分に突き落とされ、そして道化の如く踊り狂う羽目になるのだろう────自分の周囲の全てを勝手に、一方的に巻き込み、その
──……だとしたら、僕は生きてて良いのか……?本当にこのまま、生きていて…………。
良いはずはない。そんなこと、考えずともわかる。
助けられるのは、この手が届く
そんな無力で無責任極まりない、最低最悪の自分など。やはりあの時、死んでしまえば──────────
「クラハ」
──────────こちらを呼ぶその声に、呆然と顔を上げると。少し先で立ち止まり、そして振り返っていた先輩の姿が、僕の視界に映り込んだ。鮮明に、綺麗過ぎる程隅々まで、鮮明に。
「んなとこでぼーっと突っ立ってないで、早く行くぞ?」
「……はい。今行きます、ラグナ先輩」
やはり駄目だ。幾ら考えないようにしても、駄目なものは駄目────だとしても。
せめてもの償いとして、僕は生きる。贖う為に────そして何よりも、他でもないこの人と共に在る為に。
「最後に言っておく。お前は決して、報われない」
僕は向かい合おう。報われないその結末を最期に約束された、運命の物語と。